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第七話 天才の定義

 ―(黒永月夜)―


 私は眠れないでいた。

 数十分ほど前まで会話相手だった牧原も、今は隣でスヤスヤと寝ている。

 通路を挟んで、真ん中の三席に座っている有賀たちも、さっきまでの馬鹿騒ぎが嘘のように寝ている。

 いや、彼らだけではない。

 機内にいるほとんどの旅客が寝ていることだろう。

 私は暗くなっている機内でなお、寝付けずにいる。

 窓側に座っている私は変わり映えしない景色に飽きてしまい、持ってきていた論文を読み始める。

 タイトルは和訳すれば、“粒子を操る悪魔の存在”。

 著者は、ニクラ・プレスキル博士。

 今回の旅行の目的でもある人物だ。



 始まりは東西京高校の終業式も終わり、夏休みに入った頃だった。

『ごめんな、月夜。父さん、行けなくなりそうだ』

「卒論指導?」

『ああ、そうなんだ』

 自宅にかかってきた一本の電話。

 それは、私の父、博人からのものだった。

『すまない。僕もプレスキル博士の講演を聴きたかったんだが』

「しょうがないわ」

『指導している学生を放っておくわけにもいかないしね。僕がもっと上手くやれれば良かったんだが』

 詳しく聞くと、どうやらある学生が全然卒業研究が出来ていないので、指導教官である博人に頼った。

 これには彼も驚いたが、彼が卒業できなくなる状況を避けなければならないので、仕方なく指導するのだという。

『こうなってしまっては、月夜一人でニューヨークに行かすわけにはいかない』

「一人でも行けるわ」

『お前が考えている以上に、女の子の一人旅は危険だ』

 一人が危険だというのなら、誰かがいれば問題ないだろう。

 そのとき、パッと浮かんできたのは、有賀陽平だった。

「なら、友達に頼むわ」

『友達……陽平くんか? 確かに彼ならば安心だけど、彼一人だけじゃ……』

「彼の友達の何人かも一緒に、ならどう?」

『ふむ』

 そう唸って、博人は黙る。

 彼は決して世間から褒められるような父親ではないが、娘のことを心配してくれるだけマシな父親だ。

 私の母、朋子とは外で会ったときでさえ親子らしい会話がないのだから。

『分かった。それなら、彼らの分の旅費も出そう』


 そうして、私は有賀に連絡して、有賀は吉岡や島津、牧原に連絡した。

 驚いたことに、彼が声をかけた全員がこの旅に参加すると言ったのだ。

 有賀はまだ分かる。

 けれど、他の三人が私に付き合う必要なんて全く無いはずだ。

「まぁ、なんていうかな」

 旅行の打ち合わせで、喫茶店アリアンスに集合したときだ。

 私がそのようなことを言うと、吉岡はこう続けたのだ。

「お前のこと、周りが思っているような奴じゃないって思ったんだよ」

「そうね、あたしも誤解してたみたい」

 島津も『僕も』と短く書いた。

 きっと、有賀が彼らに何か言ったのだろう。

 特に学校内での私の評価が上がるようなことはなかったのだから。



『――間もなく、JFK国際空港です。着陸時にはシートベルトの着用をお願いします』

 日本語でのアナウンスの後、英語のアナウンスが入る。

 すでに、牧原たちは起きていた。

「いよいよだね、黒永さん」

「そうね」

 ニューヨークに来ることも初めてである上に、そこにはプレスキル博士がいる。

 早く講演を聴きたくてしょうがなかった。



 ―(有賀陽平)―


「着いた~!」

 空港から出た俺たちは、早速ニューヨーク市内に向かうバスに乗り込む。

 夜の道路を走り出すバスに揺られ、俺たちは外の景色を眺めていた。

 日本の夏とはまた違う夏の風景があるはずだが、暗くてよく見えなかった。

 少し経つと、やがてテレビでもよく見る街の風景が現れた。

「なんか、ニューヨークって感じがするな」

「ニューヨークなんだから、当たり前だろ」

 新太郎の言葉に、俺は突っ込みのような言葉で返す。

『でも、日本とは全然違うよね』

「あ、摩天楼が見えてきた」

 そんな会話をしているうちに、中心地マンハッタンに近づいていたようだ。

 俺たちはバスを降り、興奮したまま予約したホテルにたどり着く。

 高級ホテルではないと事前に聞いていたが、それでも大きいホテルだった。

 中に入ってみると、俺たちはさらにホールの豪華さにびっくりする。

 天井からつるされたシャンデリア、大理石と思われる柱、多分女神をかたどった彫刻。

 日本でもそうお目にかかれない高級感が溢れていた。

 これでも高級ホテルじゃないって、高級ホテルは一体どんなところなのだろうか。

 黒永さんは俺たち四人をその場に置いて、フロントに向かう。

 係りの人と何か会話し、ペンを持って書いている。

「サンキュー」

「ドウイタシマシテ」

「え?」

 牧原さんが驚き、声を上げたが、気持ちは俺も同じだ。

 今、係りの人が日本語をしゃべった気がした。

 戻ってきた黒永さんに質問してみると、従業員の何人かは日本語をしゃべれるということだ。

 キーを手に、部屋に向かうためにエレベーターに乗り込む。

 部屋も男三人部屋と女二人部屋に分かれたが、普通に広い。

 ベッドは二つしかないが、ソファーがでかいため、あと一人も寝るのに不自由しないだろう。

『とりあえず寝て、明日の朝に備える?』

 綾人がそう提案する。

 確かに、今日騒いでもいいが、明日が本番だ。

 黒永さんは講演会に行くと言っている。

 俺はその付き添いで行くとして、新太郎たちはニューヨークの街を堪能したいと言っていた。

 そのためにわざわざ“アメリカ・ニューヨークの観光ガイド”と言う本も購入していたし。

「確かに、オレらが遊ぶのは明日だからな」

 そして、今回の旅は二泊三日。

 一日目はニューヨークに着いただけ、三日目は帰るだけだ。

 だから、二日目――つまり、明日だけ自由行動できるのだ。

「寝よう」

 俺がそう言うと、皆うなずいた。


 なかなか寝付けなかったが、一旦眠りに入れば時が過ぎるのはあっという間だった。

 目覚めのいい朝を過ごし、ホテル内で朝食を取った俺たちはロビーに集合した。

「さて、オレたちはニューヨークの街を観光してくるわ」

「ああ、何かあったら電話……は無理だったか」

 日本国外で携帯電話で電話するには専用のサービスが必要である。

 しかし、俺たちはたった三日間だけだし、面倒な手続きもしたくないのでそれは放棄した。

「まぁ、ホテルに電話すれば、なんとかなるだろ」

 そう言うと、新太郎たちは玄関に向かう。

「そいじゃあな~」

「黒永さん、また今晩も話しよ!」

 綾人も俺たちに手を振って、三人は背中を向けた。

 俺と黒永さんは彼らの姿が見えなくなるまで、その背中を見ていた。

「講演会は十時からだから行きましょう」

 黒永さんはそう言って、玄関に向かう。

 俺は彼女の横に並ぶと、さっきから疑問に思っていたことを尋ねてみる。

「ねえ、黒永さん」

「何?」

 歩みを止めずに彼女が俺の方に向く。

「いや、牧原さんとどんな話をしたのかって、思ってさ」

「そのこと? 別に隠すほどのことでもないけど」

 玄関の外――マンハッタンの街は活気付いていた。

 高い高層ビルが立ち並び、灰色の雲が浮かぶ青い空の下、黒いスーツを身にまとう男性が大勢歩いている。

 日本でも見られる光景のはずだが、“異国”というだけで何もかも違って見える。

 埃っぽい街並みはテレビ越しでは決して分からないことばかりだ。

 俺は彼女の隣につきながら、クラクションが鳴り響くマンハッタンを歩く。

 講演が行われる会場までの十数分の間、俺は黒永さんから昨晩の話を聞いた。

 放課後行われる実験の話、両親の話、そして……。

「もっと私と仲良くなりたいって、言っていたわ」

「そう」

 牧原さんがそう言うのなら、きっと心の底からそう願ったのだろう。

 前の、俺と知り合ったばかりの彼女ならば、その願いは叶わなかったはずだ。

 けれど、今の黒永さんなら、牧原さんと仲良くできるはずだ。

 それはまるで父親が娘を応援するような気持ちだっただろう。

 この世界に優しさがあるのなら、それを彼女にプレゼントしたい気分だった。

 つまり、俺は幸せだったのだ。


 講演会の会場は人、人、人ばかりだ。

 ここにいる大人たちは全員プレスキル博士の講演を聴きに来たのだろう。

 俺たちは講演会の受付らしきテーブルにたどり着くと、黒永さんが受付の人と会話をする。

 俺は何も出来ないので、改めて彼女の服装を見る。

 学校で着ているセーラー服ではなく、講演会に合わせた黒のスーツだった。

 一方で、俺はスーツなんて持っていないので、学ランを羽織っている。

 彼女は大人の女性の雰囲気があるというのに、俺は完全に高校生にしか見えない。

 旅行前に学生服しかないと言ったとき、彼女はしょうがないと答えた。

 だけど、今になってやはり恥ずかしいというか場違いだという気分になっていた。

「有賀、行くわよ」

 受付が終わったであろう黒永さんが俺を呼ぶ。

 それに答えて、俺は彼女と講演が行われるホールへと向かった。

 ホールへの扉を開けると、すでに席のほとんどが埋まっていた。

 冷房が効いているはずなのに、人が集まる熱気のため、若干暑く感じる。

「プレスキル博士の講演はめったにやらない上に今回のはほぼ無料みたいなものだから、普通の講演以上に人が集まるみたい」

「へぇ、それでこんなに人がいるのか」

「だから、私たちは後ろの方に座るしかないって、言われたわ」

 ちゃんと話を聴きたかったけど、と黒永さんは小声で付け足した。

 彼女にここまで言わせるなんて、余程プレスキル博士はすごい人なんだろう。

 空いている席がないか見て回ったが、結局俺たちは最後列に近い席に座った。

「有賀がリスニング出来れば、少しは楽しめるでしょうけど」

「出来ないものは仕方がないさ。今日はこの本を読むよ」

 手荷物のカバンから取り出したのは、プレスキル博士が書いた“楽しい物理~波動編~”だ。

 以前、綾人からオススメされた本の別のものだ。

 そのとき、一斉に拍手が鳴り響く。

 壇上に目を向けると、白髪のおじいさんがステージに上がっていた。

 あの人が、ニクラ・プレスキル博士か。

 後頭部からそり立つ白髪、いびつなワシ鼻、ニキビまみれの顔、アメリカ人にしては低めの身長。

 とてもじゃないが、偉い先生のように見えなかった。

 ステージの真ん中に立つ彼は服に取り付けるマイクをスーツの襟につけていた。

 彼は拍手が止むのを待ってから、話を始めた。

「ハロー、エブリバディ。サンキューフォーカミングトゥリッスンマイレクチャートゥデェイ」

 俺が聴き取れた英語はそこまでだった。

 “こんにちは、今日は講演に来てくれてありがとう”という感じだ。

 壇上の博士はスライドも交えて、何かを解説している。

 スライドに映る絵は、どうやら粒子がなにやら動く様子を表しているらしい。

 俺は興味を失い、本に目を落とそうとして、ふと隣を見た。

 黒永さんがメモを取っていた。

 それもかなり素早く、しかも英語で書いている。

 だが、そんな天才らしさはどうでも良かった。

 彼女の顔から、俺は目が離せなかった。

 つやの良さそうな唇は固く結び、黒い目は真っ直ぐ博士の方を見つめている。

 耳も一語一句聞き逃すまいとしているように見える。

 人がそのような顔をするときを、俺は何回も見たことがある。

 それは、何かに真剣に取り組むときの顔だ。

 俺はただただ見るしかできなかった。

 彼女がそんなに真剣な顔をしたときが、今まであっただろうか。

 放課後の実験の最中、体育祭で四百メートル走ったとき。

 いくら思い出しても、どの顔も今の彼女には当てはまらなかった。

 初めて見る彼女の真剣さに、俺は神聖な何かを感じた。

 でなければ、こっちも姿勢を正さないとと思わせる厳格さだろうか。

 プレスキル博士は変わらず、何かを語っているが、俺の耳には入ってこない。

 それは単に英語が聴き取れないからだけではなかった。


「――有賀に話しても、しょうがないけど」

 そう口火を切る黒永さんの前に、ウェイターが食後のコーヒーを運んできた。

「プレスキル博士は私が思う本当の天才なのよ」

 時を忘れるほどの講演の内容を聞いた後にいきなりそんなことを言われても、なんと返答すればいいのだろうか。

 話を少し戻すと、休憩を含め四時間近くに及ぶ講演が終わった後、俺たちは疲れた体を癒しに近くの喫茶店に入った。

 ケーキなどの甘菓子を食べながら、俺は黒永さんからプレスキル博士が何を言っていたのか聞いていた。

 話の内容は日本語で聞いてもやっぱり難しいけど、それを語る彼女は少し楽しそうだった。

 そして、話の内容に区切りがついたときに、さっきのようなことを言われたのだ。

「黒永さんも、天才じゃないか」

 俺は素直に思ったことを口にする。

 黒永さんは面白くもなさそうにため息を吐く。

 呆れられたのだろうか。

「私は本当の意味で天才なんかじゃない」

 そう言って、コーヒーを口に運ぶ。

 ……どういう意味なのだろうか。

 何気なくチラッと外を見ると、そんなに長く話し込んでいたのか、夕日が見えていた。

 ニューヨークの時間に合わせた腕時計は、午後六時を過ぎている。

「黒永さん、話の続きはホテルでしない?」

 外を指差して、俺は彼女に提案する。

「本当ね、行きましょうか」


 ホテルに帰る前に、夕飯を食べるために適当な飲食店に入る。

 ただ、外れだったのか、あまり舌には合わない味付けのハンバーグに苦しんだ。

 黒永さんも微妙そうな顔で、ナポリタンを食べていた。

 ま、こんなこともあるさと俺たちは互いに言い合った。

 不味い料理を前に、先ほどの話の続きなど出来るはずもない。

 サッサと食べると、俺たちはホテルに戻る。

 中に入って、預けていた鍵を受け取りにフロントへ向かった。

 受付の男性は英語で何かを言いながら、黒永さんに鍵と共に何か紙を渡した。

「伝言?」

 フロントから離れエレベーターへ向かう中、俺は彼女の横からその紙を覗いてみる。

 もちろん英語で書かれていたが、これぐらいなら俺でも意味は読み取れる。

『クラブに入れたから、三人で一晩踊ってくる。新太郎より』

 書かれていた言葉は、ただそれだけだった。

 これが本当ならば、彼らはが戻ってくることはないだろう。

「なら、話の続きは有賀たちの部屋で話しましょう」

 黒永さんがそう提案するので、俺は素直に頷いた。


 部屋に上がる前にお互いにラフな格好に着替えることになった。

 彼女と別れてから十分ぐらい後、黒永さんは俺たち男子部屋にやってきた。

 彼女は興味があるから、と備え付けの冷蔵庫からビール缶を取り出した。

 俺も彼女に付き合うために同じビール缶を取り出す。

 未成年の飲酒をとがめる人はこの場には誰もいないのだし、少しぐらいなら良いだろう。

「じゃあ、乾杯」

 俺がなんとなくそう言うと、黒永さんは不思議そうな顔でたずねた。

「何に?」

「そうだな……プレスキル博士に、でいいんじゃないかな」

「それはいいわね」

 そう言って、俺たちは缶を開け、グイッと一口飲んだ。

 炭酸と共に、味わったことのない苦味で口がいっぱいになった。

 それはどうやら彼女も同じだったらしい。

「……苦いわね」

「おいしくはないのは確かだね」

 これ以上飲めそうにないので、ビールを止めてカクテルらしき別の缶にする。

 カクテルは甘くてジュースのように飲みやすかった。

 それに、少し気分が良くなってくる。

「えっと、話の続きをしましょうか」

「うん」

 お互いに向かいになるようソファーに座っていた。

 ソファーにはサイドテーブルのようなものがくっついており、そこに何個か缶を置く。

 黒永さんは夏らしく黄色のラインが入った黒いTシャツと、白い短パンを穿いていた。

「私が天才じゃない、と話したところだったかしら」

「ああ」

「あなたは発明家エジソンの言葉を知ってる?」

「それって、“天才は1%の閃きと99%の努力”ってやつ?」

「そう。私はその言葉は真理だと信じている」

 カクテルを飲みつつ、黒永さんは続ける。

「私は努力なんてほとんどしたことがないの。物理も化学もドイツ語も何もかも、あっという間に覚えてしまったわ。それに、私にはインスピレーション、閃きが足りないのよ」

 だからどうしたというのだろうか。

 エジソンの言葉を信じるなら、彼女の言い分からすれば、黒永月夜は天才ではない。

 しかし、現実的に見れば、彼女が天才じゃないなんて誰が思うのだろうか。

 そんな納得できていない俺の顔を見て、黒永さんはさらに話しを続ける。

「対照的に、プレスキル博士は幼少期は貧しく、人には容姿について馬鹿にされたようね。でも、彼は負けずに勉強してハイスクールに入学した時点で物理は大学レベルも理解していたらしいわ。二年目には物理界で話題になっていた問題に対して新説を発表して、学会を騒がせ、世界的に権威のある研究所に呼ばれ、今でもそこでずっと研究し続けて――」

 酔いが回ってきたのか、長い解説を途中で切って、彼女は窓の外を見る。

 俺も窓の外を見ると、夜空に三日月が輝いていた。

 プレスキル博士の容姿に関しては、講演中にも感じていたことだ。

 けど、彼女の話から彼はその悔しさをバネに今まで生きてきたのだろう。

「私は彼に比べれば、才能だけで生きている愚か者よ、有賀……」

 そう言って、黒永さんは缶に残っていたカクテルを一気に飲み干す。

「そうか……」

 天才とは少しの閃きを持ち、多くの努力を行える者。

 黒永さんはそれを信じている。

 けれど、俺はやはり天才は才能の塊を持つ人だと思っている。

 普通に考えれば、彼女の知識は習おうと思っても簡単には身に付かないものだ。

 それなのに、こうして身に付けているのだから、凡人である俺からすれば“天才”としか言い様がない。

 だが、それを言ったところで何かが変わるわけじゃない。

 黒永さんが自分自身を天才だと思っていない節が見られたのは、今に始まったことじゃない。

 きっと、彼女はこうしていつも世間一般の認識と自身の感覚のズレがあることを確認しているのだろう。

 とすれば、俺は彼女からすれば常識を測るものさしのような物なのかもしれない。

 そんな面白くもないことが浮かんでくるのは、きっと酔いが回り始めたからだと思いたい。

 俺も飲んでいた缶を飲み干すと、次の缶に手を伸ばす。

 彼女も次の缶を開けていた。

 それ以降、俺たちは何も言わないまま次々と缶を開けていき、ついには冷蔵庫の中にあった全ての缶を飲み干していた。

 いつの間にか先ほどまで夜空に輝いていた三日月がすでにいなくなっているほど、時間も経過していた。

「さて、そろそろ戻りましょうか――」

 そう言いながら立った黒永さんだが、フラリと体が前に傾いた。

「あっ」

「危な――!」

 俺はとっさに立ち上がって、彼女を抱きとめる――つもりだったが、酔いが回っているのは俺も同じだ。

抱きとめる力が強すぎたのか、今度は黒永さんが後ろの方に傾いた。

「おわっ!?」

「きゃっ!」

 彼女が俺の服のどこかを掴んでいたのだろうか、俺も一緒に床に倒れこんだ。

 ちょっとした衝撃が体に走る。

「っと、黒永さん、大丈夫?」

 顔を上げながら、俺は彼女の心配をする。

「え、ええ、大丈夫」

 幸いなことに床は分厚いカーペットが敷いてあるので、俺たちは体のどこかを強打することはなかったようだ。

「そうか、よかっ――た」

 ――なかったのだが、俺は気づいてしまった。

 カチ、カチと壁にかかった時計の時間を刻む音がやけに大きく聞こえる。

 俺は手足で体を支える、言わばよつんばいの状態だ。

 部屋は暑くないのに、全身から汗が噴き出してきた。

 黒永さんはどこにいるのかというと、俺の下で仰向けになっていた。

 “俺の下”で、だ。

 つまり、この状況を仮に俺たち以外の第三者が眺めることがあれば、“有賀陽平が黒永月夜を押し倒している”としか考えないだろう。

 そう考えた瞬間、焦る、焦る、顔が焼ける。

 早くどかないと、彼女は立ち上がれない。

 けれど、さっき抱きとめたときに触れた黒永さんの体の柔らかさが、今も少し香る何か良い匂いが、俺をじっと見つめるその黒く濡れた瞳が、赤く染まった頬が、整った綺麗な顔が、俺を捕らえて離さない。

 どうしよう、どうしようと思考がグルグルとショートを起こす。

 そう言えば、そんなことを思ったことが前にもあったような――。

「あ、りが?」

 唇から漏れたとしか言えないその名前が、俺を正気に戻すキッカケになった。

 瞬間、俺は後ろに仰け反ることができた。

「ご、ごごご、ごめんっ!」

 気づけば、俺は土下座をしていた。

 けれど、彼女は別に気にしていない感じだった。

 ただ、足がふらつくから部屋まで送って欲しいと頼まれたので、彼女の言うとおりに俺は送り届けた。

 俺も酔っているので、半ば二人で支えあっているように見えたかもしれないが。

 無事に彼女が部屋に入ったのを確認すると、俺は部屋に戻って着替えずにベッドに潜り込む。

 先ほどの出来事を今も体験しているようで、なかなか寝付けなかった。

 思い出すなと思えば思うほど、どんどん大脳に刻まれていく体験。

 あそこで、理性のタガが外れたら、とんでもないことになっていたに違いない。

 俺が眠りについたのは、深夜四時――まだ新太郎たちは帰ってこなかった。


 翌朝、黒永さんにそれとなく聞いてみると、酔いのせいか、何も覚えていないと言う。

 朝起きた後に片付けをしていたとき、空き缶を数えてみると二十数本散らかっていた。

 俺はあまり飲まなかったから、彼女がそれだけ飲んだということなのだろう。

 記憶がないと知り、俺はほっとすると同時にちょっとだけ悲しくなった。

「陽平、何があったか知らないけど、元気出せよ」

 一晩踊り疲れ切った新太郎の慰めも、俺の耳には響かなかった。

 今の俺こそ、愚か者だよ、黒永さん。

 帰りの飛行機の中で、俺はそんなことを考えつつ昨晩あまり寝れなかったためにまどろんでいった。


 第八話へ続く

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