二話 「しっかし、まいったね。どうも。どうすりゃいいんだ、これ」
気が付いたとき、りあむは寝起きのようなまどろみの中にいた。
一度体を丸めてから、大きく背筋を伸ばす。
今日は何曜日だったか、仕事に行くのか、それとも家事をせねばならないのか。
そんなことを考えていたりあむだったが、すぐにはっとして身体を跳ね起こした。
記憶が確かならば、りあむは死んだはずなのだ。
職場へ向かうために自転車をこいでいたところ、突然横合いから凄まじい衝撃を受けた。
ド田舎の山沿いの道で、近くには車も走っていない。
一体何が起きたのか、と思っていたりあむの目に飛び込んできたのは、巨大な猪であった。
りあむがその土地に来たのは、就職のためである。
田舎だ田舎だとは思っていたが、まさか化け物みたいな猪までいるとは思わなかった。
日本の大体の山野には猪が居るものなのだが、都会で生まれ育ったりあむには実感がなかったのだ。
このままではケガをする、と思ったりあむは、自分が落ちていく方向に視線を向けた。
だが、そこにはあるはずの地面が無い。
ちょうど崖になっているところで吹き飛ばされたのだ。
地面ははるか下。
しかも道路になっており、硬そうなアスファルトが敷かれている。
あ、これは死んだな。
そう思ったときには意識が飛んでおり、気が付いた時には、あの不動産屋のような場所にいたのである。
記憶をたどりながら、りあむは眉間を押さえて溜息を吐いた。
確認の為に、自分の両手を持ち上げてみてみる。
すらりと美しく滑らかな指に、柔らかそうな手のひら。
を、透けて、向こう側が見えている。
足なども見てみるが、やはり透けていた。
ついでに言うと、着ているワンピースのような服も透けている。
「マジか。あれ夢じゃなかったのか」
目が覚めたら病院のベッドの上。
そんな展開だったらどんなに良かったか。
残念ながらりあむは、本当に「木の精霊」とやらになってしまったらしい。
ふと気が付いて、周囲を見回してみる。
一番近くにあるのは、木だ。
正確にはわからないが、大体10から12メートル程度はあるのではないだろうか。
りあむはその中間あたりの木の枝に立っていた。
あまりに違和感なく立っていた自分に驚いたりあむだったが、ふと足を空中に踏み出してみる。
何もないはずの空間に、踏み出すことが出来た。
空気中というより、水中にいるような感覚、とでもいえばいいのだろうか。
まるで空気の中を泳ぐように、移動することが出来るのだ。
精霊というのは、どうやらそういうものらしい。
さらに周囲を見回してみると、周囲がやたらと暗いことに気が付いた。
目を凝らしてみると、急に視界が良くなっていく。
どうやら、この体は夜目が利くらしい。
そのおかげで、周りの様子を知ることが出来た。
周囲は、土か岩の壁のようになっている。
洞窟、というのが一番近いだろう。
人工物かどうかは、りあむには判断が付かなかった。
洞窟内は円形になっているようで、かなり広い。
その中央に、りあむの本体である木が生えているようだ。
天井もなかなかに高く、木の二倍から三倍程度の高さがあるように思われた。
どうやら、円柱状の空間になっているようだ。
目を凝らせば、光が差し込んでいるのが分かる。
どうやら穴が開いているらしく、日の光が入ってきているようだ。
青空が見えることから、今は日中らしいことがうかがえた。
といっても穴はさして大きなものではなく、光の量も乏しい。
「あの光の量で育ってるのか? この木」
りあむは立っていた木の枝から離れ、木の全体が見渡せるところに移動した。
一見して、不気味な印象の木だ。
枝はねじくれており、枝分かれする箇所が奇妙に膨らんでいる。
奇妙と言えば、葉っぱもそうだった。
イチョウのような形状なのだが驚くほど分厚く、黒に近い緑という色合いをしている。
見たことが無い種類の葉だが、ここは異世界だ。
りあむが見たことが無くても、当然だろう。
「あれ、実かなにかか?」
枝には葉っぱのほかに、巨大な果実らしきものが実っている。
1m弱はあるだろうか。
近づいてみると、表面はツルっとしていることが分かる。
真っ白なナス、とでもいえばいいのだろうか。
手を触れてみると、張りとともに微妙な弾力を感じる。
ただ、確かに感触はあるのだが、実はピクリとも動かない。
今のりあむには、モノに触ることは出来ても、動かすことは出来ないようだ。
「まあ、精霊らしいからなぁ。ほかにもいろいろ確認してみないと判断付かないけど」
りあむはふよふよと空中を漂い、元居た枝の上に座った。
そこが一番座り心地が良かったからだ。
「しっかし、まいったね。どうも。どうすりゃいいんだ、これ」
ため息交じりに、呟く。
実際、どうしていいか見当もつかない。
現実逃避として、ワンピースのスカートをまくり上げてみた。
どうやら精霊の体は、下着をつけていないらしい。
足の付け根の部分を注目して見ると、あるべきはずのものがなく、また、無いならあるはずのものもなかった。
つるんとしていて、マネキンを思わせる状態になっている。
「わぁお。マジ、か。え? いや、え? ま、マジで? うっそ、マジで? これ、いや、思ったよりも衝撃なんだけど。 え?」
現実逃避のはずだったのだが、目が覚めてから一番の衝撃になってしまった。
りあむが「マジで?」を繰り返しながら股間を確認していると、突然頭上に鈍い衝撃が走る。
「うをぉおおい!?」
慌てて周囲を見回すと、近くに茶色い物体が浮遊しているのが分かった。
非常に分厚く、大きく、しっかりとした作りの本である。
空中に浮いているその本は、ゆるゆると回転しているようだった。
おそらく、りあむの頭に落ちてきたのは、コレだろう。
一体何なんだと、りあむは本を睨んだ。
そして、表紙の文字を見て、はっと目を見張る。
「木の記憶? なんだ、そりゃ」
表紙には、「木の記憶」と書かれていたのだ。
ただ、それはどう見ても日本語ではなかった。
にもかかわらず、何と書いてあるかわかるのだ。
奇妙に思いながらも、りあむは恐る恐ると言った様子で手を伸ばす。
すると、本の一部が光を放ち始める。
どうやらあるページが光っているようで、電球のような暖かな光が漏れているのだ。
りあむはおっかなびっくり、そのページを開き、書かれている文字を読む。
木の精霊へ。
この本は、本体である木の記憶です。
本来、同一個体であるため、そういったものは共有されるモノなのですが、あなたの場合はこういう形になっています。
別に頭に情報を刷り込んでおいてくれればよかったのでは?
等と思うかもしれませんが、そうもいきません。
それをやると情報過多で頭がはじけ飛んだりするからです。
まあ、そんなことはともかく。
この本は、木の記憶であり、言ってみれば外部記憶領域のようなものです。
パソコンの外付けハードディスクだと思えば、まぁ、厳密には違いますが似たようなものでしょう。
ちなみに、何故本の形をしているのか、というと、あなたにとっての知識を取り込むものが、本のイメージだったからです。
もしあなたがラジオをよく聞いていれば、ラジオの形になっていたかもしれません。
ハンドスピナーの形だったら、ハンドスピナーになっていたでしょう。
どうやってハンドスピナーから知識を取り入れるかは知りませんが。
なんにしても、この本はあなたが知識を必要として、その知識が木の記憶の中にある時、光を放って知らせます。
あなたがそのページをめくって読めば、木の記憶を得ることが出来るわけです。
ただ、あまり木の記憶を過信してはいけません。
ずっとこんな辺鄙なところに生えていた木に、外の世界の一般常識とかなんてわかるはずがありませんし。
ぶっちゃけ、木についてのこととか、このあたりのことが少しわかる程度だと思ってください。
また、この木の記憶は、光ったときではないと開くことが出来ません。
本に見えますが、これはあくまで木の記憶であり、記憶がよみがえるには思い出そうとすることが必要だからです。
「なるほど……なるほど、なのか? いや、まあ、なんか頼りないけど、ないよりは遥かにマシか」
りあむはそういうと、深い溜息を吐いた。
手を離すと、本、「木の記憶」は再び空中に浮かんだ。
どうやら、りあむと同じく、空中に浮くことが出来るらしい。
「にしてもこれ、ホントどうすんだ。ボケっとしとけばいいのか?」
りあむがこれからのことを考え始めた、その時だった。
背後から、何かが近づいてくるような音が聞こえてくる。
慌ててそちらを見ると、洞窟の一部に穴が開いているのがわかった。
子供が一人通れる程度の大きさで、先ほどは見落としてしまっていたらしい。
おそらくは、そこを通って何かが近づいているのだろう。
外部とつながっているのかもしれない。
緊張しながら、その穴を見据える。
念のために、木の本体の陰に隠れるりあむだったが、意味がある行為なのか、という疑問が頭をよぎる。
何しろ、本体はあくまで木なのだ。
それに隠れるのでは、本末転倒な気がする。
逆に、自分が体を張るべきなのか?
いや、それはちょっと怖いし。
等と考えている間に、音はどんどんと近づてくる。
どうやら足音らしいと判別するのと、ほぼ同時。
足音を響かせていた主が、姿を現した。
一見してそれは、人型の物体であった。
身長でいえば、140から150cmと言った所だろう。
全身は緑色で、若干頭が大きく、手は地面に着くほど長い。
顔は醜悪であり、奇妙にねじくれた角が二本額についている。
その姿を見た瞬間、りあむの頭の中に浮かぶ名前があった。
「ゴブリン!?」
ゲームや小説などと言ったファンタジー作品の中に登場する、ゴブリンそっくりの姿だったのだ。
何故ゴブリンが?
いや、精霊がいる剣と魔法の世界だ、そういうのもありなのか。
っていうか、ゴブリンがこんなところに何しに?
まさか、木を、自分を切り倒しに来たのでは。
焦るりあむを他所に、ゴブリンらしきものはずんずんと洞窟の中に入ってくる。
恐ろしいことに、ゴブリンは一体ではなかった。
最初の個体の後ろに、さらに二体のゴブリンが続いて入ってきたのだ。
「なっ、これ、どういうこと? どうすればいいの?」
りあむはテンパりまくり、右往左往し始めた。
改めてゴブリンを確認しようと、再びそちらへと目を向ける。
そこで、りあむとゴブリン三体の視線が、ぴったりと合った。
凍り付くりあむを他所に、ゴブリン達はおもむろに片手をあげ、一斉に口を開く。
「「「ままっ!!」」」
「はっ!?」
思わずそう言ってしまったりあむは、悪くないだろう。
いきなりゴブリンに「まま」などと呼ばれれば、おおよそのものが同じようなリアクションを取るはずだ。
りあむは、混乱のあまり何か別の言葉を聞き間違えたのか、と考えた。
だが、ゴブリン達はりあむを指さし、「まま」「まっま」などと言っている。
「い、一体、何がどうなって……はっ! そうだ! こういう時こそお前の出番だろ!」
りあむはワラにも縋る思いで、「木の記憶」を掴んだ。
願いは届いたらしく、一部のページが輝いている。
「よしよしよしよし!!」
りあむは慌てながらも、慎重に光っているページを開くのであった。
ハイ、という訳で、正解は「ゴブリンがなる木」でしたー!