第七夜
第七夜
「殿下!」
虚空へと響く声が虚しかった。届かない手が悔しかった。男は数瞬とはいえ気を抜いてしまった自分に憤った。
また守れなかった。彼の両親の時のように、今回もまた……。
しかも、あれは自分の剣だ。その事実が何より呪わしかった。
それは奇妙な光景だった。少年の腹部より剣が生えているのだ。そして、彼の背後にはその剣を掴んでいる少女が居るのだ。
それは奇妙な光景だった。なのに少年は微動だにせず、少女は柄から手を離すとやがて彼を愛おしそうに抱きしめた。
「貴様!」
男は少女を突き飛ばすと、彼女を睨みつけ同時に恐れを抱いた。
それは奇妙な光景だった。それはまさにこの世の全ての混沌が具現化しているようであった。
突き飛ばされ地面に尻もちを着いた少女は空虚な表情をしているくせにどこか恍惚とした笑
を浮かべていて、それでいて、その瞳からは涙が溢れていたのだ。
カランと言う乾いた音で男はハッとした。
「ふむ、どうやら貴様は洞察力が足りぬとみた」
ルークは地面に落ちた剣を拾うと男に向き直りニヤリとする。
彼の腹部には何ら裂傷はなく、アイナの突きを脇で挟んで止めた。ただ、それだけの話だ。その事実を理解すると男は心底ほっとして「ご無事でなりより」と、だけ短く答えた。
「だから、洞察力が足りぬと言ったのだ」
男は何を言われているのか分からなかった。
「その娘の顔を見てみろ。――心底、安堵しているだろうが」
男には分からなかった。
「フン、愚鈍な男だ。例え、不意を突いたところでアイナに俺を殺せるはずがない。それが分らぬほどアイナは愚かではない。殺意など端からなかったのだ」
ルークはアイナを冷たく見下ろすと続けた。
「つまり、こいつは何かに絶望し、俺を傷付けられなかった事に安堵し、そして、俺に殺される事に喜びを感じているのだ。――ではアイナ、貴様は何故、俺に殺されようとした!」
――殺されようとした?
男には分からなかった。
「それは貴方がルークだからです。私は今、幸せです。いえ、貴方と出会ってから幸せでした」
こう言いながらアイナはゆっくりと起き上がり愛おしそうにルークを見つめると続けた。
「ここには飢えも寒さもなく何よりも貴方がいる。だから、幸せでした」
「それは既に過去の話なのか?」
ルークの問いに彼女はゆっくりとした動作で跪き、彼に向って祈りを捧げるように手を組むと瞳を閉じた。
「はい。たった今、過去のものとなりました。――いえ、こうなる事は貴方と出会った時からわかっていた事なのに……」
「アイナ、貴様は嘘を言っている」
ルークは彼女の言葉を遮った。今のアイナは出会った頃の瞳をしていなかった。それどころか彼女はまるで生きる事を懇願しているように彼には思えるのだ。
「はい、私は嘘をついています」今度はアイナの番だ。氷のように冷たい瞳をしたルークの言葉を遮って続けた。肝心の本心は今さら語らない。それは意味がないからだ。
「正しくはあと少しの間だけ、幸せなのです。そう、後ほんの少しの間だけ……。私は王族である貴方に刃を向けました。さあ、私に罰をお与えください、殿下。そうすれば私は幸せなまま逝けるのです。今の貴方であれば一思いに首を刎ねられるはず」
こう言い終わるとアイナはほほ笑んだ。
対してルークは無言であった。
貴族に対して平民が刃を向ければ当然、死罪となる。動かないルークを見て、これを躊躇だと考えたグレッグは「殿下が手を汚すまでもありますまい」と、地面から自らの剣を拾い大上段に構える。せめてもの情けだ。苦しまぬよう、首を刎ねてやろう。
「愚か者が! 今さら俺が自らの手を汚す事に躊躇するとでも思ったか!」
まさにその時、ルークが激昂し、グレッグは戸惑った。三年もの間、彼を監視して彼が本気で怒りを露わにしたのはこれが初めてだったのだ。
「何故だ! 何故、貴様らはいつも簡単に諦めるのだ。本当はそれが欲しくてたまらないくせに……。何故、努力しない? 何故、足掻かない? 何故、勝ち取ろうとしないのだ!」
「それはルーク。人は貴方のように強くないからです」
「ハンッ! 貴様らは愚かなのだ。俺が強いだと? まるで俺が人ではないような言い草だな。俺は確かに王族だ。貴様らより優位にスタートしたのは事実だろう。飢えや乾きを知らん。だが、たかがその程度だ。不慮の事故や病気。人災や天災を防げるわけではないただの人間にすぎんのだ。斬られれば、重い病に掛かれば――あるいは予想もつかん事態が起これば貴様らと同様に死ぬ。ただ、それだけのちっぽけな存在にすぎんのだ。 ハンッ! 俺が強いだと? いい加減にしろ。俺はただ、強くなりたい――そうならればならぬと足掻いているだけだ!」
彼がそう叫び、瞳を潤ませているのを見て奇妙な事にグレッグは妙に安堵した。いやはや、考えてみれば当たり前の話だ。この王子はまだ十二歳の少年にすぎないのだ。彼を見ていると忘れてしまいがちになるが、彼にも弱さがあるのだ。彼が自分に述べたように彼もまた孤独に耐えられない唯の人にすぎないのだと。
「……いいだろう、アイナよ。もう一度だけ尋ねてやる。何故、俺に殺されようとした? いや、貴様は生きたいのは死にたいのか、一体どっちなのだ?」
「私は……」
ああ、もう駄目だ。アイナは直感した。彼の瞳から頬を伝うものを見て、彼女はそう思った。ルークとは強く、聡明でいて孤高の存在で、彼女にとって神のような存在でなくてはならないのだ。なのに、それが……それが今の彼はまるで子供ではないか。
だからこそ彼が愛おしくて、愛おしくて貯まらないのだ。今、自分が嘘を言えば、彼は自分を楽にしてくれる事だろう。しかし、それは駄目だ。その嘘は決定的だ。決定的に殺してしまうのだ。彼を――彼の心を……。
一体、何年振りだろう? 幸せになる事を諦めて生きてきた。ルークはそんな自分を幸せにしてくれた。だから、彼女は数年ぶりに涙を流した。
「私は生きたいのです。いいえ、貴方に私の命を捧げたいのです。貴方を支えてあげたいのです。しかし、私は親もいない孤児。貴方がここを去る時が来ればそれは叶わないのです」
「だから俺に殺されたいと言うのか? 俺に何度も同じ事を言わせるなよ。何故、貴様はすぐに諦め……」
「違う! 私に捧げさせてよ。私を側に居させてよ。――私を愛してよ、ルーク!」
「それが貴様の本心なんだな、アイナ?」
「……でも、私は罪を犯し……」
「ならば、許す。いや、罰は与える」
感情を爆発させたアイナの言葉をルークは遮った。とてもとても優しげな表情で。
「これは契約だ。俺は貴様の行為を許す。俺はありとあらゆる行為を許すのだ。知っての通り俺の歩む道は血に塗られている。巻き添えで命を落とす事も十分起こりうるだろう。それでも俺の側にいたいのなら勝手にそうするがいい。しかし、これは契約だ。対価は支払わなければならない。対価とはつまり、俺に全てを捧げるという事だ。それは俺に相応しい存在にならねばならぬ事を意味するのだ。険しい道だぞ? 相応の覚悟と努力が必要となる。その過程で命を落とす事になりかねんほどにな」
ルークはここで一度、言葉を切るとアイナに手を差し出した。
「これは契約だ。恐らくはここで死んだほうが楽に違いない。嫌なら俺の手を払え」
アイナの答えは決まりきっていた。
だから、ルークは……。
「グレッグよ。頼みがある。いや、先ほどの試合に勝った褒美を変えてもらいたい」