水色に映える白と花茶
ロッティは暖めたティーポット、カップ、お湯の入ったポット、その下でゆらゆらと燃えているランプ、茶葉がそれぞれ入った容器、スプーン、ソーサー、カップと次々に指差し確認する。
「よし、大丈夫、忘れてるものはないわね」
そう自分に問いかけると、腕まくりをしていた袖を伸ばす。しばらくの間くしゃりとまとめられていた袖には皺が癖づいてしまっていた。
「あっちゃー……次から、こうならないように気をつけなきゃな」
袖のボタンを留めて、エプロンを正す。
「もうすぐ、パティメート様が戻ってらっしゃるんだから」
ロッティがこのマルキー城に来たのは今から三年前、ロッティが十三の時だ。四人兄弟の末っ子、それも三人の兄姉達とは年が十ほど離れてしまっている。そのため随分甘やかされて育ったのだが、それぞれの兄姉が嫁いだり家庭を持ってからはそうはいかなかった。
ロッティの両親が三年前に他界したのだ。父は事故死、病弱だった母は父の死がショックだったようで、その後を追うかのように半年後に亡くなった。兄姉達も生活が厳しいらしく、一人取り残されてしまったロッティは、住み込みでの仕事を探すしかなかったのだ。
ロッティの仕事場は、マルキー城の洗濯場だった。城から出る洗濯物の洗濯。ただそれだけだ。
洗濯場で、衣類やシーツ、時にはカーテンや絨毯なんかも洗ったりした。特に冬は、水が凍るように冷たいから身体が冷え、風邪を引く人が続出した。とにかく、誰かがやらなければいけない仕事ではあるが、その厳しさから辞めていく人は後を絶たなかった。
ここを辞めてしまえば路頭に迷う。その危険がなければロッティもとっくの昔に辞めていただろう。――とにかく、キツい仕事だった。キツイかったけれど、いつの間にかロッティは洗濯婦が好きになっていた。
空を仰いではためく真っ白なシーツ。その日が晴天だったりしたら、見ていてとても気持ちがいい。洗濯物が皺ひとつない状態でたたまれているのを見るのも大好きだし、なによりも自分が洗濯したものを、城の者――もしかしたら王族が使っているのだと思うと、俄然仕事熱心になった。
実際、三年目になる頃、王族のシーツを洗うのはロッティの仕事だった。――もちろん、衣服などは十年以上の熟練した洗濯婦が行っていたが、ロッティはシーツを宛がわれたのがとても嬉しかった。シーツの洗濯には特に気を遣って、シーツを一番綺麗に仕上げられる掃除婦になろうと決めていたからだ。その自分の中での目標は達成され、洗濯婦の中でロッティよりも綺麗にシーツを仕上げられる人は居なかった。
けれどもそれは、アイロンの登場で、ロッティの自信は瓦解した。
アイロンとは鉄で作られたもので、下方が平たく出来ている。上方には取っ手と蓋がついており、鉄の中に炭火が入るようになっている。炭を入れ、それを衣類の上で滑らせると、暖めた鉄の重みで、皺だらけのシーツでもぴんとするのだ。
そうして自分の仕事意義を失ってしまったロッティが、はためくシーツをぼんやりと眺めながら座っていたところに、パティメートが現れた。
真夏だった。いかにも夏です。といわんばかりの、じりじりと皮膚を焦がす暑い日。
はじめパティメートが現れた時、誰かわからなかった。パーシーはリビドムや城を行き来していたので見ることも多々あったが、パティメートは病気がちであまり表に出ないと聞いていたし、熟練の洗濯婦も、ここ数年姿を見たことがないと言っていた。
パティメートは本当にふらっと現れた。気配がなかったと言ってもいい。とにかく、気づいたときにはロッティのすぐ隣に立っていた。まるで二人でいつも見ていましたといっても不自然じゃないような自然さで、ロッティと同じように晴天にたなびくシーツを見ていた。
ふと横に人が居て、誰だろうと首を捻った。パティメートは相変わらずシーツを眺めていた。
背中の中ほどまである綺麗な水色の髪、空の色を全て水に溶かしたような瞳。その風貌の人物は人づてに聞いたことがある。
「ぱ、パティメート様!」
名前を呼ばれたパティメートは、ロッティの存在に今気づきましたとでもいう風に、ロッティを見下ろした。ロッティは慌てて立ち上がり、居住まいを正す。
「いつもと、変わらない」
パティメートが口を開いた。ただの洗濯婦の自分に声を掛けているのだ。ありえない、ありえない出来事がいまこうして目の前で起こっている。
「は、はい?」
心臓がばくばく言っている。王族というのはあまりに遠すぎる存在なのに、どうして今こんな近くにいるのだと混乱して、声がうわずる。けれどもそんなロッティなんて気にも留めず、パティメートはロッティの干したシーツを触った。
「これは、いつもと変わらない」
「へっ?」
(パティメート様、すみません。おっしゃっていることがよくわかりません)
パティメートがシーツを握ったり、両手で引っ張ったりしている。
「最近、眠る時の手触りが違うから、何かが変わったのかと思ったのだけれど」
「え? あ、そ、それは、最近アイロンという道具が用いられるようになっ、あ、ええとなりまして、熱した鉄で押し伸ばすことによって皺を取ることができるようになったんでございますです」
「そう……」
「はい」
会話が終わってしまった。パティメートは相変わらずシーツを手でさわさわと触っている。
(立ち去ったほうがいいのかな)
王族に会うこと、ましてや会話することなんて一生に一度もないと思っていたので、王族と会った時にどう対処するかだなんて、考えたことすらない。なのでロッティは居心地の悪い思いをしながら、パティメートの前で突っ立ってることしかできなかった。
「だから?」
「はい?」
パティメートがシーツから手を離して、ロッティと向き合う。穏やかな瞳の色は透過しすぎているようで、意思がなにも汲み取れない。
「だから、楽しそうではないの?」
「え!? わたしのこと知ってるんですか!?」
パティメートが、ふ、と微笑んだような気がした。
「バルコニーからここが見える。笑う顔がユーキに似ているから覚えていた」
(すいません、ユーキが誰だかわかりません)
もしかしたらこの人は天然なのかしらとまじまじ見つめてしまう。けれども感情が何一つ読み取れないので、何もわからないままだ。
「ここのところ、ずっとそんな顔をしている」
「あ、す、すみません」
慌てて頭を下げる。王族であるパティメートが自分を見ていたというのも恥ずかしかった。けれど、たかだかシーツが変わっただけで見に来てくれて、更にロッティの変化に気づいてくれていることが、驚くほどロッティの気分を高揚させていた。そのせいか、口が滑ったのだ。
「だめですね、洗濯することが大切な仕事なのに、たかだか皺伸ばしを他にとられたっていうだけで仕事に遣り甲斐見出せなくなっただなんて」
そう言ったロッティを無機質に見つめたパティメートは黙った。ロッティも言い過ぎたとはっとしたときにはどうすることもできず、黙っていることしかできなかった。
そしてパティメートは、ロッティの体感で十分ほど経ってから「では違う仕事をやってみるといい」と言った。
それから、ロッティはパティメート付きの侍女になった。侍女になってから一月半。まだまだ慣れないことばかりで、侍女仲間に迷惑ばかり掛けている。そもそも、王族の侍女なんて貴族の娘が憧れる仕事だ。庶民のロッティにはそんな仕事に自分が就くことを夢見たこともなかった。しかも、給与も仕事量に合ってないほど破格だ。
もしかしたら、洗濯婦から突然抜擢されたロッティは苛められたりするのではないかと思っていたが、それは杞憂だった。なぜなら、パティメートの侍女は皆大体、ロッティのように唐突に侍女に召し上げられていたからだ。
『パティメート様って、本当に何を考えているのかわからないわよね。あたしの場合、ケーレで花茶売りをしてたのよ。そんでその時あんまりにも売れなかったから、知事の所に押しかけて売りつけようと考えたのよ。そんで庭園に入り込んだ所に居たのがパティメート様ってわけ。でも誰だかわかんなかったあたしはさ『ここで花茶を売りたいんだけど、その話を通せる人は誰か居るか』って聞いたの。そしたらパティメート様、自分でも大丈夫って言うじゃない、まぁ当たり前なんだけどさ、普通言わないわよね。だからあたしお茶の説明とか淹れ方とか教えて、値段の交渉とかしようと思ったの。その時よ、お偉いさん達が、誰だー、族かー、捕らえろー、パティメェト様ぁああ。ってあたしを取り押さえに来たの。そしたらパティメート様が『侍女として雇う事にした。彼女に侍女の服を』って。それからあたしに向かって『私は茶を淹れられない。淹れて持ってきてくれ』って。あたしの意見丸無視よ! まぁ、お陰で今こうやって幸せに暮らせているけどさ!』
数年間パティメートのお茶汲み侍女として働いていたセイムがそう言っていた。彼女は一月前、国家騎士から契約を申し入れられてそれを受け、彼の家に嫁いでいった、ロッティのお茶汲み侍女の先輩だ。そして今、お茶汲みがロッティの仕事になっている。
(待って、花茶切れてたりしてないよね)
いや、ちゃんと確認したはず。でも、最後に確認したのはいつだったろう。湯に入れて楽しむ方法もあると他の侍女に言われてから、パティメートは気配なく花茶を数個持ち去っては湯に持っていくようになっていた。それはまるで神隠しのようにスマートに行われるので、侍女達もなかなか気づけない。
(やっぱり気になる!)
花茶の入れ物の蓋を開けて中を見る。
「……よし、まだある」
やっぱり確認していたじゃないか、そう安堵のため息を漏らして居住まいを整えようと蓋を閉めると、視界にパティメートが居て、こちらに向かって歩いてきている。ドアが開く音すら聞こえなかった。
「パ、パティメート様!」
いつの間に戻ってきたんだとびっくりするのは、この仕事を始めて一週間で諦めた。とにかくパティメートには気配がないのだ。表情も顔に出ないけれど、気配も微塵だ。
「お茶、お淹れしますね。いつもの花茶でよろしいですか?」
パティメートが小さく頷くのを確認して、ロッティは準備に取り掛かった。ミトンを手に嵌め、コポコポとランプに熱されているポットに手を伸ばしながら話しかける。本来なら王族に侍女から話しかけるのは法度らしいが、パティメートの病気の治療には必要なのだとパーシーが言っていたとセイムが言っていた。もっとも、セイムはパティメートに対してひどく砕けた――『パティメート様、ちょっとあたし両手がふさがってるんで、そこの書類どけてください』というような話し方をしていたが。
「パティメート様、パースウィル様はお元気でらっしゃいましたか?」
二人が会うのは久しぶりらしい。ロッティが召し上げられる前――先だって魔女が処刑された頃から会っていないとセイムが言っていた。それから、パーシーの仕事も増えた、と。
ちらりと振り返って、椅子に座っているパティメートを見たが、いつものごとく反応がない。薄いのではなく、無いのだ。けれどもよく見るといつもよりも瞬きが緩やかな気がする。何か思うことはあったのだろうか。ロッティは花のつぼみを入れたカップに、熱湯を注ぎこんだ。
「………………戦争」
花茶を定位置に置くと、パースウィルがそう呟いた。
「ロッテは、戦争を止めなければならないと?」
「はい? 戦争ですか?」
いつもは礼の言葉も、茶を置いたことに対する反応もないのに。今日は一体どうしたのだろうと目を瞬かせる。
「そうですねぇ。わたし、あんまり学がないんでわかりませんけど、戦争って止めるものなんですかね? そもそも、どうして戦争が起きるのかがわからないので、止める止めないの判断もわかりません。――でも、無いほうがいいのは確かですよね」
「どうして」
「人が死んじゃうからです。家や食料が無くなっても替えは効きますけど、人は死んじゃうと戻ってきませんから」
「……ロッテは、人が死んで嬉しいと思うことは?」
二問目の質問が来た。今日は槍か雪が降ってくるのではなかろうかと、パティメートをまじまじと見つめてしまう。けれども、ひどく透き通った瞳はいつもと変わらない。
(人が死んで、嬉しいと思うこと……か)
「ない、と思います」
パティメートはロッティを見つめたまま視線をはずさない。じっと見つめられているのに、不快感はまったくない。
「たとえば、突然無差別に人を殺したりした人が居たら、死んだほうがいいと思いますけど、それは嬉しいっていう訳じゃないし……もしそれが、自分の家族や恋人を殺した人だとして、すっごく憎かったとしても、嬉しいというよりも虚無感しか残らないだろうし。そもそも、人の死を喜べるのってなんか嫌です。もっとこう、人に幸せが訪れた時に嬉しいと思いたいです。セイムさんの結婚とか。――ちょっと、寂しいですけど」
パティメートがぱちぱちと瞬きをした。セイムによれば、これは驚いた時のサインだそうだ。一体今の話の何に驚いたのか想像もつかない。きっとパティメートに聞いても答えてくれないだろうから、全ては謎に包まれたままだ。そしてパティメートは、カップの中でたゆたっている花に見入っている。ふわりと爽やかな香りが広がる。
「違うと答えれば良かったのか」
「何がですか?」
茶の片付けをしながら声を掛けると、パティメートが顔を上げた。話しかけても返事が返ってこないことがほとんどなのに、今日は一体パーシーと何があったのだろうか。
「ユーキに」
何にも焦点が合わないだろうと思っていた瞳と目が合う。その衝撃でポットからお湯をこぼしてランプの炎を消してしまった。じゅぅ、という音と油の燃えるにおいがロッティの周りを包む。
「も、申し訳ございませんっ今片付けます!」
(また、ユーキ)
その名前が出てくる時だけ、パティメートの顔の筋肉が緩む。いつかの微笑みも、今の苦々しそうな顔も。本当に些細すぎて、よくよく見ていないと気づかないが。
ユーキというのが誰かとセイムも聞いたらしいが答えてくれなかったらしい。ロッティも聞いたことがあったが、パティメートは押し黙ったままだった。もっとも、セイムは『ユーキって名前出すと、パティメート様、ちょっと嫌そうな顔するのよね!』と、ことあるごとにその名前を連呼したために、ロッティはその名前を出すことをはばかっていた。
(まさか、自分から言い出すなんて)
こぼれてしまった湯をふき取り、ランプも片付けた。椅子に座って机に肘をついて花茶を飲んでいるパティメートを見る。
『え、貴方パティメート様の侍女なのォ? パティメート様ってぇ、なんか怖くなぁい? 何考えてるかわかんないしぃ、王族としての威厳っていうか存在感っていうのォ? ないしぃ』
侍女として召抱えられた時、他の王族に仕えている貴族の侍女に言われた言葉を唐突に思い出した。
(そんなこと、ないのに)
確かに、表情は全くと言っていいほど、ない。かつて治療のためにとセイムがやってきた所業の数々――びっくり箱や後ろから驚かせるといった古典的なものから、他の王族にやったら間違いなく処刑ものになるような事も知っている。それをされても表情は変わらず、せいぜい瞬きの多さや、それこそ纏う空気のようなものが少しだけ、ほんの少しだけ変わる程度だ。
けれども、パティメートが仕える侍女は、皆パティメートが優しくて不器用だということを知っている。だって今もホラ、花茶をこぼしてしまって困っている。顔には出ていないけれど、困っているとロッティはわかる。そのくらい、豊かなのだ。
「……パティメート様、せめてお茶を飲む時はこぼさないようになさってくださいね」
布巾を片手にパティメートの机を拭く。書類はこぼすことを見越して、遠くに追いやられている。机の上を拭き終わると、パティメートがゆっくりと頷いた。
「次にユーキにスープを馳走する時までには直せるようにしよう」
それは独り言だったが、ロッティはパティメートの驚いたとき以上に、少なくとも十数回は瞬きをした。
(ユーキさん、あなたは何者なんですか)
セイムが言っていた『ユーキっていう名前出すようになってから、パティメート様ちょっとやわらかくなったのよね。ユーキっていう人との接触があったから、病気は快方に向かってきているのかしら』と。あの時はよくわからなかったけれど、今ならとてもよくわかる。そしてそれが、すごくすごく嬉しい。
パティメートに一体何があって病気になってしまったのか――一説では魔女から呪いを受けたと聞いているが、真相はわからない。けれどその病気がすこしずつ、花茶のつぼみがゆっくりと花開くように開花していく。パティメートが失ってしまったものが、ゆっくりと戻ってきている。それを身近で見ていられることが何よりも幸せで嬉しい。
(ありがとう、ユーキさん。感謝します)
ロッティはにっこりと微笑んで、パティメートに言った。
「それでしたら今晩から、料理のスープはご自分で運ばれますか?」
パティメートは相変わらずの無表情――けれどどこか嬉しそうな、ロッティはそれを嬉しそうだと取る空気だったので、ゆるく微笑んだ。