第十二話 十字架の前で
―(黒永月夜)―
十六年前、十二月二十五日の深夜。
ここ、西京市では前日の夜から降り続いていた雪は止んでいた。
雪を降らせた雲もいつの間にか消え、夜空に月が輝いていた。
そんな晩に、ある赤子がこの世に生を受けた。
「名前……何が、良いかしら?」
「そうだね。雪が降っていたし、“雪”とかは?」
ある病室では、赤子の両親が我が子の名前を決めようと相談をしていた。
母親の方は分娩後で若干の疲れが見られるが、健康上問題はないようだ。
父親は、娘の誕生の知らせを聞いて、病院に飛んできたのだろうか、今だに汗が噴出している。
あれだ、これだと色々と名前が飛び交うが、最終的に母親がその名を口に出した。
「なら、この子の名前は、月が綺麗な夜に産まれたから“月夜”なんてどうかしら?」
クリスマスに産まれし神に愛された子、“黒永月夜”。
これが、私に与えられた名前。
しかし、授かったものは名前だけではなかった。
後に“天才”と呼ばれるようになる才能もこの時にもらっていた。
当時の無知な私はその才能が未来ではどうなるのか想像できなかった。
だから、私は存分に発揮した。
「パパ、ママ」
ハッキリと両親に向かってそう言ったのは、産まれて半年経つ前だったか。
そして、両親はそれがどれほどの価値があるのか分かる人たちだった。
さて、私はどうなっただろうか。
答えは単純だ、親が英才教育を施すようになった。
「月夜は頭がいいわね、愛しているわ」
わずか二歳の私に、足し算引き算を教えていたのだから、かなり歪な教育だっただろう。
もっとも、それに疑問を抱けない私も私だ。
難問を解くたびに、愛していると言われれば、そこに感じる違和感などに気づけるはずもない。
そんな環境で育った私も、幼稚園に通うようになった。
園内では私はもっぱら本を読むだけだった。
なぜなら、周りの園児はあまりにも幼い――いや、私があまりにも年不相応すぎたからだった。
つまり、彼らの思考に合わせられなかった。
断崖絶壁の間を跳び越せないように、私と彼らの知識の差が離れすぎていたのだ。
一方、先生たちは私のように何を考えているのか分からない子を恐れた。
そして、私以外の素直で可愛らしい子を愛した。
けれど、それでも私はまだ両親に愛されている。
今でも問題を解くたびに、両親は嬉しそうな顔をする。
けれど最近、何かが足りていない感覚の中に囚われるようになった。
初めはそれが何なのか分からず、考えてみて眠れない夜を過ごしたほどだ。
そして、その謎は唐突に判明した。
あれは五歳になったある日のこと。
私が通っていた幼稚園は、送迎にはバスを用いる。
ある地区に住んでいる園児はどこそこに集まって、送迎バスに乗って幼稚園に向かう。
帰りも同じ場所で降り、帰宅する。
もちろん、母親と一緒にだ。
しかし、私だけは親ではなく、当時から家政婦として雇われていた鈴さんだった。
その日は、鈴さんが法事だとか外せない用事で私を迎えには来れないため、一人で帰宅する日だった。
送迎バスから降りると、私以外の園児は待っていた母親の下へと駆け出す。
「ママッ!」
「今日も元気にしてた?」
「うんっ!」
ある女の子は頭を撫でられ、とても幸せそうな笑顔を浮かべる。
「今日のご飯、何がいい?」
「えーっと……カレーライス!」
「じゃあ、ママと一緒に買い物に行こうか」
「えへへ」
そして、女の子は歌いながら母親と一緒にスーパーに向かう。
「にんじんさん、ジャガイモさん、お肉さん、みーんな一緒にナベの中~♪」
そんな家族の光景を、私はただじっと見ていた。
そして、彼らは一人、また一人帰っていく。
「私は――」
あんな会話、両親としたことがない。
「月夜さん、今日のお夕食は何がいいですか?」
「ハンバーグが食べたい」
「分かりました、今から買い物に行ってきますね」
鈴さんとだって、いつもこんな感じだ。
そして、おいしいハンバーグがテーブルに並べられる。
そこで座って食べるのには、いつもいつも私だけ。
鈴さんは家政婦だから一緒には食べないと言って、後から一人で食べている。
だから、食卓にはいつも私だけしかいない。
その光景を頭で思い描いたとき、気づいた……気づいてしまった。
私に欠けている感覚の正体。
それは、“人の温もり”だ。
生まれてから誰かに注がれたことのない、本物の暖かさ。
そして、残酷な事実にも気づいた。
『月夜は頭がいいわね、愛しているわ』
今まで、両親が愛してくれていたのは、自分の娘である私ではなかった。
両親が愛していたのは、黒永月夜の才能だったのだ。
「私は、誰にも……愛されていなかったんだ」
こうして、私は一人となった。
そのまま、私は幼稚園を卒園し、小学校へと入学した。
両親は相変わらず私の才能を愛している。
周りの生徒とは思考が相容れない。
それどころか、突出した才能を持つ私は嫌われた。
子供というのは、自分には理解できないものを排除したがる傾向がある。
彼らからすれば、私はさしずめ化け物と言ったところだろう。
そんな状況をなんとかしたいという思いはあったけれど、その術を知らない私は何も出来なかった。
出来ることは、その才能を発揮することだけ。
歳だけ取って、ますますその知識は膨れ上がった。
この時点で数学に関しては二次関数は解け、ドイツ語は読めるようになっていた。
そんな自分を人は排除するとさっきは言ったが、しかし勉強することは私にとって、唯一の娯楽なのだ。
それまで止めてしまったら、私はただ息を吸い、栄養を取るだけの生物になってしまう。
だが、いくら頭が良くなろうと、私はただ一人だ。
これからもずっと、そうなのだろう。
そう思っていた十二歳の私の前に、一人の男子が現れた。
彼の名前は時田雅孝と言った。
休み時間に席で本を読んでいた私の前に立って、こう言った。
「なぁ、黒永はさ、いつも何読んでいるんだ?」
私は答えなかった。
答えたところで、分かるはずもない。
私がそのとき読んでいたのは、有機化学の本だった。
「なぁ、その本、俺にも見せてよ」
しかし、私は無視した。
彼の顔を見ることもしなかった。
言葉で邪魔だと言うよりも、無視したほうがきっと諦めるだろうと思ったからだ。
そこで授業開始のチャイムが鳴ったので、彼は席へと戻った。
これで終わりだと思っていたら、次の休み時間でも同じように話しかけてきた。
「なぁ、さっきの本、読み終わったら俺にも貸してよ」
「なぁ、黒永って、なんでずっと本読んでいるんだ?」
「なぁ、――」
何日経とうと、彼は決して話しかけることを諦めなかった。
無視していれば、すぐに諦めると思っていた。
けれど、彼は怒ることもしないで、ただただ私に話しかけてきた。
だから、私は初めて一人から脱け出そうと勇気を振り絞った。
「なぁ、今日の給食のコロッケ、おいしかったな」
多分、最初に話しかけられてから一週間経ったある日。
話しかけられたというよりも、感想を述べただけのような言葉だったけれども、私は初めて口を開いた。
「そうね」
そう言って、私は彼の顔を見た。
そのときの彼の驚いた顔は今でも忘れられない。
科学者たちが素晴らしい発見と言われるような事に初めて気づいたときの顔は、きっとこんな感じなのだろう。
目を見開いて、口をポカンと開けて、私のことを信じられないものを見るような目で見ている。
「あ、あ……」
声にならない声がその口から漏れ出す。
「じゃ、じゃあさ、あのデザートのプリンはどうだった!?」
「おいしかったけど」
これが、私と時田の最初の会話だった。
その日から、時田と話をするのが常になった。
とは言っても、彼が一方的に話すだけで、私はただ聞き手になっていただけだ。
彼はそれだけでも満足だったようで、色んな話を聞かせてくれた。
スポーツ、テレビ番組、流行のカードゲーム、彼の家族のこと。
そのどれもが、私にとっては未知の世界だった。
そんな世界へ私を導く時田は不思議な少年だ。
私は彼に惹かれつつあった。
両親からすら貰えなかった暖かさを、確かに彼に感じた。
そう、私にとって彼は“特別”とも言えた。
けれど、周りの子からすれば、その状況は面白くなかったようだ。
特に時田のことが好きな女子からすれば、嫌われ者の私と彼の距離が近いことが我慢ならなかっただろう。
だから、彼女らが私を嫌う人と協力して、私の印象を悪くする噂を流したことはある意味当然とも言えた。
「黒永って、雅孝のことが可哀想だから、仕方なく話し相手になっているんだってさ」
「彼女、時田くんのこと、馬鹿でアホだって言ってるの、この前私、聞いちゃった!」
このくらいの歳の子供は、自分のことをけなす言葉には敏感だ。
そして、明らかに嘘だと分かるようなことも、多数の人がそう言っているなら、それが真実となる。
そのような意味において、時田も普通の子供と同じだった。
彼らの流した噂を鵜呑みにしたのだ。
「あんなことを言うお前のこと……嫌いになったよ」
いつも通りの休み時間に、突然そう言われた私はあんなこととは何のことだか分からなかった。
彼の顔には怒りの色が見えて、私は余計に困惑した。
そして、時田は説明することもなく、席を離れた。
それ以降、彼が私に近づくことは二度となかった。
後日、そんな噂をどこで聞きつけたのか、担任の先生は私を職員室に呼び出した。
「黒永、確かにお前は頭がいい。けれど、他人を馬鹿にしていいはずがないだろ!」
私の話など聞かず、一方的に説教された。
私はここで初めて、その噂について知り、時田があんなことを言った理由が分かった。
だから、私は弁明しようとも思わなかったし、かと言ってやってもいないことで謝罪する気も起きなかった。
「もう二度としません」
ただ一言、それだけ先生には言った。
長い説教が終わり、職員室から出た私の胸の中で渦巻いていたのは、怒りでも憎しみでもなかった。
――悲しかった。
私のせいで、時田を好きな女子が傷ついた。
そして、私を悪く言うために知らない内に彼を貶める噂を流し、彼を傷つけてしまった。
私が彼に惹かれなければ、彼の言葉に反応しなければ、彼を無視せずしっかり突き放せれば、人の温もりなども求めなければ……。
あらゆる仮定は一つの結論へと集束していく。
そう、最初から私が一人であることを気にしない強さがあれば、誰かが傷つき、誰かを傷つけることはなかった。
けれど、いくら今反省したところで、過去の過ちは何一つ変わることはない。
なら、未来はどうだろうか。
過去の仮定をいくら変えても意味はないが、未来の結果は今の行動次第ではいくらでも変えられる。
そう、実験と同じことだ。
ならば、私がやることは唯一つ。
左手で頬にかかっていた横髪をすくって耳にかけた。
「私は……誰とも関わらない。誰かと関わることは、もう二度としません」
誰もいない赤く染まった廊下で、その決意を口にする。
そして、これからそうやって行動する。
強くなろうと思った。
誰かと関わるという“過ち”を犯さずに生きていけば、もう誰かが傷つくことはなくなるはずだ。
この実験とも言うべきことが正しいのか、それとも間違っているのか。
未来の私が判断してくれるはずだ。
そして、私はその誓いを胸に小学校を卒業した。
―(有賀陽平)―
それは長い、長い、昔語りだった。
とうに太陽は沈み、礼拝堂の中の明かりが灯り始める。
いつの間にか彼女は立ち上がっており、十字架の前にいる。
俺は彼女の前に立って、黙って彼女の話を聴いていた。
彼女が産まれてから、小学校での悲劇とその顛末。
そして、彼女が何故独りでいたがるのか、その理由。
疑問に思っていた様々なことがようやく分かった。
「け、けど……ここ数ヶ月間は俺たちと一緒だったじゃないか?」
だからこそ、当然思い浮かぶ疑問。
五月六日のあの日、どうして俺と会話したのだろうか。
誰とも関わらないというのならば、あの時点で俺を拒絶していたはずだ。
けれど、彼女は来てもいいと、頷いた。
これは、一体どうしてなのだろうか。
「時田のときは無視したから、余計に話しかけられた。だから、次の日は断ったじゃない」
「けど、その後、“いいわ”って」
「……そうね」
彼女は左手でその黒い髪を弄りながら言った。
「間違っていないのか確認したくなったのよ」
「確認?」
「誰かと関わらないと誓ってから五年間、私の周りの誰もが傷つかなかった。だから、その逆はどうなのか確認したかった」
「つまり、黒永さんが誰かと関わることで、誰かが傷つくのかどうかってことを?」
そのために俺は彼女に使われていたというのか。
彼女にとって、俺は実験のための対象の一つでしかなかったというのか。
「そう。そして、それは見事に正しかった」
「どうして?」
「有賀、あなたは東西京祭のときに、玉環結衣から告白されて、断ったでしょう?」
「な、なんでそのことを!?」
俺は思わず大きな声をあげていた。
あの場にいたのは、俺と玉環さんだけだったはずだ。
俺は告白されたことを誰にも喋っていないし、玉環さんはお喋りではないので、誰も知らないはずだ。
「偶然、聴いてしまったのよ」
「じゃ、じゃあ、断った理由も?」
そうだ、俺は彼女の告白を断るために言った言葉は今目の前にいる人には知られたくはない言葉だ。
「知ってるわ」
カーッと顔が赤くなるのが分かった。
まさか、あれを聞かれているとは思わなかった。
「あなたはその時、告白を断るために苦しんだはずよ。そして、その言葉を聞いて玉環もまた苦しかったはず」
「そ、それは……」
彼女の言葉を否定できなかった。
だって、あの時確かに俺は辛かったのだから。
「だから、誰かと関わることで誰かが傷つくことは正しかったのよ。一人になることは間違っていなかった」
「それで、学校に来なくなったのか?」
「ええ、学校にいれば、否応なくあなたと関わってしまうから」
学校に来れば、俺が彼女を独りにはさせない。
それでは、また誰かが傷つくことになる。
黒永さんはそう考えたのだろう。
「けど、それじゃあ……」
黒永さんはこれから先、死ぬまで孤独でいるということだ。
本当にそれが正しいことなのだろうか。
「有賀、この数ヶ月、本当にありがとう」
突然のお礼を言うと、彼女は俺の方から十字架の方へと向きを変え、俺に背中を向けた。
それは、俺のことを拒絶するための態度なのか。
「だけど、私のことはもういいのよ」
彼女は左手で頬にかかっていた横髪を弄る。
「放っておいて欲しいわ、私のことは」
かつて言われた気がする言葉を言われた。
俺はそんな彼女の言葉に怒りを覚えていた。
どうして、そんなことを言うんだ。
だから、俺は――。
時が一瞬、止まったように感じた。
「え?」
黒永さんの戸惑いの声がものすごく近くで聞こえた。
心臓がこれ以上になくうるさく暴れている。
けれど、それはしょうがないことだと言い聞かせる。
なぜなら、俺は後ろから彼女を抱き寄せているのだから。
「ごめん、黒永さん」
「ど、どうして、謝るのよ、だって、私は」
「今まで全然気づかなかったから」
自分の間抜けさに怒りを覚える。
黒永さんが放っておいてくれと言うまで、気づかなかったのだから。
彼女の肩はもちろん、髪を弄っていた左手も震えていた。
まるで、寒さに震える子猫のようだった。
確かに陽が暮れて寒くなってきているが、震えている理由は寒さのせいだけではない。
「俺は本当に馬鹿だ」
彼女は放っておいて欲しいと口にしていた。
けれど、彼女の本心はそうじゃない。
「そんなに泣くほど、黒永さんが傷ついていたなんて、知らなかった」
そう、俯いている彼女の頬をさっきから涙が流れていた。
多分、背を向けたときからずっと、泣いていたのだ。
俺に心配させないために……。
「お願い、だから……離れて、有賀」
彼女は拒絶の言葉を呟くが、その言葉は涙で掠れていた。
そして、俺を振りほどくことなく、俺に抱かれたままの姿勢を崩さない。
なら、離れてほしいだなんて、どうしてそんな嘘を吐いてしまうのか。
「黒永さん、俺は思うんだ」
優しく、彼女が怯えないように続ける。
「黒永さんはさ、独りが怖かったんじゃないのか?」
だというのに、黒永さんは図星だったのか、大きく肩が跳ねた。
「その時田との交流で、誰かと繋がっている暖かさを知ってしまった」
それがどれだけ彼女にとって楽しいことだったのか、想像に難くない。
だって、それはいつも俺たちが友達と一緒にいるときに感じることなのだから。
「だけど、再び独りになってしまって、その怖さを抑えるためにそんな理屈を作ったんじゃないのか?」
もちろん、彼女の言いたいことは分かるし、あながちでたらめでもないだろう。
傷つけたくないから、独りになるって言う言葉は、正しいのかもしれない。
人は自分の思っていることを、相手に誤解なく全て伝えることは出来やしないのだ。
だから、誰かと交流すれば、その人を喜ばせることもあれば、その逆に傷つけることも起きるのだ。
けれど、頭のいい黒永さんなら、傷つけないように交流することだって出来たはずだと、俺は思ってしまう。
そうでなくても、ただの一度の失敗で全てを諦めるなんて、黒永さんらしくない。
「要するにさ、黒永さんは不器用なんだよ。独りが怖いのなら、そうと言えば良かっただけなのに」
そして、そんな助けを呼べないような人を助けるために、俺はきっと困っている人に手を差し伸べていたんだろう。
綾人や玉環さんはそんな人たちだった。
しかし、俺が彼女を想う気持ちは助けを求める人を助けたいという願いとはまた違うものだとも分かっている。
「だけど、私は……もう決めたの! もう誰とも関わらないって!」
彼女は泣きながら、自分に言い聞かせるように呪いの言葉を叫ぶ。
「あの時に! 私は、自分に誓ったの!」
ここでその呪いとも言える決意を反故にするのは、かつてのその誓いを立てた少女を否定することになってしまう。
少女を否定してしまえば、この五年間独りの怖さに耐えてきた意味がなくなってしまう。
だから、そんな少女のためにも黒永さんは自分の言葉を無かったことにはできない。
そんなことをすれば、自分を許せなくなってしまうから。
過去はやり直せないと考える、不器用な彼女らしい考え方だと思った。
「黒永さん」
俺は黒永さんの身体を放すと、肩を掴んで俺の方に向かせる。
驚いた彼女は俺の顔を見上げる。
未だに泣き止まない彼女を一瞬、綺麗だと思ってしまった。
だけど、すぐに俺は気持ちを入れ替える。
「例え黒永さんが嫌がっても、俺はそれでもずっと側にいる」
そのどこまでも吸い込まれそうな瞳を見ながら、優しく言った。
「かつては側にいられなかったけれど、これからはそうじゃないだろ?」
助けを呼べない彼女だからこそ、誰かが側にいないと駄目だ。
「それで傷ついたって構わない。だって、俺は――」
でなければ、彼女はいつか独りの怖さに押しつぶされることになる。
だから、俺はここで自分の気持ちを全て伝えなければならない。
俺の本当の気持ちを少しでも彼女に分かって欲しいから。
「俺は黒永さんのことが好きだから、側にいるよ。独りにはさせない」
「有賀……ありがぁ!」
彼女は俺の胸に飛び込んでくる。
その華奢な身体を抱きとめると、俺は彼女の頭を撫でる。
もう安心してほしいと、そう願いを込めて、その黒髪を大切に扱う。
「ありがぁ、わ、私、ずっと怖かった! 怖かったよぉ!」
ずっとと言うのは、多分この数日間のことだけではなく、俺と出会う前のことも含んでいるのだろう。
俺は彼女をより安心させたくて、しっかりと黒永さんを抱きしめる。
彼女の甘い匂いとか、柔らかい肌の温もりとかにドキドキしてくるが、彼女のことを想うとそうも言っていられない。
早く安心させてあげたいという気持ちの方が強かったから、気付けばその想いは胸の奥から言葉になって出てきた。
「大丈夫、俺はこれからずっと側にいる。独りにはしないから」
「ありが……ありが、うう、うわぁぁぁん!」
まるで、幼い子供のように泣き始める。
だけど、それは決して戻ることの出来ない少女の代わりに泣いているように感じた。
きっと、これで彼女は前に進むことが出来る。
多分、最初は誰かが傷つくたびに悲しむことになるに違いない。
だけど、もう彼女は独りでも一人でもない。
それに、俺が側にいる限り、彼女を孤独の怖さから助けてあげられる。
礼拝堂の中を、彼女の泣く声が響く。
俺は彼女が泣き止むまで、ずっとそうやって彼女を抱きしめていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
ようやく泣き止んだ彼女は何かボソボソと呟いていた。
「え、何?」
「……っかい……しい」
顔を胸に押し付けているため、くぐもって聞き取りずらかった。
「ごめん、俯いたままじゃなくて、顔を上げて言ってもらえる?」
そう言うと、彼女は顔を上げた。
目は赤く腫れ、鼻をすすっていた。
ある意味、ひどい顔になっていた。
彼女はこれを見せるのが恥ずかしくて俯いていたのかもしれない。
「もう一回、言って欲しい」
「えっと……俺は側にいるよ」
「違う、それじゃなくて」
そこまで言われて、彼女が何を望んでいるのか分かった。
俺も人のことが言えないぐらい、不器用だったみたいだ。
「黒永さんのこと、好きだ」
改めて言うと、好きと伝えることはすごく勇気がいるのだと気づく。
だけど、彼女はその言葉に笑顔になり、俺は初めて見たその顔にドキッとする。
初めて会ったときに思ったけれど、やはり彼女の笑顔は可愛かった。
泣き顔のままの笑顔って、こんなに人をドキドキさせるのかと思った。
俺がそんなことを考えていることを知らない黒永さんが口を開く。
「私も、有賀のことが好き」
その言葉を聞いたとき、全身が熱くなる。
ここまでの状況的に嫌いと言われることはないんじゃないかと思っていても、やはり口にされるとすごく嬉しい。
「ただ、あなたが側にいてくれるだけで満足していたのに、人は不思議ね。あなたの言葉だけで、恋人になりたいという欲がこうも簡単に生まれるのだから」
俺は彼女が好きで、黒永さんは俺のことが好き。
そして、黒永さんは俺と恋人になりたがっている。
その事実は俺を簡単に舞い上がらせる。
改めて、俺は思った。
もう二度と黒永さんを孤独にはさせない、と。
礼拝堂から出た頃には、もうすっかり夜空に星がきらめいていた。
黒永さんを自宅へと送るため、俺たちは並んで歩いていた。
あの礼拝堂は日曜日以外、神父が十九時に閉めに来るまでは開放しっぱなしだという。
無用心だと思うが、盗まれるような価値あるものは置かれていないとのこと。
黒永さんはまだグスグスと鼻をすすっているが、泣いてスッキリしたらしい。
俺はというと、彼女と想いが通じ合った喜びからまだ脱け出せないでいた。
今隣を歩く黒永さんは、俺の恋人なんだ。
そう思うと、顔が自然と熱くなる。
今までは隣にいても、ここまで照れることはなかったはずなのに。
世の中のカップルはいつもこんなに顔が赤くなってしまって、大丈夫なのかと思ってしまう。
俺たちは黙ったまま歩く。
ふと下を見ると、彼女の左手が寂しそうに揺れている。
俺はそれを見て、自分の右手を恐る恐る彼女の左手に近づける。
お互いの手の甲がぶつかった。
黒永さんは一瞬ビクッと左手を震わせるが、俺は構わずその手を握った。
多少冷たかったが、すぐに彼女の体温が伝わってくる。
彼女は驚いて俺を見上げるが、俺は横目で確認した後はただ前を見ることしか出来なかった。
きっと顔は真っ赤になっているに違いない。
黒永さんは何も言わず、俺の右手をしっかりと握ってくれた。
そんな小さなことが、俺をさらに嬉しくさせた。
「黒永さん」
「何?」
「好きだ」
「……私も」
それっきり黙ったまま、俺たち二人は手を繋いで黒永さんの家まで歩いた。
その道を、月が明るく照らし出していた。
第十三話へ続く