氷獄図書館3
階段を下り終え地下四階に足を踏み入れた途端、一行が始めに感じたのは濃い水の気配だった。
「なん、だ……これは……」
「…………嘘だろ」
御剣と田中以下略が驚愕し、目が零れ落ちんばかりに見開いている。
「え、え? 何?」
状況のつかめないアメリアは混乱するばかりだが、続く御剣の言葉を受けて同様に驚いてしまった。
「……アメリア、地下四階はこんな風に浸水していないんだ」
「ええっ!?」
アメリアは前方に再び視線を戻す。
地下四階に初めて訪れたアメリアはこの光景が元々そうであると思っていたが、それは違った。
本棚や家具が規則正しく並んでいる点については今までの階層とそこまで大差はない。
しかし、現在の場所から視界に映る範囲内では何もかもが水に侵されていた。
何処からか水が流れ込んでいるのだろうか、階段の踊り場から先を良く観察してみると、水には静かだが流れがある。
試しにアメリアが指先を水の中に突っ込んでみると、痺れてしまうような恐ろしい冷たさだった。
「一体何があった? 何処かの壁に穴でも空いたのか?」
「分かりません、ですけど……水で足を取られるのはちょっと不味いですね」
田中以下略の言う通り、水に足を取られながら前進するのは非常に困難だと思える。
ましてやここは氷獄図書館の地下四階。今までで一番敵モンスターの数が多く、そして強いエリアだ。
人間型の悪魔系モンスターが相手ならば条件は対等だが、空を飛んでいたり、体長が非常に大きいゴーレム系が相手だとこちらは不利を強いられるだろう。
何より、この極寒の中で水濡れになりながら進むのは、御剣は冷気抵抗力が百%あるから別として残る二人には相当厳しい。
(どうすんだこれ……先に進むのは無理じゃないか?)
難しい表情の二人の話を聞きながら、アメリアは目前の光景をぽかんと眺める。
(……ん?)
その時、水の流れに乗って一冊の本がアメリアの前に流れ着いてきた。
しゃがみこんで、アメリアはそれを手にする。
(……濡れてない?)
水に濡れていなければおかしいというのに、その本は不思議と何処も濡れていなかった。
表紙はおろか中のページ全てに撥水加工が施されているかのように、水を弾いている。
魔法で保護されているのだろうか。
アメリアは不思議に思いつつも、その本を良く観察してみる。
(タイトルもなし、中身も白紙、か)
表題と中身が共に無い。
それはシャロミー宅で見た「真名の契約書」との共通項だ。
その点を考えるに、また羽ペンでも持てば何か文字が浮かび上がるかもしれないが、アメリアは残念ながら羽ペンを持っていない。
(……持ち帰っちゃお)
なので、アメリアはその本を密かに道具袋に仕舞った。
鑑定スキルを使って安全性を確かめていないアイテムを手に入れた事に多少の危機感はあったが、何故かアメリアはその本が気になったのだ。
御剣あたりにバレたら憤慨されそうなものだが、二人はこちらの様子には気がついていない。
いや、もしかしたら気がついていてもあえて泳がされている可能性もなきにしもあらずだが、アメリアはその可能性をあえて考えないようにした。
「それで……どうする? 一旦戻る?」
道具袋を消したアメリアが二人に問う。いかにも話を聞いていましたよという風を装ってだ。
「……悔しいがアメリアと同じ考えだ。こんな事態は想定していなかった」
御剣が現状を書き記しているのかメモ帳を片手に唸るが、そこに田中以下略が食って掛かる。
「いえ、俺は進むべきだと思います。もしこの状況がゲームが現実と化したせいで発生した現象なら、それを直す手段は地下四階の修繕作業しかありません。……そして、それは無理だと思うからです」
「どうしてだ?」
「俺は工事関係は詳しくないから素人意見しか言えませんけど、例えば潜水艦が浸水してしまった時に、その箇所を修理する為にはまず場所を特定する必要があるでしょう? 俺達にはその場所が分かりませんし、仮に場所を特定して浸水の原因を取り除いたとしても、今度は排水が出来ません」
「ふむ……」
「何かクエストをこなすとフラグが成立して、このエリアが元通りになる可能性もありますけど……」
「……そのクエストが見つかる保障も無く、そもそも存在しないかもしれない」
「……そうです、だから俺は進むべきだと判断します。この浸水が何時から始まったものなのかは知りませんが、時間的猶予がそれほどあるとは思いませんし」
「ほう」
「……なるほどなぁ」
田中以下略が御剣の意見に真っ向から反論し、今攻略する事の重要性を力説する。その姿勢には必死さが見え隠れしていた。
(……そりゃあ、田中からしたら今更戻ってられるかって話になる、か)
もしかしたら浸水のせいで「魂のインク」が流されてしまっている可能性もあるのだ。
田中以下略からすれば気が気ではないだろう。
たとえ一人だけでもこの先に進むと言いかねない。
アメリアとしては、そんな田中以下略は放っておけなかった。
「御剣さん、俺さっきは戻った方がいいかなって言いましたけど、やっぱり進みましょうよ。危なくなったらすぐに引き返せばいいですし」
「…………仕方ないな、田中ド―――田中の意見を尊重するか。但し、警戒を厳にし、万が一の場合は即座に撤退する事、これを厳守するんだ」
御剣が渋々頷き、同意する。
「御剣さん、アメリア……ありがとう」
思いつめた表情をしていた田中以下略が、二人に深々と頭を下げた。
「気にすんなって、な? 仲間だろ?」
「うむ!」
二人はそんな田中以下略の肩を叩き、頭を上げさせる。
「……へへっ」
田中以下略は照れくさそうに頬を掻いた。
・
「《ウンディーネの寵愛》」
念のために再び魔法を掛け直し、一行は浸水した地下四階へ足を踏み入れた。
アメリアと田中以下略の手には、「レジストコールドリング」が一つずつ嵌められている。
それらは水の冷たさを少しでも和らげる為に、御剣が二人に貸し与えたものだ。
一方で、御剣の両手の指全てに嵌っていた指輪のうち二つが、無骨な指輪に入れ替わっていた。
装備者の筋力を少量増加させる、「パワーリング」というアクセサリーである。
「『熱塊石』と対冷装備に、アメリアの魔法を合算して、冷気耐性は今のところ六十%ちょいってところか……?」
「ステータス画面が見られないから分からないけど、それぐらいじゃないか? でも、それだけあってもこの寒さはヤバい……!」
歯の根をカチカチと鳴らすアメリアと田中以下略。
高い冷気抵抗力を持ってしてもなお、氷獄図書館全体に漂う極寒の冷気と、ふとももの辺りまで飲み込む水の冷たさの会わせ技は耐え難いものがあった。
「あまり上半身を濡らさないようにして進め、体力を奪われるぞ」
御剣は「レジストコールドリング」を二つ外しても、アメリアの魔法のおかげで冷気抵抗力が百%に達している為、冷気の影響は微塵も受けていなかった。
しかし、だからといって我関せずと進んでいるわけではなく、御剣は二人の様子を何度も伺いながら先頭を進んでいる。
「ら、らじゃー……」
「イエスボス……」
後続の二人の声には覇気が無い。
あまり派手に動けない為ゆっくりと進んでいるが、それが逆に辛いのだ。
先に進むと言い出したのは田中以下略であり、それに同意したアメリアでもあるが、今はもう帰りたい気持ちで一杯だった。
「ぐ、ぐぅ……俺は諦めんぞ……!」
しかし、田中以下略の心は未だ折れていない。
全ては名前を変える為。ここが根性の見せ所だった。
「た、田中ぁ……帰ったら一杯奢れよな……!」
「一杯でも十杯でも奢ってやらぁ……!」
半泣きのまま、アメリアも必死になってついていく。
これが終わったら、もうしばらくは雪国には寄り付かないぞと、アメリアは固く心に誓った。
「静かにしろ!」
唐突に、御剣が声を潜め鋭く怒鳴る。
二人は慌てて口を閉じ、御剣のハンドサインに従い物陰に隠れた。
物陰からそっと様子を伺う御剣は、舌打ちをして苦い顔をする。
「(御剣さん、どうしたんですか?)」
パーティーチャットに切り替えた田中以下略が脳内で問いかけると、御剣が重々しく答える。
「(……ダンジョンボスの『ライブラリキーパー』が居る)」
「(うぇっ!?)」
御剣に習い二人も恐る恐る様子を伺う。
すると、そこには居た。
「―――オオオ、オオオ」
その姿は、フロストゴーレムと似ている。
氷で出来た身体、赤く光る頭部。
しかし、その身体の巨大さは規格外だ。
フロストゴーレムが二メートル程の高さだとすれば、ライブラリキーパーは五メートルにもなろうか。
当然横幅もそれに見合った巨大さで、本棚と本棚の間を通るライブリラキーパーは非常に窮屈そうに見える。
「オオオオオオ」
引きつるような叫び声を上げたライブラリキーパーが、足元の水を両手で掬い上げ自らの身体に浴びせる。
身体にかかった水はパキパキと音を立てて凍りつき、ライブラリキーパーの表層をほんの少し厚くした。
「(……何をやってんだ、あいつ?)」
物陰から見られているとはつゆ知らず、ライブラリキーパーは同じ動作をくり返し続ける。
「(あんな待機動作は見た事がないな……)」
「(……水浴び?)」
見たままでは水浴びをしているようにしか見えない。
だが、ゴーレムが意味も無く水浴びをするだろうか。
「オオオ、オオオ……」
その後もライブラリキーパーは何度か水浴びを続けた後、ばしゃばしゃと水音を立てながら、地響きと共にその場を去って行った。
「オオオ……」
(…………?)
その後姿が、どこか寂しそうなものに見えた理由が、アメリアには良く分からなかった。
「(……まぁいい、今のうちに先に進むぞ)」
「(は、はい)」
静かに進んだ御剣が素早く周囲を警戒し、敵がいない事を確認すると二人を手招きする。
トラップといった類にも気をつけながら、一行は浸水した地下四階を着実に進んでいった。
・
「この先に『魂のインク』がある筈だが……案の定、か」
ライブラリキーパー以外のモンスターとは奇跡的に遭遇しなかった為、思ったよりも早く一行は目的地にたどり着く。
迷路を模るように本棚が配置された地下四階の最深部、そこには扉が固く閉じられた部屋があった。
扉はちょっとやそっとの力では水圧でびくともしない。
「御剣さん、この先は?」
「ゲームの頃のマップ名で言えば、賢者の書斎だ。しかし……どうしたものか」
閉じられた扉を前に、御剣が悩むそぶりを見せる。
「無理やりこじ開けてもいいが、大きな音を立ててしまうとライブラリキーパーを呼び寄せてしまう。対策を万全にしていれば討伐してしまってもいいのだが、なにぶんこの状況はな……」
「……一気に目的の物を回収して、さっさと逃げるしかないですかね」
隠密行動に長ける職業のアサシンがいれば、「《音無し》」というスキルを使い極短い間だけ無音で行動できるが、ない物ねだりは出来ない。
御剣は意を決すると、アメリアに向いて確認をする。
「アメリア、煙幕玉は持っているな?」
「大丈夫です、ちゃんと持ってます」
アメリアは腰のベルトに結わえられた煙幕玉をコツンと叩いた。
「見つからなければそれに越した事は無いが、万が一の時は頼むぞ」
「はい!」
「よし……スピードが勝負だ。皆、準備はいいか?」
「OKです!」
「行きましょう!」
アメリアは背中の杖を、田中以下略はレイピアを引き抜き、御剣は刀の鯉口を切る。
「ゲーム時代にフレンドから得た情報が正しければ、『魂のインク』は部屋のどこかにある小箱の中にある。中に入り次第、片っ端から箱という箱を開けていけ」
そう言いながら、御剣は腰を落とし身体に力を込める。
「―――《居合いの太刀・三段》」
御剣が恐ろしい程の素早さで、一息の間に扉を三回連続で切りつけた。
静かに刀を鞘に納め音を鳴らすと同時に、幾つかのパーツに分断された扉が水の中に落ちて盛大に音を立てた。
御剣の後ろで立っていた二人は、急いで扉の残骸をどかして部屋の中へ侵入する。
それと同時に、地下四階のどこか遠くでライブラリキーパーの叫ぶ声が響いた。
「――――――オオオ!」
「急げ! すぐにこっちに向かってくるぞ!」
「小箱! 小箱はどこだ!」
「わあああ中も浸水してんじゃねえかクソッタレー!」
急いで御剣の言う小箱を探す。
悪態をつきつつも、アメリアは必死になって目に付く物を一つ一つ検めていく。
水の中に浮かぶ本を投げ捨て、何か水底に沈んではいないかと目を凝らし、部屋の中のインテリアをひっくり返す。
「箱だ!―――オルゴールかよ紛らわしい!」
田中以下略が優しげな音色を鳴らすオルゴールを放り投げ、水の中にぽちゃんと音を立てて沈む。
「ちっ、本しかないのかこの部屋には! 情報だけでなく自らの眼で確かめておくべきだった!」
珍しく御剣ですら慌てている。
「ひぃーっ! どこなんだよっ!」
書斎というだけあって、賢者が使用していたと思しき机もあるが、そこを漁ってみても何も見つからない。
もしかしたらとインク壺のようなものも探してみるが、見当たらない。
(―――赤い背表紙、『夢の中のシルビア』、第四巻だ)
「―――え?」
唐突に、アメリアの脳内に声が響いた。
年老いた男のようでいて、あどけない幼女のような。まるで正体の掴めない声だった。
「赤い、背表紙……夢の中の、シルビア……?」
急激に、周囲の環境音が遠くなったようだった。
忙しなく部屋の中を探し回る二人が立てる音は中々に騒々しいはずなのだが、リモコンで音量を下げてしまったかのように、遠く聞こえる。
アメリアの視線がふらふらと彷徨い、やがて一つの箇所に吸い寄せられる。
「……第四巻」
本棚にぎっしりと詰められた無数の本の中、背表紙が赤く、金字で夢の中のシルビアと題された本の、第四巻がそこにあった。
「……」
アメリアは無意識のまま、その本の背表紙を指で押し込む。
がこん、という衝撃があった。
「うおっ!? なんだあっ!?」
「アメリア!?」
「―――ぁ」
音が世界に戻ってくる。
段々と近づいてくるライブリラキーパーの地響きと、ぎこぎこと不気味な音を立てる本棚、そして驚きに満ちた田中以下略と御剣の声が聞こえる。
「………っ」
鋭い頭痛に顔をしかめる。
(なん、だ……? 今の……?)
頭を抑えつつ目の前を見ると、本棚が仕掛けによって動いて開き、そこから小さな小箱が乗った台座が出てくる所だった。
「なるほど、隠し場所があったのか……見つからない訳だ」
「すげえ! アメリア良くやった!」
御剣が関心し、田中以下略がアメリアに抱きつく。
「あ、ああ……」
(俺がやったのか……?)
今のは一体なんだったのか。
不思議な声が聞こえたと思ったら、気がつけば身体が動いていた。
一瞬の出来事だったというのに、まるで白昼夢のように現実感がない。
抱きついて喜ぶ田中以下略の黄色い声が、妙にガンガンと頭に響いて痛かった。
「田中ド―――田中、お前が持て。絶対に無くすなよ」
「ええ!」
田中以下略が念のために小箱の中を確認し、それを道具袋の中に大切そうに仕舞う。
「行くぞ! もうここに用は無い!」
「……っ、はい!」
御剣の飛ばした激を受け、ようやくアメリアの意識がはっきりとしてくる。
先ほどの現象について考えるのは後だ、今はとにかくこの場から脱出しなければならない。
そう考えたアメリアは、二人と共に部屋を抜け走り出す。
もう静かに動いたりはしない。
こちらの位置はとっくにばれている。
「しっかりついて来い! ここからが正念場だぞ!」
先導する御剣が叫ぶ。
足の速い御剣に続き、田中以下略が、続けてアメリアが後を追う。
「はっ、はっ、はっ!」
アメリアは必死になって走るが、流石に前衛職である二人と違い足が遅い。
それでも日本にいた頃よりかは走るのも早いしスタミナもあるのだが、こんな事になるのなら移動速度を上昇させるアイテムでも持って来れば良かったと後悔した。
「ま、まって……はあっ!」
足元を水に取られ思うようにスピードが出ない。
田中以下略の後に必死に食らいつくが、段々距離が開いていってしまう。
「右に曲がれ!」
T字路に差し掛かり、御剣が素早く右の通路へと駆け抜けていく。
「うおおおお!」
重たい鎧と足元を引っ張る水のせいでアメリアよりも辛いだろう田中以下略は、まるでそんな事を感じさせないかのごとく猛ダッシュしていく。
「ひぃっ、ひぃっ」
その後を、全身を跳ね返った水でびしょ濡れにしたアメリアが必死になって追う。
「お、おいてかな―――」
情けなくアメリアが叫んだその瞬間。
激しい破壊音が轟いた。
「―――アメリアッ!!」
「―――えっ?」
氷獄図書館の本棚をぶち壊しながら、ライブラリキーパーの巨体がぬうっと姿を見せる。
吹き飛んで来た本棚の残骸の一つが、アメリアの頭部目掛けて飛来する。
「あ」
アメリアの意識は、そこで途切れた。