第十三話 月廻って太陽が昇る
―(有賀陽平)―
その日は灰色の雲が東西京市全体を覆っていた。
冬は本格的となり、雪が降ってもおかしくないほど寒さは厳しかった。
だけど、天気予報によると午後から晴れるそうなので、雪が降ることには期待は出来そうもない。
俺は東西京駅前のバスロータリーで寒空の下、ただ待った。
時刻は午前九時前。
時計を確認したとき、丁度俺の前でバスが停まり、昇降口から一人の少女が降りてきた。
「ごめんなさい、待たせたかしら?」
「いや、そんなに待ってないよ、黒永さん」
バスから降りてきた黒永さんは紺のダッフルコートにチェック柄のマフラーを身に着けていた。
下はスカートを穿いており、タイツを着ているとはいえ寒そうにみえた。
バスに乗っていた客が次々と降りてくるので、俺たちは駅の切符売り場に向かうことにした。
目的地は遊園地、つまりデートをするために。
今日は十二月二十五日、クリスマスであると同時に、黒永さんの誕生日でもある。
黒永さんが孤独でなくなった日の翌日。
彼女はちゃんと学校へ登校してきた。
何日も休んでいたが、事情を知らないクラスメイトの人たちはあまり気にしていない様子だった。
ただ、登校していると知った牧原さんはすぐさま隣のクラスへと駆け込み、黒永さんに抱きついた。
「良かった、黒永さん、良かったぁ」
泣きこそしなかったが、その言葉から牧原さんがどれだけ黒永さんのことを心配していたのかがうかがえた。
新太郎や綾人はやれやれといった感じだった。
もちろん、三人には俺と黒永さんが恋人同士になったことはその日の昼休みに伝えた。
すると、牧原さんと綾人は驚きながらも素直に祝福してくれたが、新太郎は違った。
「陽平はモテていいよなぁ、オレも誰かに惚れられていないんかな」
何を言い出すのかと思ったが、俺がそれを言う前に黒永さんが言葉を返した。
「吉岡にもそのうち彼女が出来るわよ」
「へっ?」
「あなた、結構面白いから」
黒永さんから新太郎に話しかけるというのはなんだか新鮮な光景だったが、とにかく三人には受け入れられたようだった。
放課後、久しぶりに実験を行っている最中に、俺は前々から思っていたことを伝えた。
「黒永さん、お父さんとお母さんとちゃんと話をしたらどうかな?」
「……そうね。今まで迷惑かけていたのは間違いないでしょうし」
彼女はそのとき、間違いなく緊張していた。
つまり、黒永さんは両親と会話することを怖がっている。
「大丈夫だよ。二人とも才能だけ愛しているだなんて、誤解に違いないんだから」
特に母親の朋子さんに至っては、黒永さんは自分のお腹を痛めてまで産んだ一人娘だ。
なのに、娘自身を愛していないだなんて、そんなのは寂しすぎる。
「分かった、そうしてみるわ」
その週の日曜日の夜、黒永さんから電話があった。
内容はもちろん、両親との会話の結果だった。
『有賀、父さんと母さんと話してみたわ』
「ど、どうだった?」
『あなたの言う通り。結論から言えば、私の誤解だったみたい』
やはりというか、当然だったというか。
今まで朋子さんとはほとんど会話がなかったようだが、それは黒永さんが一人になると誓ってからさらに近づきづらい雰囲気が出ていたらしい。
そのため、両親でさえ彼女に接しにくかったのだという。
だがそれも思春期の少女特有のものと考えられ、また仕事も忙しくなっていたため、あえて距離をとっていたようだった。
喫茶店でのアレは、素直に忙しすぎるから娘の顔を見ておこうという思惑だったのだろう。
確かに周りから見れば歪ではあるが、その想いに偽りも悪意もなかったのだ。
『それで、私と有賀のことを話したら、おめでとうと言ってくれたわ』
「それは良かった」
『有賀はご両親には話をした?』
緊張を含めた声色で尋ねられ、俺は安心させるように語った。
――実はあの日の夜に普通に見抜かれた。
黒永さんを送って帰宅して、夕食の並んだテーブルに席を着いた時だ。
「陽ちゃん、なんか嬉しそうね。彼女できたでしょ?」
「えっ!? なんで分かったの!?」
「女の勘、かしらね~」
「ほう、どんな子だ? 今度、ウチに連れて来なさい」
「ほんとね、私も早く会ってみたいわ」
つまり、俺の両親もあっさりと認めてくれたのだ。
“認める”って、結婚をするわけじゃないのだから変な表現ではあるが、まぁ俺が誰と付き合おうが気にしないという感じだったのだ。
「――って、感じだったから、今度ウチに遊びにおいでよ」
『そうね……考えておくわ』
そして、あの褐色フラスコの夢はあの日以来、全く見ることはなくなった。
きっと、黒永さんが孤独から救われたからだと思う。
だけど、今振り返ると、不思議な夢だった。
あの夢を見ることがなければ、彼女の苦しみに気づくことはなかったのかもしれないのだ。
夢を見なくなってしばらく経ってから、夢のことを黒永さんに言ってみた。
本当にそんな夢を見たのかと疑われるかと思っていたのだが、彼女は驚くほどあっさりと信じてくれた。
そして、意外な言葉を口にする。
「夢というものはある意味では違う世界そのものでもあるから、もしかすると私と繋がっていたのかもしれないわね」
科学者とは思えない、空想とも妄想とも言えてしまう言葉だった。
「別の世界って、凄いこと言うね」
「そうかしら? 私たちが生きるこの現実も、もしかしたら誰かが見ている夢なのかもしれないのよ」
なんだかSF小説の世界の話のような議論になっていた。
だけど、夢と言う無意識下の世界でも、彼女と繋がっていたと思えばなんだか嬉しくなってくる。
不思議ではあったが、今はそれだけでも十分だった。
一時間かけて電車に揺られて着いた西京遊園地の中は、やはりと言うか恐ろしく混雑していた。
だけど、彼女は一度も遊園地に来たことがないと言っていたので、俺は今日はどうしてもここに連れて来たかった。
一応、今日より前にデートを二度しているが、そのどちらも近場で済ませていた。
記念すべき初デートは無難な映画――内容はアメリカで話題のSFアクション物にした。
SFにした理由は単純なもので、黒永さんが見てみたいと言ったからだ。
その内容は、未来からやってきたサイボーグに命を狙われる少年が生き延びるために抗うというものだった。
これが思いのほか面白く、黒永さんもしきりに関心していた。
映画を見終わった後で近くにある喫茶店で休憩しながら、さっきの映画はどこそこが面白かったとか、ここをもう少し何とかして欲しかったとか、そんな他愛のない話を日が暮れるまで話した。
二回目は、黒永さんの希望で図書館になった。
何でも、今読んでいる論文を理解するための参考図書を探したいから、というのが図書館を選んだ理由だった。
もちろん、断る訳もなく、俺は黒永さんのためにメモに書かれた本を一緒に探した。
見つけた本は、借りて持って帰らずに彼女はその場で読むつもりだったようだ。
だから、俺は彼女が分厚い専門書を五冊読み終わるまで、隣の席で適当に持ってきた文庫本を読み続けていた。
これをデートと呼べるかどうかは、人によっては異なるだろう。
けれど、俺からすれば彼女と二人っきりで出掛けること自体がデートそのものだと思っているから良かった。
それに、そういうところも含めて、俺は黒永さんを好きになったのだ。
「さて、大分混んでいるから、かなり待たされるとは思うけど、何から乗りたい?」
隣でパンフレットを穴があくほど見ていた黒永さんに問いかけてみる。
彼女はパンフレットから目をそらさずに答えた。
「そうね……このジェットコースターに乗ってみたいわ」
「分かった」
俺は彼女の片手を掴んで、ジェットコースターがある方角へ歩き出す。
もちろん、握りたかったという欲求もあったが、はぐれないようにという理由もある。
黒永さんは俺の手をしっかりと握ってくれるどころか、指と指を絡めさせた。
いわゆる、恋人繋ぎというアレだ。
俺は内心の動揺を抑えつつも、黒永さんが疲れないように歩調を合わせた。
―(黒永月夜)―
彼が急に手を握ってきた時、私はいつも驚いてしまう。
もう何度目なのか分からないぐらい、手を繋いでいるというのに。
この心臓の鼓動が彼に伝わってしまわないか、少し不安になる。
アトラクションはジェットコースターに限らず、他のものも長い行列が出来ていて、最低でも一時間半は待たされることとなった。
最初に乗ったジェットコースターは、頂点から落ちるときの心臓や肺が浮き上がるような気持ち悪い感覚、そして自分の意思と関係なく四方八方に振り回される感覚が私をただただ驚かせ、そして恐怖した。
もしかすると、悲鳴を上げていたのかもしれない。
ジェットコースターが終わった後、唐突に有賀が顔を赤くしながら、可愛かったと言ってきた。
先ほどの可能性が断定へと変わる。
「普通に怖かったわ」
だから、人目もはばからずに言うわりに照れる有賀に対して、素直な感想を述べた。
彼はそっかと一言だけ呟いた。
この頃には先ほどまでの曇りが嘘のように、空は晴れ渡っていた。
そんな晴天の中、私たちはお化け屋敷へと入った。
けれども、先ほどの恐怖がまだ残っているためか、お化け屋敷は思いのほか怖くはなかった。
そもそも、歩いている客の前に急に飛び出てくるだけでは、怖くもなんともないのだ。
お化け屋敷と分かって入る以上、それでもなお驚かせる工夫をすべきだと、私は結論づけた。
そんな驚かない私の様子を見て、有賀は残念そうだったが、その有賀のせいで余計に怖くないのだ。
なぜなら、屋敷の中でも有賀がずっと手を繋いでいてくれるからだ。
いや、側にいてくれるなら、多分私は怖がることはないだろう。
ここで一旦お昼を食べて、メリーゴーランドへと向かった。
有賀は最初、男が乗るものじゃないと言って躊躇っていたが、私が乗ったことがないから試してみたいというと承諾してくれた。
彼は子供が喜ぶものだと思っていたようだが、行列を見ると意外と男女の二人組みが多いことに気づく。
クリスマスだからなのかもしれない。
私たちの番になると、私は最初から目をつけていた白い馬に向かった。
それに跨ると、少しひんやりとする。
案外馬上は広く、後ろにもう一人ぐらい乗れそうな空間がある。
有賀は隣の馬に乗ろうとするが、私はそれを制止する。
「有賀も一緒に乗りましょう?」
彼はえっと小さく驚き、少し迷った挙句、私の後ろに跨った。
電車の発車音みたいな電子音の後、メリーゴーランドはゆっくりと回り始めた。
徐々に背中が温かくなる。
そこで、私は有賀と密着していることに気恥ずかしさを覚えた。
礼拝堂でも後ろから抱き寄せられたが、あの時以来の温もりだった。
おとぎ話のように明るい曲が流れる中、私たち二人はメリーゴーランドが静止するまで黙っていた。
四つ目となる観覧車の行列に並び始めた頃には、もう夕陽が沈み、辺りは少しずつ暗くなり始めていた。
「多分、これが最後のアトラクションになるかな?」
確かに行列は二時間待ちのため、観覧車から降りる頃にはもう十八時を過ぎてしまう。
その時間には、ナイトパレードが始まっているというので、一緒に見ようということになった。
長い長い待ち時間の後、私たちは観覧車に乗り込む。
お互いに向かい合わせになるように座るのを確認した係りの人は扉を閉める。
これで、この狭い空間の中で、私と有賀の二人きりとなった。
少しずつ高さが増していく中、お互いに沈黙したままだった。
大体待ち時間の多くは有賀が話し、私が聞き手になることが多かった。
必然的に有賀の方が喋る量は多くなる。
申し訳ないと思うのだが、私から話せる話題となると学術的なことがどうしても多くなってしまう。
そんな話をこんな場所でしても、彼は表面上は聞いてくれるが内心では退屈に思ってしまうだろう。
きっと彼はそんなことはないと否定するだろうけど。
でも、そうやって気を遣わせてしまうよりは、黙っていた方が良いはずだ。
彼がこの沈黙をどう思っているのか分からないけれど、私は静かなこの雰囲気が好きだから。
私は徐々に見えてくる西京市の街明かりと夜空に輝いている星々をじっと眺めていた。
「あ、あのさ」
頂点を過ぎ、あとは下降していくだけとなった時。
それまで黙っていた有賀が口を開いたので、私は彼の方へと視線を移した。
「黒永さん、誕生日おめでとう」
そう言って、有賀は隣に置いていたショルダーバックから何か袋を取り出した。
「これ、プレゼント。気に入ってもらえると良いんだけど」
受け取った私は開けてもいいかと尋ねると、快く良いよと言ってくれた。
丁寧に袋を開けると、中に入っていたのはネックレスだった。
金色の細かいチェーンに結ばれているのは、五百円玉ほどの大きさの三日月だった。
「嬉しいわ。ありがとう、有賀」
私は早速着けてみたいというと、有賀が手伝ってくれた。
マフラーとコートを外して、ネックレスをビニールから取り出す。
有賀はそれを受け取り、私の首の裏へと手を伸ばした。
近づく彼の身体、くすぐったい首の裏。
私はドキドキして、有賀がネックレスをつけてくれるのを待った。
「出来た」
そう言って、私から離れる有賀。
胸元へ視線をやると、そこにはちゃんと三日月が浮かんでいた。
コートの下には黒のセーターを着ているので、本当に夜空の月のように見えた。
「うん、よく似合ってるよ」
「よく見つけることが出来たわね、このネックレス」
「まぁ、結構探したからね。最初から月のネックレスをあげようと思っていたんだけど」
有賀がそれをどうやって見つけてきたのかを語っている間、私は確かな幸せを感じていた。
コートを脱いでいるので寒いはずなのに、心が温かくなる。
これが幸せという形なのだろうと、私は形ないものを定義していた。
―(有賀陽平)―
東西京駅へと帰ってきたものの、時刻は二十時をとうに過ぎ、むしろ二十一時になろうとしていた。
観覧車から降りた後、予想通り始まっていたナイトパレードを見ようと広場にまで足を運んだ。
しかし、すでに場所取りしていた人たちに阻まれ、パレードはほとんど見ることが出来なかった。
だから、黒永さんにパレードが終わる前に出ようと提案したところ、彼女はあっさりとそれを承諾した。
ところが、同じ考えだった人が大勢いたのだろう。
すでに遊園地前駅は長い長い行列が出来ていた。
そのため、電車に乗るまでに一時間以上はその場で待たされることになった。
電車に乗れてもそこは満員のため、人が人に押しつぶされそうになる。
俺は黒永さんが押されないように庇いつつ、なんとか一時間持ちこたえることに成功した。
「大丈夫?」
正直に言えば庇った分だけ圧迫されていたので、ところどころ痛みがあるが、黒永さんのその一言で十分だった。
「ああ、平気、平気!」
「そう、良かった」
心底安心したように彼女は言った。
さて、ここからはバスに乗って帰るだけなのだが……。
「黒永さん、まだ時間大丈夫?」
「え、ええ、大丈夫だけれど」
「じゃあ、行こう」
「どこに?」
「それはね――」
高さ十メートルほどのクリスマスツリーが色鮮やかに点滅を繰り返している。
俺たち二人はその輝きに目を奪われていた。
ここは東西京駅の広場。
毎年話題になるこの巨大なツリーのイルミネーションは、テレビにも何度も取り上げられるほどのクリスマス名物だ。
ここにもツリー目当てでカップルをはじめ人がたくさんいたが、遊園地ほどではなかった。
俺は今日という日が終わる前に、黒永さんと二人でこの輝きを見たかったのだ。
「綺麗ね」
「ああ、本当にね」
隣にいる彼女がそう呟いたので、相槌を打ちつつ、チラリと視線を隣に向けた。
黒永さんは顔を上げ、黒曜石のように固い意志を秘めた黒い瞳でツリーを見上げていた。
マフラーやコートを羽織っていてもなお寒そうに白い息を、その小さいな口から漏らしている。
頬はまるでリンゴのように真っ赤になっていた。
だけど、握った手は暖かい。
思えば、彼女は出逢った頃からたびたび新しい姿を俺に見せてくれる。
それは俺が相手だからこそだと思うと、彼女に出逢えて幸せに感じる。
黒永さんのことを愛している。
この気持ちを今すぐに伝えたい衝動に駆られた。
けれど、上手く言葉には出来そうになかったので、行為で表そうと思った。
握っていた彼女の手を放し、俺は今もツリーを見上げていた黒永さんの肩を抱いて、こちらに向かせる。
声も出せずに驚く黒永さんを、俺は一気に引き寄せてキスをした。
それは、ほんの少しの時間だけ唇と唇が触れ合うだけの簡単で、ぎこちない、俺のファーストキスだった。
目を閉じているので、彼女の柔らかくて暖かい唇の感触だけが伝わってくる。
唇から離れ、目を開けると最初に見えたのは目を丸くした彼女の顔だった。
赤かった頬はより赤みを増していた。
きっと、俺も同じような頬をしているだろう。
なぜなら、俺の顔が火照っているのを感じているから。
周りにいる人のほとんどが俺たちのようなカップルしかいないことを考慮しても、人前でキスするということは物凄く恥ずかしい行為だった。
彼女は何をされたのかようやく分かったらしく、俺を上目遣いで軽く睨む。
何か言いたげなその顔は普段の言いたいことは大体はっきりと言う彼女らしくないが、だからこそ可愛らしい。
「いきなりどうしたの?」
「急にしたくなった」
「あのね、私は初めてだったのよ? 嫌がるとは思わなかったの?」
想いはすでに通じ合っているのだから、本気で嫌がってはいないはずだ。
だけど、彼女の意思や気持ちを無視したのは事実に変わらない。
このことで彼女に嫌われたくはないので、俺は謝ることにした。
「無理やりでごめん。俺の気持ちを伝えようと思ったら、つい」
「まったく……」
そう言うと、黒永さんは目を閉じて、真っ赤な顔を上に向けた。
嫌じゃない、むしろもっとやって欲しいと言わんばかりに顎を上げている。
だから、俺はその期待と気持ちに応えるべく、目を閉じて、ゆっくりとその艶やかな唇に二度目の口付けをする。
再びぎこちなく唇同士が触れ合った瞬間、俺は夢の中にいるような感覚に落ちていくと同時に、彼女のことを理解できたように思えた。
細かいことは経験がないから分からないが、きっと彼女は俺のことを愛してくれている。
人は愛する人に想いを伝えるとき、キスやそれ以上のことを手段として使う理由がようやく分かった。
きっと、黒永さんは最初のキスで俺が彼女のことを愛していることを理解した。
その返事として、彼女はキスを求めた。
私もあなたのことを愛していると、伝えるために。
二度目のキスは多分五秒ぐらいだっただろう。
離れた後、俺はすぐに目を開けたが、黒永さんはしばらくしてから目を開けた。
ゆっくりと開かれたその黒い瞳は今、俺を見ている。
「私、あなたに会えてよかった」
壊れやすいガラス細工を丁寧に取り扱うように彼女は言った。
「あなたに会えなかったら、私はずっと一人で生きていたでしょうね。誰とも関わらず、誰にも近づかず、ただ一人だけで。けれど、有賀が側にいてくれれば、私は大丈夫。きっと強くなれる」
その“強さ”というのは、孤独に耐える強さじゃなくて誰かを頼れる強さのことだろう。
誰かの手を借りるには、時には勇気が必要な場合がある。
「俺だけじゃない、新太郎も綾人も牧原さんも、黒永さんの両親や鈴さんだって側にいるよ」
「分かってる。だけど、私の一番の“特別”はあなたなの」
そう言って、彼女はかかとを上げて、俺に三度目のキスをする。
その積極さに、今度は俺が驚く番だった。
「これも、強くなるために?」
彼女が離れた後、俺は動揺を隠すためにそんな冗談のようなことを言ってみる。
「違うわ、私があなたのことを、あ、愛しているから」
言葉とは裏腹に照れてしまい、俯きながら彼女はそう囁いた。
恥ずかしいならそんなことをしなければいいのに、なんて思う以上に照れる黒永さんが愛おしく感じる。
これを幸せと言わずに、なんと言うのだろうか。
俺は月が優しく光る空の下で、きらめくクリスマスツリーを再び見ながらそんなことを思った。
そして、先ほどは口に出来なかったその想いを今度こそはっきりと伝えた。
「俺も黒永さんのこと、愛している」
これから先、黒永さんに辛いことが起きても、例え何かが起きて離れ離れになってしまっても、この気持ちだけはずっと変わることはないだろう。
そのことだけは、明日も明後日も、あるいは数百年経とうと太陽と月がこの空を廻り続けるのと同じくらい、確信が持てた。
完