第五夜
第五夜
アイナは幸せを感じている。ここには痛みも苦しみがないからだ。食料を奪い合う事もなく、夜の寒さに震える事もない。たったこれだけの事に彼女は幸せを感じていた。
そして、彼女はこうも思う。自分は恋をしているのかもしれない。狂った貴族と噂されていたルークは――まあ、面倒くさい処もあるが――基本的には優しかったし、色々な事を教えてくれる。彼女も年頃の女の子である。白馬にこそ乗っていないが金髪碧眼の美系である処のルークは本物の王子様なのだ。だから、アイナが恋心を抱いてしまうのは無理はない話だ。
何よりも、そろそろ一年が経とうという二人きりの時間がそれを感じさせていた。
しかし、彼女は理解していた。その感情は許されないと……。
一国の王子である彼と姓すら持たぬ自分では身分が違いすぎた。だから、彼女はこの感情は恋ではなく、ただの憧れなのだと思い込むことにしていた。
月の出ない夜は何故か胸騒ぎがする。
ルークを求めている自分がいる。
こんな夜はアイナはこの静かな寝室で眠れない夜を過ごすのだ。
頭から毛布に包まり必死に目をつむり朝日が差し込むのを待つ。
こんな夜に限って外から聞こえてくる金属音が耳に付くのだ。
だから、より強くなっていく胸騒ぎと『ルークに会いたい』この思いがより一層強く彼女の中で膨らんでいく。
しかし、それは禁じられているのだ。大概の場合、なんらかんら言って自分の我が儘を許してくれるルークも夜間の外出だけは厳しく禁じていた。
実の所、アイナはその禁を一度だけ破った事がある。その日、半身を赤く染めたルークを見つけた彼女は茫然としたのだ。
そして、禁を破った自分に激しい怒りを見せた彼を抱きしめた。何故だか涙が溢れてきたからだ。いつも通りの辛らつな言葉で怒りを現しているはずの彼が、悪いのは禁を犯した自分のはずなのに……、まるで懇願しているように見えてしまったからだ。つまり、愛おしくて堪らなくなってしまったのだ。
その日以来、彼女はこの禁を守った。別に義務感からではない。彼女の知っているルークと言う少年は強く、聡明で、そして、孤高で、憧れの存在なのだ。いや、そうでなくてはいけない。あんなルークを再び見てしまったら自分は……。
だから、その日以来、彼女はこの禁を破らなかった。
だけど……。一体何なのだ? より一層強くなっていく、この胸騒ぎは? いや、この慕情は?
だから、アイナは……。
「いるのだろ? 出てこい!」
誰のいないはずの空間にルークは鋭い言葉を放った。そして、そこに影ができるのを確認するとニヤリとする。
「いやはや……。もう、完全に認識できるようになりましたか」
「フンッ、故に投石は勘弁してやった」
小憎らしい返しを受けて男は苦笑した。
ここしばらくは見ているだけでよかった。この二人は基本的にやり取りをしない。だから、彼と話すのは久しぶりの事だった。
「貴様に命じる。いや、頼みがある」
男は目を丸くした。こう言ってルークが自分に頭を下げたからだ。
ルークは生まれついての貴族だ。加えて彼特有の傲慢さというか小生意気さというか……、兎に角、頭を下げて他人に頼みごとをするタイプではない。故に、男が言葉を失ってしまうのは仕方のない話であった。
「ふむ、所詮はこの俺も人の子と言う事だ。つまりは、そういう事なのだ」
男のリアクションに構わず続けたルークの言葉に今度は首を傾げた。うむ、何を言っているのかさっぱりわからん。
「俺が仕込んだとは言え。こう何度も命を狙われるのは、やはり面白くない。これまで俺を襲ってきた賊が同一の組織か、あるいは複数なのか、そんな事はどうでもいいのだ。貴様に頼みたい事は一つ。この外出を許されていない哀れな少年の為に、ここより一番近いその組織とやらの場所を調べてほしいのだ。フンッ、やがて根絶やしにしてやるが、生憎と俺の体は一つしかない。よって、間の悪い事に一番近くにあるそいつらをまず潰す」
――彼は何を言っているのだ?
男は自答する。もちろん言葉の意味自体は理解できる。しかし、何故、自分になのだ? 彼は自分が何者かを知っているはずなのに……。
「ん? 事もあろうかこのルーディラック・グリーンヒルドに敵対したのだ。当然の報いだろうが」
「いえ、違います……、私の役目は……」
いや、そうではないのだ。ルークの見当違いの言葉に彼は更に戸惑う。しかし、ルークはただの空気読めない奴ではない。
「愚か者め! 俺が知らないとでも思っていたのか? 貴様の役目は俺の監視ではなく俺の護衛であると。そして、貴様は生涯これから言う俺の言葉を誇りに思うがいい。事もあろうに俺は貴様のその行為に心底、屈辱感を味わっていたのだ!」
――なんというガキだ!
男は誇りに思うどころか心底身震いした。
「考えてみれば馬鹿でも分かる事なのだ。都合良くそう何度も何度も実戦経験が碌にない小僧の元に、その段階の実力でなんとか倒せるレベルの刺客が都合よくやってくるはずがなかろう。つまり、貴様は間引いていたのだ。俺では倒せないと踏んだ刺客をな! もう一度だけ言うぞ。それを知りつつも、それに頼らざるを得ない憤りと屈辱を三年間もの間、俺に与え続けてきたのだ。だから、誇りに思え。この俺のこれまでの人生で初めて、そして、これからの人生においてもそう何人もいない人物の一人になれた事をな」
ルークは吐き捨てるようにこう言うと、尚も言葉を失った男の肩を優しく叩いてやると続けた。
「そうだ、貴様の役目は俺の護衛だ。よって、ルーディラック・グリーンヒルドの名において宣言する。名も知らぬ見事な男よ。本日たった今を以て貴様を解任すると」
「……何を以てそのような事を仰るか?」
男がようやく絞り出せた言葉はこれだけだった。ルークの返事はある程度予想できる。だからこそ、これだけしか発せなかったのだ。自分の中で火が起こりつつあるのを感じてしまったから……。
「ふむ」対してルークは穏やかだった。いや、彼の仏頂面は珍しく年相応の少年の顔をしていた。「許せ。俺は愚かであった。強くなるためには求道者や修験者のようにひたすら孤独に、ひたすら孤高に、ただ、それだけを求めればよいと思っていた。いや、俺は彼らを否定している訳ではないし、それは方法の一つなのだろう。だが、俺は違うのだ。俺は彼らではない。だから、俺は愚かであったのだ」
ルークは呆けている男を見ると満足気に頷き続けた。
「では、俺は何者か? 俺は貴族であり王子だ。貴族の力とは何か? それは自分の、そして他人の為にある力なのだ。つまり、ヒトの力なのだ。俺はそれを知らなかった。故に愚かであった」
「……何を?」
「ふむ、やはり俺は説明が下手だな。アイナによく言われる。――貴様は知っていたか? 人は一人では生きられぬのだ。俺は愚かな事にそれを知らなかった。俺はそれを知るまで、俺の目的の為に『死なぬ』と、考えていた。愚民共にはそれで十分なのかもしれん。しかし、俺にとってそれでは不十分だったのだ。アイナと暮らして知った。俺は『死ねぬ』なのだ。貴族が、指導者が何の前触れもなく突然死んだらどうなる? 世は混乱の極みだ。たった一人が死んだために、それが原因となりより多くが死ぬ事になりかねん。よって、俺の命は俺と言う個のものであるのと同時に民のものでもある。だから、俺は死ねぬのだ。それを知った俺は弱者から強者へと変わったのだ」
――来るな!
男はそう念じた。ルークが言葉を放ってしまえは火が大火になってしまう。
しかし、ルークは容赦がなかった。
「つまり、俺は強くなったのだ。――貴様よりな。よって貴様の役目は終わったのだ」