第九話 特別な君
―(有賀陽平)―
十月も半ばに入り、夏の名残も完全に消えてしまった。
空気は冷たく澄み渡り、空も高く感じられた。
まさに、“天高く馬肥ゆる秋”という言葉にふさわしい季節だ。
そして、俺の心もまさにそう表現できるほど、普段は穏やかだった。
あの日、自分の想いを口にしてからそれまで抱えていた不愉快な気分が嘘のように晴れて、心が軽くなったと感じた。
彼女に出会ってから隠してきた事実と向き合ったことで、俺の中で決着がついたからなのだろうか。
今まで以上に、黒永さんのことが気になってしょうがない。
授業中でも、帰り道でも、自室にいるときも、彼女のことを考えると顔が熱くなる。
そして、彼女に会うとき顔が赤くならないように平静を装ってはいるものの、それが出来ている自信は正直ない。
黒永さんは俺のことをどう思っているのだろうか。
そう、俺が彼女を好きでも、彼女が俺を好きであるかは分からないのだ。
だからこそ、これから慎重に、ゆっくりと、少しずつ想いを伝えていけばいい。
俺はそう思っているから、今すぐに告白をしようとか考えることはなかった。
「とにかく、まずは東西京祭を成功させよう」
祭りの前日、俺は明日から始まる大騒ぎに備えて早めに寝ることにした。
―(黒永月夜)―
もやがかかった視界に映る不透明な壁。
その壁は自分の周りを囲い、完全にこの場所から出れないようだ。
コンコンと叩いてみても、素手で壊れるとは思えなかった。
そう思ったとき、これは夢なんだと、不意に思った。
時々、“夢を見ている”と分かることがある。
そして、そんな明晰夢と呼ばれる現象が一か月に一、二回ほど起こる。
何故そんなことが起こるのかは分からないが……。
ガラスのような壁の向こうには、真っ黒な空間が広がっている。
夜とは違う暗さのそれは、まるで夕日が沈んだ後の、空が秒単位で色彩を変えるあの時間のようだ。
夕方は刻一刻とその姿を変えるから、昔は化学反応を見ているような楽しさがあった。
けれど、今は違う。
どうしてなのか分からないのだが、不安と心細さと、そして怯えしか感じない。
いつからだろうか、一人だけの時間を求めないようになったのは。
そして、彼に会いたいと願い苦しむようになったのは。
自分と言う存在ですらこれほど人を恋しがるのは、やはり人は一人で生きていけない証なのか。
だけど、かつて、自分がまだ幼き頃に思った唯一つの事柄に対して、まだ正しいのか間違っているのかを導き出していない。
それが分かるまでは、断定してはいけない。
哲学的解釈や社会的意味、あるいはこの際、青春的理想でも良い。
誰か、この愚かな私に“答え”を――。
いくら心の中でそう願おうとも、誰も教えてはくれない。
だからこそ、私自身でその答えを確かめなければならないのだ。
―(有賀陽平)―
生徒たちの熱意や希望、夢などを背負った東西京祭に青春を賭ける者も少なくない。
芸術系の部活はこのときに様々な展示や発表を行うのだ。
そうでなくとも、色々な企画を立てて、生徒は楽しみ楽しませる工夫をこしらえる。
中学のときから思っていたけど、これだけ多数の生徒のパワーを抱える学校という場所は恐るべしの一言に尽きる。
そんなことを思いながら、俺は早朝の学校へ到着する。
太陽のまぶしさが、これからの二日間を明るく照らしているように見える。
それはきっと、今回の行事が成功するのだと言わんばかりに。
そう、今日は十月十五日の土曜日――つまり、東西京祭の初日である。
今、俺や新太郎、黒永さんたち手伝いの人間も含め、全ての東西京祭のスタッフが生徒会執行部室に集合していた。
生徒会長の坂梨の手で、俺たちスタッフの人間に配られていく黒いジャンパーと白い布。
「手伝いの皆さんにもこの黒いジャンパーと腕章はつけてもらいます」
彼の説明を聞いて、俺は改めて配られたものを見る。
ナイロン製のジャンパーはパーカー付きで、ファスナーや袖口は赤色だった。
左胸の部分には風と雷をモチーフにしたと思われるマークが入っており、背中には“Storm&Thunderbolt”とプリントされていた。
そう言えば、今年の東西京祭のテーマは“疾風迅雷”だ。
私的には普段着としても使えそうなこのジャンパーは疾風迅雷を表したものか。
一方、腕章と称された白い布は、ただ“東西京祭スタッフ”と書かれているだけだった。
「腕章は左上腕部につけてください。それと開催中はなるべく、ジャンパーを脱がないように」
どうやら、ジャンパーと腕章のセットで初めてスタッフとして認められるのだそうだ。
さすがに学ランの上からジャンパーは羽織れそうにないので、学ランを脱いで羽織る。
……ふむ、なかなか様になっている気がする。
女子はそのままセーラー服の上から羽織るようだ。
「さて、皆さん。もうすぐ東西京祭が始まります。皆さんも楽しんで仕事に励んでください」
そう言って、坂梨は右手を広げて前に突き出す。
執行部員はその手に重ねて、自身の右手をかざす。
それを見て俺たち手伝いも理解して、右手をおずおずと差し出した。
「東西京祭、必ず成功させよう!」
坂梨が右手を上に高く振り上げる。
「オオーッ!!」
俺たちは生徒会長の言葉に応える形で雄叫びを上げた。
午前八時五十分、開始まであと十分前だ。
こうして、東西京祭初日の幕が開けた。
当日の俺の仕事は、主に見回りだ。
新太郎や牧原さんも見回り、黒永さんや綾人は事務仕事を行っているはずだ。
しかし、こうして廊下を歩き回ってみても、何も問題はなさそうに見える。
そもそも、初日の今日は生徒や教師のみ――つまり学内関係者だけしか校舎にはいない。
廊下は人でごった返しているものの、部外者は一人もいない。
だから、見回り中のトラブルで頻度の高い迷子や道案内は発生することもないはずだ。
まぁ、見回りの最中に熱くなりすぎた生徒間で些細な揉め事に何度か遭遇したが、間に入って話を聴くと簡単に解決できることばかりだった。
盛り上がることは良いことなのだが、良い思い出にするためにも気をつけて欲しいものである。
「ん?」
ふと、誰かに見られているような気がして、辺りを見回す。
しかし、特別俺を見ているような人はいない。
先ほどから、いや祭りの開始直後ぐらいから視線を感じるのだが、一体誰が俺を見ているのだろうか。
それとも、ただの自意識過剰だろうか。
このジャンパーと腕章のために、否応無く目立つのだから仕方が無いか。
執行部員でもない人間が執行部員と同じ仕事をしているのだから、尚更だろう。
そう割り切って見回りを続けるが、終始誰かの視線を感じたまま、東西京祭の初日は終了した。
結局、今日は黒永さんと話をすることができなかった。
帰るタイミングも完全にずれてしまい、俺が執行部室に戻ったときには事務仕事組は先に帰っていた。
黒永さんはこの忙しい時でも論文を書くのは止めないと言っていたからしょうがないけど、それでも待っていてくれたらと淡い期待を抱いていた自分に気づき、また顔が熱くなる。
この調子では、黒永さんと一緒に帰るときには頭が茹でダコ状態にならないかと無意味な心配をしてしまう。
「陽平、一緒に帰ろうぜ」
「あ、ああ」
新太郎の誘いに頷きながら、明日こそ黒永さんと話が出来たらいいなと考えていた。
二日目は一般の方も交えて開催される。
その分、各団体の関係者は必死になって客の確保をしようとしていた。
ビラ配りに勤しむ人の数は昨日の倍以上いるように見える。
だから、そのビラが廊下にゴミとして落ちているのを見つけると、彼らの努力が踏みにじられているように感じてしまう。
俺はそんな風にゴミになってしまったビラを拾ってはゴミ箱に捨てていた。
また学校内の構造をよく知らない人が増えるわけだから、昨日考えていた通りのことも起こった。
具体的には母親とはぐれた幼児を保護したり、お化け屋敷をやっている教室はどこかとカップルに質問されたり……。
あまりの忙しさに、目が回りそうだ。
二階、三階、四階と順々に見て回り、五階に上がろうとしたとき、背中をポンポンと叩かれた。
誰だろうと思い振り返ると、そこにいたのは玉環結衣さんだった。
体育祭で黒永さんと競った時と異なり、赤いセルフレームの眼鏡を着けていた。
「おはよう」
玉環さんは右手を軽く挙げて、気さくに挨拶をした。
俺も「おはようさん」と返す。
「有賀くん、お仕事ご苦労様。昨日も大変だったでしょう?」
まるで見ていたように彼女は聞いてくる。
「んー、まぁね。でも、執行部の手助けが出来て良かったと思うよ」
「どうして?」
「だって、この祭りの成功を裏から助けられるからさ」
見回りなんて裏方とも言える程地味な活動だけど、この東西京祭を支えているんだと実感出来た。
すれ違う友達が「有賀、頑張れよ」と言ってくれるたびに、その実感がより沸いてくる。
牧原さんが頼まなければ、きっと去年と同じようにただの観客としてこの日を楽しんでいただけだろう。
「それに、このジャンパーも貰えるし」
そう、東西京祭が終わったら腕章は返却するけど、ジャンパーは貰えると坂梨は言っていた。
「なるほどね。確かにそのジャンパーは外でも着れそうだもんね」
納得したように何度か頷く。
「あのさ、有賀くんはこの後休憩はある?」
「ちょっと待って」
この後の予定を思い出してみる。
今の時刻は十一時半で、見回りの仕事はまだ残っているけど、昼の一時から昼食の時間含めて一時間程度は休めるはずだ。
「一時からなら時間とれるよ」
「じゃあ、一時に……そうね、屋上は開いてないだろうから、体育館の裏で大丈夫?」
体育館の裏は東西京祭の期間中、団体で出たゴミを捨てる臨時のゴミ捨て場となっていた。
だから、片づけを行わない昼頃はめったに人が来ない場所だ。
屋上も同様に今日は人が来るような場所ではない。
つまり、どんな理由かは分からないけど、玉環さんは俺と二人きりになりたいようだ。
「大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ、また後で」
そう言うと、玉環さんは俺に背を向けて、結んだ髪を揺らしながら人混みの中に消えていった。
俺は彼女を見送ると、改めて五階への階段に足をかけた。
時刻が一時になったので、休憩に入ることを執行部室にいた綾人に告げる。
彼は頷くと、『二時になったら仕事を再開して』と書いたメモを見せる。
「分かった」
そう言って、俺は部室を後にする。
玉環さんはもう体育館裏に来ているだろうから、待たせてはいけないという気持ちが俺の足を速く動かす。
そのためか、一分もしないで体育館の入り口前にたどり着いていた。
ゴミ捨て場となっている場所は体育館の入り口を正面とすれば、側面にそれぞれ設置されている。
彼女が言った体育館の裏は入り口の真反対の場所だろうと思い、俺は側面へと足を運ぶ。
体育館の周りに生えている樹木によって、まだ昼だというのに少し薄暗い。
角を曲がって裏に出ると、やはり玉環さんはそこにいた。
彼女は体育館の外壁にもたれて、携帯を片手に画面をじっと見つめている。
メールでも打っているのかと思ったが、親指が激しく動いていないので違うようだ。
その様子から、まだこっちには気づいていないようだ。
「ごめん、待たせた?」
彼女は俺の言葉に反応して顔を上げると、携帯を閉じてポケットにしまった。
「ううん、そんなに待ってないよ」
「そっか」
玉環さんは壁から離れて俺の方に近づき、およそ五メートル程離れたところで立ち止まった。
辺りは祭りの音が届かずに静かで、そよ風のおかげで涼しかった。
「静かだね」
彼女の呟きとも言い換えられる言葉でさえ、この場所でならはっきりと聴き取れる。
「ああ」
「本当にごめんね、手伝いで忙しいのに」
「そのことはもう気にしなくていいよ」
「……うん、分かった」
風が吹き、木々がこれから何が起こるか分かっているようにざわつき始める。
遠くで何かアナウンスしているが、葉が鳴らす音によって聴き取れなかった。
俺としては、早くここに呼んだ理由が知りたかった。
玉環さんが言ったように、忙しい人を呼び出すからには彼女にとって何か重要なことを行うのだろう。
いくつも考えてみたが、このタイミングで呼ぶからに、きっとそれは――。
「有賀くんは覚えているかな。わたし、実は君に助けられたことがあるのよ」
彼女の言葉に、考えが中断された。
俺は玉環さんの言葉に反応して、過去を振り返ってみる。
今年、去年と思い出してみるが、該当するような出来事は全く思い出せなかった。
「ごめん、それって、いつのこと?」
「去年の冬、眼鏡を無くしたときに一緒に職員室に来てくれたことがあったでしょ?」
そこまで言われて、俺はようやく思い出した。
「あー、そんなこともあったね」
確かあの日は、新太郎や綾人と駅前のゲーセンに行く約束をしていたから、部活終わるまで図書館で本読んでいて、教室に鞄を忘れたものだから取りに行った後で彼女に遭遇したんだっけ。
廊下でよつんばになっていた彼女から事情を聴いて、裸眼で歩くのは危険だからと思って一緒に歩いたんだっけ。
助けられたって言うほど大げさな話ではなかったはずだが、そんな簡単な事も恐らく彼女にとっては印象に残る出来事だったのだろう。
「君は困っている人を助けてあげられるすごい人だってその時は思った。けど、後になって島津くんのことも助けたんだって人から聞いたときは、その評価は間違っていたんだって思ったの」
彼女は俺の目をじっと見て、真剣な顔でそう言った。
俺はその視線から目をそらさずに、彼女の言葉について考えた。
玉環さんを助けるとすごいけど、綾人も助けるとそうじゃないと彼女は言っているのだろうか。
……意味が分からない。
その逆なら分かる、視力の悪い人の手伝いをするぐらいなら誰でも出来るだろうけど、声が出ない人のリハビリに付き添うのは客観的に見てすごいことだろう。
俺は特にそれを誇っているわけではないけど、玉環さんによってその行動が否定されたようでなんだか悔しかった。
「君はただ困っている人を助けようとしているだけ。そこには自分の利害とか他人からの感謝とか何もない。ただ助けるだけで――」
「何が、言いたいのさ?」
長くなりそうな彼女の話を遮って、俺は結論を促していた。
なぜこうも心がざわつくのか。
玉環さんの話を聴いている内に落ち着かなくなっていた。
「つまり、君は無欲すぎるのよ。普通なら何か理由があって他人を助けるものよ。例えば、有賀くんにとって“特別”はいないの?」
「“特別”?」
「分かりやすく言うなら、“大切にしたい人”って意味かな」
“特別”、“大切な人”。
それは、俺にとっては家族が――いや、もしかしたら、黒永さんがそうなのだろうか。
自信はなかった。
彼女にたった今言われた、“理由なき助け”が多いのは事実な気がするからだ。
綾人のこともただ困っているから助けただけに過ぎないのかもしれない。
俺はそうやって誰彼構わず手を差し伸べてばかりで、大切な人の助けて欲しいと願って伸ばした手に気づけていないんじゃないか。
それじゃあ、俺は一体何のために困っている人を助けているんだろうか。
……今は、そんなことを考えてもしょうがない。
黒永さんのことを思いながら、玉環さんの質問に答える。
「いる……と思う」
「そう。ちなみに、わたしの“特別”は、君だよ」
「それは――」
言いかけた言葉は、不意に両手を掴まれることで口から出ることはなかった。
女の子特有の柔らかさを含んだ玉環さんの手の温かさに、俺はあの日のことをしっかりと思い出した。
「わたし、有賀くんのこと、好きなんだよ。眼鏡を無くしたときの怖さは今でも覚えてる。そこから助けてくれたのは他でもない君だから、わたしは君を好きになったんだ」
そして、玉環さんに告白された。
―(玉環結衣)―
わたしは普段、陸上の練習前に校舎のトイレで眼鏡を外し、ワンデイタイプのコンタクトレンズを着けている。
けれど、冬の寒さが身に染みる十二月の中頃のあの日においては、なかなか目にフィットしなかった。
練習開始時間が迫る中まだ練習着に着替えていないこともあり、目に着いたと思ったらすぐにトイレから出て行った。
遅刻することなく二時間に及ぶキツい練習を行い、部活棟にある水シャワーで汗を流す。
冬の中、水を浴びるなんて人によっては耐えられないかもしれないが、汗でベトベトする不快感の方がわたしは耐えられない。
更衣室で制服に着替え、コンタクトレンズを外して、眼鏡を着けようと鞄の中から眼鏡ケースを取り出した時にようやく気がついた。
急いでいたから、眼鏡をケースにしまい忘れていたのだ。
慌ててトイレに向かったが眼鏡は無くなっていた。
パニックになったわたしは、どこかに落ちていないかとその階中を探し回った。
コンタクトレンズの代えがないため、眼鏡が無ければ視界がぼやけて、歩くのでさえ怖くて出来ない。
だから、仕方なくよつんばになって探してみるも、いくら探しても見つからない。
廊下はどんどん暗くなっていき、それに伴い寒くなっていくように感じる。
どうしてあのときちゃんと眼鏡を回収しておかなかったのだろうかと思うと、泣きたくなってきた。
今更悔やんでもしょうがないけど、歪んで見える視界のせいで思考はどんどんネガティブになっていく。
眼鏡を失くしたわたしの目に映るのは、何もかもが曖昧な世界のみ。
足元すら不確かだというのに一歩足を出すのにどれだけ勇気を消費すれば良いのか。
そうして足を踏み出しても、そこは奈落へ続く穴だったら……と、嫌な想像を頭から必死に追い出そうとする。
今から思えば、そんな考えは馬鹿げているとどこかで思ってしまうけれど、このときは半ば本気でそんなことを考えてしまっていたのだ。
「大丈夫? お腹でも痛いの?」
不意に声をかけられ顔を上げると、目の前に男が立っていた。
鞄らしきものを左手に持っているようだ。
「玉環さん?」
落ち着いた雰囲気のある声でわたしの名字が呼ばれて、目の前に立つ人が誰か分かった。
「有賀くんなの?」
顔が全然見えないが、きっとそのはずだ。
「もしかして、裸眼?」
「うん……眼鏡なくしちゃって」
そう言いつつ、わたしは立ち上がった。
さすがによつんばのままクラスメイトと会話をするのは恥ずかしい。
ちなみに、わたしの視力は一メートル先ですらぼやけて見えるのほど酷く、彼がどんな表情をしているのかほとんど分からない。
「校内でなくしたのなら、職員室に行ってみた?」
「あっ」
このときになって、ようやく真っ先に職員室に行くべきだったと気づいた。
「じゃあ、今から行ってみよう」
そう言って、有賀くんは歩き出すので、わたしも一歩ずつ慎重に足を踏み出し歩き出す。
恐らく階段まで来たときだ。
有賀くんが振り返ったような気がした。
「……左手、貸して」
きっと足取りがおぼつかないわたしを見て、この状態で階段を降りるのは危険だと感じたのだ。
わたしは恐る恐る左手を差し出すと、その手を彼は迷わずに右手で握った。
自分のものとは異なる温かさに驚くが、すぐにその温かさが心地よいものに変わる。
離れないように、わたしも彼の意外と固い手を握り返す。
部活はしていないと聞いていたけど、それでも女性とは全く異なる感触にわたしは終始ドキドキしっぱなしだった。
階段を降りる最中も、職員室に行くまでも、ずっと握っていた手の温かさにわたしはいつしか安心感を覚えていた。
色々と曖昧なこの世界で一歩踏み出すのに必要なもの。
それは勇気じゃなくても良くて、誰かが差し伸べる温かな手でも良いんだ。
眼鏡は無事に落とし物として届いており、有賀くんと別れた帰り道でそんなことを考え、同時にその手を躊躇わずに差し伸べてくれた優しい有賀くんに惚れたことに気づいた。
―(有賀陽平)―
「そうか」
突然の告白に対して、俺はあまり驚く事なかった。
むしろ予想通りだった。
きっと玉環さんはあのときの出来事がきっかけで俺のことが好きになったのだろう。
けれど――。
「でも、ごめん。その気持ちは嬉しいけど、俺は黒永さんのことが好きなんだ」
だからこそ俺は自分に正直でありたい、俺の気持ちを彼女に伝えないといけない。
辛いことだが、これが俺の気持ちなんだ。
俺の言葉を聴いて、彼女は一つため息を吐いた。
「うん、知ってる。前の放課後に聞いちゃったから」
あのときの物音は彼女がその場から立ち去った音だったのか。
でも、それならば疑問が一つ浮かんでくる。
「じゃあ、なんで? なんで俺に告白を?」
叶うはずもない想いなのに、どうして自ら傷つけることをしたのか。
「……ケジメ、かな? やっぱり恋はちゃんと終わらせてあげないといつまでも後悔だけが残ると思うから」
そう言うと彼女は笑顔を浮かべる。
その笑顔には悲しみの色が薄く塗られていて、見ている俺を苦しくさせる。
好きだと言ってくれた人を振ることがこんなにも辛いことだと初めて知った。
だけど、彼女の方がそれ以上に辛いはずだ。
「わたし、そろそろ戻るね。有賀くん、今日はありがとう」
それなのに玉環さんは何で俺に感謝しているんだろう。
彼女は俺の前から走り去ろうとする。
俺の隣を通り過ぎた後、俺は振り返って彼女の背中に声をかけた。
「玉環さん、ありがとう。それと――」
最後まで言い切る前に彼女は、結んだ髪を揺らしながら体育館の角を曲がって消えた。
「――ごめん」
呟くように出た謝罪はきっと、彼女には永遠に届かないだろう。
いつの間にか拳を固く握り締めている。
俺は二時を過ぎてもしばらくそこから動くことが出来ず、ただただ木々が鳴らす優しい音に耳を傾けていた。
第十話へ続く