第三話 硝子に独り
―(有賀陽平)―
黒永さんと出会ってから、およそ一週間が経過した。
その間、彼女の実験をほぼ毎日見に行っていた。
先週、彼女は俺に放っておいてと言ったが、月曜日に来た俺を無理やり追い出そうとはしなかった。
まだ無愛想な態度を示しているが、ちゃんと話をするときはこっちを向いてくれるようになった。
たまに観察されているような気分になることもある。
だけどそれ以上に俺のことを見て話してくれるという小さな変化が、俺にはなんだか世界が大きく変化したような驚きを感じさせる。
多くの出来事が新しい発見だった、昔に戻ったような感覚だった。
―(島津綾人)―
「んで、ボールが落ちる速さは質量と関係がないわけ」
「ほぉほぉ……」
五月十四日、土曜日の昼休み。
陽平と新太郎、そして僕、綾人の三人で昼食をとっていた。
牧原さんは生徒会の仕事があるため、今日は一緒じゃなかった。
食堂のテーブルに各々がつくと、陽平と新太郎は先ほどの授業の話をしだした。
どうやら、新太郎が物理の授業で分からなかったところがあったらしい。
それを、陽平が解説しているみたいだ。
「お前、いつの間にそんなに物理ができるようになったんだ?」
彼の解説が終わると、新太郎はそんなことを聞いていた。
けど、その疑問はもっともだ。
僕が先週、オススメの本を見つけて彼に渡したとはいえ、この理解の早さは異常だった。
「あぁ、最近、ちょっと知り合いに物理を教えてもらっているんだ」
「知り合いって、お前の周りで物理が出来る奴なんて……牧原か?」
「いや、黒永さんだよ」
さらっと、陽平はその名前を口に出す。
新太郎は口をポカーンと開けて、陽平を凝視する。
僕も同じような表情をしていることだろう。
あの人嫌いそうな天才少女と、陽平が知り合いだったなんて。
僕は思わずメモ帳にこう書いていた。
『黒永さんと知り合いなの?』
「先週知り合いになったんだ」
「どういうこってぇ、陽平、なんであんな奴と?」
新太郎の疑問は、誰もが抱くであろう疑問だった。
陽平は悪く言えば凡人である。
だから、黒永さんのような天才とは相性があまり良くないと思うのだ。
「わ、笑わないで聞いてくれるか?」
『もちろん』
陽平がいつになく真剣にそう聞いたから、僕は即そう返事をした。
理由はもちろん、彼が黒永さんと知り合いになった訳が知りたかったからだ。
「お、オレも、ちゃんと聞くぞ」
新太郎も返事をすると、陽平はちょっと息を吸って、切り出した。
「なんかさ、彼女のこと、放っておけないんだ」
「放っておけない?」
「黒永さんって、皆が言うように人を関わろうとしないからなのか、なんだか寂しそうなんだ」
僕は陽平の言葉を聞いて、少し過去のことを思い出していた。
二年前、受験が終わった後、交通事故に巻き込まれて、僕の声が出なくなった。
あのとき、本気で自殺しようかとも考えていた。
自分の声が出ない。
そのことが、どれほど人を孤独にし、恐怖させるのかは、語らずとも分かるだろう。
しばらくの入院生活は、地獄そのものだった。
窓の外に映る夕日が沈むたびに、あと何日生きていればいいのだろうかと気が滅入っていた。
だから、僕は病室で死んだような状態で毎日を過ごしていた。
――陽平が、見舞いに来てくれるまでは。
彼は最初の頃は、僕の様子に驚いたようだったけど、何回目かの見舞いのときにこう言ったのだ。
「綾人、俺にはお前が背負った苦しみは分からない。けど、声を失くしたからって、生きる意志も失くすなんて、最低だよ」
それは今まで僕がもらったどんな励ましの言葉とも違った。
“頑張れ”、“負けちゃだめだ”、“あきらめるな”。
そんな言葉に耳を貸さなかった僕は、あのとき陽平の言葉には耳を傾けたのだ。
「お前は孤独じゃないんだ。家族はもちろんだけど、俺や新太郎だって、お前にただ生きていて欲しいんだ」
生きるだけでいいだなんて、なんて自分勝手な言葉なんだろう。
僕が生きているなら、陽平はそれで満足するのだろう。
しかし、ただ生きるだけの僕がどう生きていくのかは全く知らぬ顔をするのだろうか。
もしそうするのならば、偽善と言われても仕方がない。
けれど、陽平はこう続けた。
「俺が、お前のことを全力でサポートする。約束するよ」
その日から、陽平は声が出ない僕のために、一緒に手話を覚えたり、筆記を素早く行う訓練などに付き合ってくれるようになった。
僕は、ただ、うれしかった。
僕が生きていくために一緒に歩調を合わせてくれる陽平が、うれしかった。
だから、陽平は他人のことを放っておけない人間なんだと思った。
そう言えば、中学でも陽平は結構人助けをしていたっけ。
そのことを思い出したとき、僕は少し馬鹿らしい考えが浮かんできた。
陽平は他人を助けるのは当たり前なのだと思っているのではないか。
誰彼かまわず助けを乞われれば、その手を簡単に差し出してしまっているのではないか。
だとすれば、彼にとって本当に助けるべき人っているのだろうか。
みんな平等に扱うその姿勢は素晴らしいと思う。
だけど、真っ先に助けてあげようと思える相手がいないことって、不幸なんじゃないのか。
僕の隣で筆記訓練を一緒にやってくれる陽平を見ていると、その考えが否定しきれず、僕は少し悲しくなった。
「天才なんて孤独なもんさ、寂しいわけないだろ」
新太郎がそう口にして、目の前のパンにかじりつく。
確かに教室内の黒永さんを見る限りでは、そんな風には見えなかった。
むしろ、彼女は周りに溶け込むことを良しとしていないように思える。
僕たちのほとんどが誰かと一緒にいなければ不安で仕方がない一方、彼女はむしろ一人でいようと努力していた。
彼女は僕たちのように、弱くはないのだ。
確固たる意思を幼い時分から持ち、日々を生きている。
かつて、生きることを諦めようとしていた僕には持ちようのない強さを持っている。
そして、その強さを持つことができない僕は、彼女に嫉妬している。
しかし、陽平はやっぱり違うようだった。
「俺は、寂しそうに見えるんだけどなぁ……」
共感を得られなかったからか、自信がなさそうにポツリともらした。
どうして、陽平がそういう風に彼女を見るのかは分からない。
けど、彼がそう願いのならば、友達は応援してあげるべきじゃないだろうか。
そして、黒永さんは助けて欲しいと言ったわけじゃないのに、陽平は彼女を優先している。
ならば、彼女と一緒にいることで陽平はきっと幸せになれるのではないか。
『陽平がそう思うなら、黒永さんの側にいてあげればいい』
気がつけば、僕は彼を励ますつもりで、そう書いていた。
「綾人?」
『僕は陽平がしたいことを実行すればいいと思うよ』
いつか、僕を救ってくれたときのように。
僕からのメッセージを見て、陽平は笑顔でお礼を言ってくれた。
―(有賀陽平)―
昼休みが終わって、放課後になると、俺はまた第二化学実験室に向かった。
綾人のおかげで、自分が思ったことをしようという気になったのだ。
実験室に入ると、黒永さんはやはりいた。
彼女は電子レンジぐらいの大きさの銀色の管の周りをいじっているみたいだった。
「よっす、黒永さん」
「……こんにちは」
でも、俺が挨拶すると、彼女も挨拶をしてくれる。
前はそうじゃなかったから、それだけでも嬉しくなる。
「今日は何の実験?」
「ヘリウムを酸素に結合させる実験」
「ヘリウムを? でも、それって無理なんじゃ……?」
ヘリウムのような希ガスと分類される原子は、ただ一つの原子で存在できる。
酸素のように、複数の原子が集まって分子になる必要はない。
だから、通常、希ガスと他の原子は結合できないはずだ。
「エネルギーを与えれば、結合自体は簡単に出来るけど、離れるのもまた早い」
黒永さんはさも当然のように口にする。
「だから、今日はその結合を維持するための方法を模索する」
「その電子レンジみたいな管は?」
「これでヘリウムと酸素にエネルギー、今回は電気を与える」
そういうと、管の横にあるモニターに数字や英語が映し出される。
何も音や光を発してないけど、どうやら実験は始まっているようだ。
ガラスであれば、中がどうなっているのか見れるけれど……。
彼女は椅子に座って、じっとモニターを見て、ときどきノートパソコンに何かを打ち込んでいた。
俺は当然暇になるから、いつものように彼女の横に座っている。
黒永さんは集中している今、話しかけることは出来ない。
実験室が赤く染まっていく。
実験そのものは十五分程度で終わったが、黒永さんはそれを何回も繰り返した。
いくつか質問してみたところ、どうも実験が上手くいっていないようだ。
様々な原因を列挙したところで、日が完全に落ちたため、今日は解散となった。
夕暮れの教室の、ちょうど真ん中。
机が一つ、置いてあり、褐色のフラスコが固定されていた。
フラスコの周りにいる生徒は口々にささやいている。
「あのフラスコ、何、気持ち悪ーい」
「危ねぇよ、何入ってるか分かんねーし」
「誰か、あれ捨ててきてよ、気味悪いわ」
しかし、時々、ニャーニャーと猫のような鳴き声がする。
あのフラスコの中に、猫がいるのだろうか。
褐色のせいで、中がよく見えない。
どうしても気になって仕方がなかった。
俺は、フラスコの周りにいる生徒をかきわける。
そこで、誰かに腕をつかまれた。
「止めとけよ、陽平。あんなものに近づくんじゃない」
驚くほど感情のこもっていない声だった。
思わず振り返ると、そこにいたのは新太郎だった。
しかし、その顔は無表情で、不気味だった。
俺は恐怖を感じて、思わずその手を振り払った。
「有賀くん、危ないから近づいちゃ駄目だって」
今度は牧原さんだ。
新太郎よりも口調は穏やかだが、やはり無感情な声だった。
みんなには、あの猫の鳴き声のようなものが聞こえないのか。
助けようと思うどころか、どうして、そう無視しようとするんだ。
「陽平がそう思うなら、そうすればいいと思うよ」
久しく聞いていなかった声がした。
声の主は綾人だった。
事故に遭って以来、ほとんど聞くことのなかった、ちょっと高めの声。
綾人の本当の声だ。
「だから陽平、周りの声に負けたらいけないよ」
綾人だけは、俺の行動を止めようとはしない。
そのことに俺は勇気をもらって、恐れずにフラスコに近づく。
相変わらず、猫の鳴き声がする。
俺は、少しもためらわずにそのフラスコを手に取ってみた――。
目が覚める。
いつもの俺の部屋……ではなく、教室だ。
今日は十七日の火曜日。
むろん、平日であるのでこうして学校に来ている。
「この定理によって、この方程式はこう書き換えられるから――」
黒板には数字と記号の羅列が書かれている。
先生はチョークを動かす手を止めずに、次々と式を書いていく。
どうやら、数学の授業中に机に突っ伏して寝ていたようだ。
後ろにいる新太郎も大爆睡。
俺は開きっぱなしのノートに黒板に書かれていることを書き写し始める。
その作業の片隅で、俺はさっきまで見ていた夢のことを考えていた。
あの不可思議な夢のことは、忘れたくても忘れられないほど強烈に覚えていたのだ。
しかし、考えようとすると、なぜか黒永さんのあの寂しそうな横顔が浮かんでくる。
俺はさらに不思議に思いながら、黒板をメモし続けた。
授業は終わり、休み時間になったものの、あの夢のことについて何も分からなかった。
そりゃそうなのかもしれない。
夢は現実の整理のために行うと言われるが、基本的には自分の思い一つなのだから。
だから、理性で考えても分からないことばかりだ。
「ね、有賀くん、ちょっといいかな?」
そんなとき、牧原さんが声をかけてきた。
さっきの夢のこともあったので、俺は彼女のことをまじまじと見ていた。
少し茶色に近い黒色のショートカット。
学年でもトップを争う可愛さを持ち、運動に勉強、何でもこなせる。
生徒会執行部に所属する、学年の代表者でもある。
これだけ人を惹きつける点を持ちながら、その点に甘えることなく日々頑張っている。
だからこそ、夢の中の彼女はそんないつもの彼女と全く異なっていて今更ながら恐怖を感じた。
「どうしたの?」
きょとんとした顔で、牧原さんが俺を見ていた。
俺がじっと見ていたから、不思議に思ったのだろう。
「ごめん、何でもない。で、どうしたの?」
「うん、今日の放課後にちょっと有賀くんに手伝ってもらいたいことがあって」
人に助けを求めることができる点も、結構人気のあるポイントの一つだ。
だって、それは彼女ほどの人間に必要とされていると思えるからだ。
「分かった、手伝うよ」
「ありがとう! 本当に助かるわ」
花が開くように、彼女に笑顔が浮かぶ。
その顔を見て、やはり夢は夢でしかないと思った。
放課後、俺は黒永さんがいる第二実験室に向かった。
そして、今日はちょっと用事があることを伝えると、彼女は言った。
「いつも来て欲しいとは言ってないから、平気よ」
「ありがとう、それにごめん」
「謝る必要はないわ」
そんな言葉を交わして、俺は今、牧原さんの手伝いをしていた。
執行部は大体五、六人しかいないので、時々人手不足に陥りやすい。
そこで、執行部の役員は俺みたいな暇人を捕まえて手伝わせることが多い。
今回は、来る体育祭に向けたパンフレット作りだった。
一枚の紙にはそれぞれ種目や応援団の紹介、体育祭実行委員会の意気込みなどが書かれている。
これをホチキスで止めて冊子にしていくという地味で面倒な作業をするのだという。
生徒の数は全学年合わせて大体四百五十人なので、それぐらい作るそうだ。
なお、体育祭は六月四日の土曜日に行われる予定だ。
「美恵は体育祭では何に出るか、もう決めたの?」
俺のように牧原さんに誘われて、一緒に手伝っている女子の一人がそう言い出した。
ちなみに、今回のお手伝いさんは男子は俺一人、女子三人、みんなクラスメイトだ。
牧原さんを含めれば五人いるので、おそらく一時間ほどで全作業は終わるだろう。
「んー、あたしは玉入れとかの団体競技に出ようかなって思ってるけど」
「美恵が指揮を執れば、きっと他のクラスにも勝てるよ!」
俺はその会話には加わることなく、黙々と作業を進めていた。
日は沈みかけている。
開けっ放しの窓からは、校庭に響く部活動の音が聞こえてくる。
女子は女子同士で体育祭とは関係のない話を始めていた。
俺は、さっさと終わらせようと、黙って作業を続けた。
そんなとき、ふと、黒永さんのことが思い浮かぶ。
彼女は体育祭はどうするんだろうか。
そういえば、前に綾人が彼女は行事をよくサボるって、言っていた気がする。
なんだか皆と一緒に競技に出るという雰囲気がないため、一度そう考えると気になってしょうがない。
そのため、作業に集中することが出来ず、先ほどの決意とは裏腹にそんなに早く終わることはなかった。
その晩、心中穏やかならぬまま過ごした。
夕食時に、母さんにその心を見抜かれたときは焦った。
なんと返事をするべきだろうか迷っていると、珍しく早くに帰ってきていた父さんに言われた。
「お前のことだ、小さなことで悩んでいるな?」
小さいこと、なのだろうか。
ベッドに寝転がっても、なお、俺は悩んでいた。
黒永さんが体育祭に参加するかしないかって、小さいことなのか。
俺にはそれを判断するには、あまりにも重ねた年月が少なかった。
友達と一緒に過ごさない日などなかった。
親とも、こうして一緒の食卓を囲むことも出来る。
だから、“孤独”というものを真の意味で理解など出来るはずがなかった。
そこまで考えたとき、俺はあれと思った。
黒永さんは孤独なのか。
確かに誰とも関わろうとしないけれど、両親だっているだろうし、そんなことはないはずだ。
だけど、俺の中で生まれた疑惑はなぜか確信に近いものになっている。
家でのことは分からない。
だけど、少なくとも学校では黒永さんは独りでいたがる。
そして、誰も彼女とは関わろうとしない。
「……なら、俺が」
俺が、彼女と関わらないで、どうするんだ。
確かに小さい悩みだった。
黒永さんがいつも独りでいる。
それだけで、理由は十分。
「明日、どうするのか、聞いてみよう」
俺はそれだけを思って、今日という日を終えた。
第四話へ続く