第八話 隠されたキモチ
―(島津綾人)―
新学期になって早数週間、夏の暑さもすっかり鳴りを潜めた。
クラスメートたちの、夏休みで浮ついていた気分もすっかり沈みこんだようだ。
僕もまたニューヨークから帰ってきてから、何か一つ変わったような気持ちを抱えていた。
声に出して伝えることが出来ない、まさに今しか感じることが出来ないであろう“何か”。
僕のような人間でさえ、夏休みはいともたやすく変えてしまうのだ。
けれど――授業中、僕はそこまで考えて、視線だけ彼女の方に向ける。
そこには、休み時間だというのに机に座りノートに何かを書いている黒永さんがいる。
その様子を見て、彼女は僕たちとはやはり違うと思ってしまう。
彼女は決して孤独を恐れない。
以前、僕が感じたことはやはりその通りだと思うのだが、今の彼女は孤独ではない。
新太郎や僕、牧原さんは彼女が周りの評価通りの人間ではないことを知っているし、陽平に至っては僕の想像以上に彼女と関わっているみたいだ。
だけど、それでも、僕は何の根拠もないが、ふと思うことがある。
黒永月夜はこの先もきっと変わることはないのだろう、と。
だが、そのことについて考える暇は今の僕にはない。
十月半ばに開催される東西京祭――文化祭に向けて準備が着々と進んでいる。
僕や陽平、新太郎は今年、牧原さんの頼みで生徒会執行部の手伝いをすることになった。
東西京祭は主に生徒の自主性を尊重して行われる文化祭なので、執行部の手腕が存分に発揮される機会の場でもあるのだ。
しかし、その執行部の仕事は山のように多く、嫁姑問題のように面倒なものばかり。
そのため、執行部は毎年立候補が少なく、慢性的に人数不足なのだ。
だから、この時期に有志を募り、東西京祭を成功に導いていくのが我が校の伝統だ。
「島津くん、こっちの書類に誤字脱字がないかチェックお願い」
隣に座る執行部員から、書類を受け取る。
僕は今、執行部室で書類の記載にミスがないかを調べている。
陽平や新太郎たちは各団体を回って、打ち合わせを行っているらしい。
……よし、頑張ろう。
僕は受け取った書類に目を落とし始めた。
―(有賀陽平)―
東西京祭の準備に追われ、気が付けば開催まであと一週間になっていた。
十月八日は土曜日であるため、本来ならば授業は昼までなのだが、残念なことに執行部の手伝いのために、午後四時を過ぎてもいまだに帰れそうになかった。
「さ、さすがに疲れた」
俺と新太郎しか今はいない執行部室で、新太郎が机に突っ伏しながら嘆いている。
この時期は東西京祭の準備のため、運動系の部活はほぼ活動休止をしている。
だからこそ、彼も執行部の手伝いが出来るのだけど。
「ま、気持ちは分かるけど、あと一週間だけだ」
「陽平は帰宅部だからある意味いいけどさ。サッカーが出来ないってんのは、なかなか辛いぞ」
突っ伏していた顔を上げて、壁に体重を預けて立っている俺の方をにらむ。
俺の言葉に何か思うことがあるようだ。
「そこまで言うか。じゃあ、お前にとって、サッカーは何なのさ?」
「サッカーに限らず、スポーツはオレの人生さ!」
さも、名言を吐きましたとばかりに胸を張って答える。
けれど、新太郎はある程度は本気で言っているのだろう。
事実、彼はサッカー部でもエースストライカーとして有名だし、体育の授業では何をやらしても常に活躍している。
体育祭でも騎馬戦で悪鬼羅刹のごとく敵をなぎ倒していた。
俺に比べれば、よっぽどすごいのだ。
「確かに、新太郎はスポーツは何でも出来るもんな」
「……けど、サッカー以外だと坂梨には負けるわ」
不意に出てきた生徒会長の名前に、俺は一瞬動揺してしまった。
それに気づいたのだろう、新太郎は不思議そうにきいた。
「おい、会長がどしたん?」
「いや、別に」
ハハハ、と無理に笑顔を作って誤魔化すが、新太郎は無駄に鋭いのでバレたかもしれない。
しかし、彼は無理やり聞きだそうとはせず、そうかと言ってまた机に突っ伏した。
生徒会執行部をまとめる生徒会長、坂梨日降。
一言で彼を言い表すなら、坂梨は優等生だ。
定期試験の成績順位はいつも一桁に入り、運動神経も抜群のものだ。
助っ人として野球の試合に駆り出された彼は、毎打席ホームランを打ち、県大会決勝に導いたという嘘のような真実がちょっと前まで盛んに話しのネタにされていた。
また、ルックスも抜群に良いのに彼女はいないので、女子の間ではファンクラブがあると牧原さんが言っていた。
それでいて、優しく頼りがいのあるものだから、男子女子問わずに人気があった。
「――それで、実際に一緒に仕事するようになって、坂梨がかなり良い奴だって分かったんだ」
「あらそう」
十月四日の放課後、黒永さんと久しぶりに実験を行っていた。
彼女自身、ずっと第二化学室にいたようだが、俺が手伝いをしていたので今日まで来れなかったのだ。
「坂梨、日降。面白そうな人物ね」
珍しく――いや、最近は学校内の事柄に興味を持つことが普通になってきた黒永さんが反応した。
俺は彼女の横顔を見つめていた。
夏休みの旅行で“あんなこと”があって、彼女のことをまともに見れないのではと不安にもなったが、それは杞憂だった。
夏休み中にもたびたび(主に夏休みの宿題について聞くために)会っていたが、実際に会うと驚くほど平気だった。
ただ、不意に思い出し、彼女をまっすぐ見れないことがあったのだが。
そう、あの日から、俺は変わってしまった気がする。
黒永さんのことを考える時間が増え、時々苦しく感じることがある。
それに、あの“褐色フラスコの夢”。
あれを見る頻度が増えてきたのだ。
以前は月一回ほどだったのが、今では週一回の頻度になっている。
そのため、覚めても夢の詳細を覚えているほど、記憶に焼きついてしまった。
夕暮れの教室、褐色のフラスコ、ささやき合う声、鳴き叫ぶ子猫、助けようと思考する俺。
一体、あの夢は何なのだろうか、何度思考しても分からない。
俺に何を訴えているのだろうか。
あの夢が何かを警告しているような、知らせようとしているような、そんな予感があるのに――。
「有賀は最近、東西京祭の準備で忙しそうだけれど、実際にはどうなの?」
「んー、まぁまぁ、忙しいかな」
「なら、私にも何か出来ることはあるかしら?」
「え? 黒永さんも何かやりたいの?」
「今回の実験も今日で終わるし、明日からしばらく論文を書くだけだから、暇なのよ」
暇だから、という理由だけで何か手伝いたいという黒永さんに、俺は嬉しくなった。
本当に彼女は変わった。
積極的に行事に関わろうとする彼女を見て、体育祭のときのことを思い出してしまう。
あのときは俺が無理やり参加させたようなものだった。
だけど、今回は違う。
彼女自らの意思で東西京祭に参加したいと言って来たのだ。
執行部も人手不足なので、彼女の申し出はありがたいはずだ。
「分かった、俺から執行部に言っておくよ」
「助かるわ、ありがとう、有賀」
案の定、坂梨たち執行部は大歓迎した。
いくら学校中で天才で変人だという噂があっても、人手不足には敵わないようだ。
もちろん、実際に仕事にとりかかる黒永さんの姿を見て、生徒会の役員たちは彼女のことを見直したようだ。
全く無駄なく書類整理を行い、頼まれてもないのに当日の見回りの配置や担当区域分け、模擬店を出す団体への注意事項の不備を指摘し異論が出ないほどの改善案を出してしまうなど、俺が想像していた以上に彼女は活躍していた。
そんな中で黒永さんは牧原さんとより仲良くなったようだ。
最近は仲良く二人で昼ごはんを食べているところを見かけるようになったのだ。
彼女がこうして皆と仲良くなっていくことは、俺としてはとても喜ばしいことだ。
黒永さんが孤独だと感じた五月から数えて五ヶ月。
本当に変わったのだと思う。
そんなことを考えながら、俺は用済みとなった資料や文具の入ったダンボールを抱え、一階の廊下を歩いていた。
グラウンドの隅にあるゴミ捨て場に運ぶためだ。
放課後も遅い時間で、もう太陽が沈んでいこうとしていた。
廊下は赤色に染まっていく。
「わざわざ時間を割いて来てくれてありがとう」
階段の近くに差し掛かったとき、黒永さんの声が聞こえた。
それも誰かがそばにいるようだ。
「いや、構わないよ。他でもない月夜さんの頼みでもあるからね」
男性の声がした。
坂梨日降、生徒会長の声だ。
「そう、そう言ってくれると助かるわね、坂梨」
俺は物音を立てないように、階段の壁――彼女たちから死角となるように近づいた。
恐らく、二人は踊り場で会話しているのだろう。
壁に背をつけて、一語も聴き逃すまいと耳をすます。
カラスの鳴き声や、風が窓ガラスを叩く音がする中、二人の会話が聴こえてくる。
「しかし、僕を呼び出すなんて、何かあったのかい?」
「何もないわ。ただあなたと話がしてみたいだけよ」
「話? 雑談ってところかな」
「そうよ。私は生徒会長なんてことをやっているあなたに興味があるのよ」
確かに黒永さんは彼に関心を抱いていた。
だから、こうして呼び出したのだろう。
場所が踊り場ってのは変な話ではあるが。
「なるほどね。僕は研究対象ってことか。月夜さんらしい考えだね」
「ええ。だから、そうね……坂梨はどうして生徒会長なんてやっているのかしら?」
「僕は自分の能力を自覚している。その能力を最大限に使える役職が生徒会長だったんだよ」
「自分がどこまで出来るか、試してみたいと思わないの?」
「限界に挑戦するのも良いけれど、僕は失敗するのが嫌だ。いや、怖いのさ」
「生徒会長という責任ある立場にいて、失敗が怖い?」
きっとこれまで失敗したことのない黒永さんのことだ。
自分にないものを持つ彼により興味を持つことだろう。
そう思うと、なぜか息が苦しくなるのが分かった。
「そうさ。生徒会長だって、人間だからね。成功することもあるし、失敗することもあるよ」
「じゃあ、失敗したときはどうしているの?」
「そう、だな。まずは笑って、ヘラヘラして、なんでもないさって自分に言い聞かしているよ」
「面白いことを言うのね、坂梨は」
俺はそこまで聴いて、グラウンドに向かって走り出した。
気づかれても構いやしない。
とにかく走って、ゴミ捨て場にダンボールを置いてから、俺は悲しくなった。
理由なんて分かりはしない。
ただ裏切られたという感情と何故なんだという疑問が胸の内で渦巻いていた。
夕暮れの踊り場で、黒永さんと坂梨が二人っきりでおしゃべりをしている。
そんな場面を想像して、どうして俺じゃないのかと思っている自分がいた。
なんでこんなに苦しいんだ。
この気持ちを抱えて、俺はどうすればいいんだ。
その日、俺は執行部室に立ち寄らずに一人家に帰った。
食事も喉を通らず、俺は風呂に入って、さっさと寝ることにした。
フカフカのベッドで一晩ぐっすり寝れば、きっと元通りになる。
そう信じてベッドに入ったものの、まぶたを閉じれば浮かんでくるのは先ほどの場面だ。
その場面が浮かぶたびに、俺は起き上がり、また寝ては起きてを繰り返した。
あの場面に遭遇してから、俺は落ち着けない日々を過ごすことになった。
授業中突然立ち上がって叫びたい衝動に駆られるようになった。
そして、黒永さんを見れば胸が苦しくなり、坂梨を見れば沸々と怒りが込み上げてくる。
俺の心は一体どうしてしまったのだろうか。
精神と肉体が分離して各々が勝手に動き回っているような、不愉快な気分だ。
当然、執行部の仕事に集中なんて出来るはずもない。
牧原さんにも心配されたけれど、こんなことを言える筈もない。
俺の心は日々激しい波に飲まれ、揺ら揺らと不安定に漂い続けていた。
突然、執行部室の扉が開き、俺と新太郎は驚いて顔を向ける。
部屋の前に立っていたのは、坂梨だった。
「二人ともご苦労様。今日はもう切り上げてもらっても大丈夫だ」
「お、そうかい。それじゃあ、オレは帰ってドラマを見るとするか」
坂梨の言葉に、新太郎は眠そうな目を覚まして、部室に置いていた鞄を持つ。
俺も彼に倣って、坂梨を背にして鞄に手をかけようとした。
「有賀くん、ちょっといいかな?」
不意に坂梨がそう言ったので、俺は鞄から手を離す。
ゆっくりと振り返ると、先ほどと同じように坂梨はまだ部屋の前に立っていた。
ただ、その目は違い、何か固い意思を秘めていた。
新太郎が部屋から出て行くと、入れ替わりに坂梨が入ってくる。
俺は立ったまま、彼を見続ける。
坂梨はそんな視線に気づいているのか気づいていないのか、椅子に座った。
あの日――黒永さんと坂梨が二人っきりで話しをしていた時と同じように、扉と反対側にある窓から、夕日が差し込んでいた。
「何をそんなにイライラしているのさ?」
坂梨は面白そうに口を開いた。
イライラしている。
俺はこの訳も分からない怒りを、そんな言葉で片付けられたことに益々怒りの炎が燃え上がった。
彼はそんな俺の怒りなど気付かないように続ける。
「君が、僕と月夜さんが会っていたあの時、階段の下にいたことは分かっているよ」
確かに気づかれても構わないと思っていたけど。
「あれだけ音を立てて走れば、なんだと思って見に行くのは当然だろ? 僕が階段を下りると、君がグラウンドに向かって走っている姿が見えたよ」
そんな滑稽な姿をよりにもよってこいつに見られていたなんて。
俺は自分の愚かしさに顔が赤くなっていくのを自覚した。
「それはいいとして、コソコソと聞き耳を立てていたのは関心しないな」
「そ、それは……あんなところで会話していたお前も悪いんじゃないのか?」
「確かにそうだ。けど、君がやったことはプライバシーの侵害と言われても仕方がないことだと思うけど?」
正論を吐かれ、俺は黙るしかなかった。
その様子を見たからか、坂梨の唇の端が吊り上がる。
「大体、君は月夜さんの迷惑を考えたことはあるのかい?」
「何?」
「彼女はお節介な君のことを、本当は疎ましく思っているかもしれないよ」
「そ、そんなことは――まさか、あの日、そんなことを言っていたのか?」
「さてね。そこは秘密にしておくよ」
怒りに燃えていた俺の心は、急速に冷えていった。
黒永さんが俺のことを嫌っているかもしれないことに、気づかされた。
けど、そんな大切なことを目の前の男に諭されるのは我慢ならなかった。
お前に、黒永さんの何が分かるというのかと言いたくなった。
「お前は俺にそんなことを言って、何がしたいんだ?」
しかし、口に出たのはそれとは裏腹な言葉だった。
そのとき、夕日に雲がかかったのだろう。
夕日に照らされた坂梨の顔が陰り、表情が見えなくなった。
ただ、その目の輝きは一層増したように見えた。
「僕は、月夜さんのことが、好きだ」
「えっ……?」
そして、開いた口からは信じられない言葉が飛び出してきた。
今、なんて言ったんだろうか。
無意識に気づいていないフリをしていることに気づくが、俺はただじっと坂梨の顔を見ていた。
「だから、君にはもう彼女に近づいて欲しくないのさ。分かってくれたかな?」
いまだに陰に隠れた彼の顔は微笑んでいるのだろうか。
自分の気持ちを俺に伝えたことで、満足しているのだろうか。
――そんなことに俺が納得すると、本気で思っているのだろうか。
「嫌だ」
静かに部屋に響く俺の声に、坂梨は驚く。
雲が退き、再び顔を見せる夕日に照らされた彼の頬に、一筋の汗が流れる。
「俺は、黒永さんのことが――」
駄目だ。
それ以上、言葉にしてはいけない。
分かっているのに、分かっているはずなのに。
もう、気づいていないフリをするのは止めよう。
自分の気持ちぐらい、分かっていたはずだ。
どうして、彼女にあのホテルの夜、ドキドキしたのか。
どうして、彼女を祭りに誘ったのか。
どうして、彼女を体育祭に参加させようとしたのか。
どうして、彼女と一緒に実験をしてきたのか。
どうして、彼女にあの実験室で、最初声をかけずに見ていたのか。
いくつもの“どうして”に対して、答えは一つしかない。
そう、それは、全て――。
「黒永さんのことが好きだ」
――俺が彼女に惚れていたからだ。
坂梨は信じられないといった様子で立ち上がる。
同時に廊下からタッタッタッ……と、誰かが走る音が聞こえた。
今の話、誰かに聞こえていたのだろうか。
部室の壁にかかった時計から、時刻はもう五時――そろそろ下校時刻になろうとしていた。
きっと、東西京祭の準備をしていた生徒が下校を始めたのだろう。
「月夜さんのことを、好きだって?」
先ほどまでの余裕な笑みは、そこにはもうなかった。
「ああ」
「半端な気持ちじゃ、ないのかい?」
俺を真っ直ぐに見つめるその目は、俺の胸の内を透かして見ているようだ。
だけど、俺の胸中を覗き見ても、そこにある気持ちは本当のものだ。
「もちろんだ」
「お節介だと思われているかもしれないのに?」
「例え黒永さんが俺を嫌っていても、それでも俺は彼女が好きだ」
「……そうか」
坂梨はそれ以降、目を伏せ、口を閉ざしてしまった。
それがどうしてか、彼が悔しがっていないように見える。
だからなのか、彼が本気で黒永さんのことが好きではないのだと、なぜか思った。
もう彼と何も語ることはない。
鞄を手にすると、今度こそ部室から出て行く。
「じゃあな」
扉を閉める直前、坂梨の背中がひどく小さく見えた。
―(坂梨日降)―
これで良かったのだろうか――いや、これで良かったのさ。
有賀くんが帰っても、僕は座ることなく自問自答をしていた。
あの日、階段下から戻ってきた僕に対して、月夜さんは有賀くんのことについて話を始めた。
「そう言えば、東西京祭の手伝いの一人に、有賀っているでしょう? 彼も面白くて――」
話の中での彼の優しさや頼りがいのあることと言ったら、思わず引いてしまうぐらい、彼女は熱心に語った。
そして、彼の名前を言うたびに月夜さんが浮かべるとても柔らかい顔。
あの顔は、きっと――。
それを見てしまっては、僕はどうしても確かめずにはいられなかった。
有賀くんがどんな気持ちで彼女と一緒にいたのか。
そして、これからどうするのか。
有賀くんの本音を引き出すために、僕はわざと月夜さんが好きだと嘘を吐いた。
こんなことをしても空しいだけと分かっていたはずだけども。
それでも、この嘘を吐かなければならなかった。
彼の気持ちを知り、僕はどうしようというのだ。
夕日も沈み、黒く染まっていく執行部室で、僕は考えていた。
もしも、彼女と会うのが彼より早ければ。
もしも、彼女と一緒に実験をしていたら。
もしも、もしも、もしも――。
そんな仮定に何も意味はないけれど。
ただ、僕は自分の頬を濡らす涙を止めるにはどうすればいいのだろうか。
この気持ちを忘れるために、僕はこれからどれだけ頑張ればいいのだろうか。
二人の邪魔をする悪い奴になれれば、どれだけ楽だっただろうか。
無理やり笑顔を作る。
誰もいないのに、ヘラヘラ笑ってみせる。
もし、僕の本当の気持ちが彼に悟られたらと考えると怖くてたまらない。
有賀くんは優しい。
知られてしまえば、きっと彼は苦しんでしまうだろう。
「なんでもないさ」
だから、頑張っていこう。
大丈夫さ。
かつても、今も、そしてこれからも僕は坂梨日降なのだから。
第九話へ続く