聖女は逃げ出した
わたしは聖女、と言うらしい。
名前はユフィーレ。
お父さんとお母さんがつけてくれた、大切な名前。
でも、誰も名前を呼んでくれない。
誰も、わたしの名前を知らないから。
わたしは生まれて間もなく、お父さんとお母さんから引き離された。
わたしが、聖女だからって言う理由だった。
わたしが生まれた時、お母さんが死にかけたんだ。
けど、わたしがお母さんを助けたいと思ったら、お母さんがあっという間に元気になった。
産婆が熱心な教会の信者だったから、その産婆から教会に連絡が入ってしまったんだ。
教会の人がやってきて、わたしを抱いたお母さんから、わたしを引き剥がした。
その時、教会の人がお母さんを殴ったのを見た。
そして、教会の護衛騎士が、わたしを取り返そうとしたお父さんとお母さんを斬った。
たくさん血が出て、止まらなかった。
わたしが治そうとする前に、教会の人の馬車に乗せられた。
きっとあの時、お父さんとお母さんは死んでしまった。
わたしは生まれてまだ1ヶ月も経っていなかったけど、全部知っている。
だって、わたしは全部見ていたから。
わたしは生まれた時からの記憶を、ずっと持っている。
今まで記憶したものは、忘れない。
ずっと、忘れない。
ずっと、覚えている。
だから誰がお母さんを殴ったのかも、誰がお父さんとお母さんを斬ったのかも、全部覚えている。
その人は、何もなかったかのように、今もニコニコとわたしに微笑んでいる。
気持ち悪い。
わたしの大切な存在を奪ったくせに、幸せそうに生きている。
気持ち悪い。
お父さんとお母さんを傷つけた手で、わたしに触れる。
お父さんとお母さんを怒鳴って罵った声で、わたしに優しく話しかける。
許さない。
許さない。
でも、わたしはまだ8歳だから、何にもできない。
やり返すことができない。
反抗することもできない。
だってまだ子どもで、大人がいないと生きていけないから。
わたしは、生きていかなくちゃいけない。
お父さんとお母さんが必死に守ろうとしたわたしを、わたしが守らなくちゃいけない。
わたしの仕事は祈ること、結界を張ること、治療すること、占うこと。
毎日朝5時に起きて、夜1時に寝る。
起きている間はずっと仕事をしている。
仕事は、とても疲れる。
毎日、数えきれない人と会わないといけない。
休憩時間なんてない。
聖女は、休憩が要らないんだって。
食事は1日一回。
味の薄いスープと硬いパン一個。
お腹が空くのは、集中していないから。
眠たいのは、暇しているから。
教会の一番偉い人に、そう言われた。
だから我慢する。
生きるために、我慢する。
でもある日、親子で手を繋いで、楽しそうに笑っている子を見つけた。
外から子どもの笑い声がして、そっと覗いてみたらそこにいた。
どうして、あの子は笑っているの?
どうして、両親と手を繋いでいるの?
どうして、仕事をしていないのに怒られないの?
どうして……どうして……どうして……どうして……
たくさんの疑問が、わたしの中に溢れてきた。
だからわたしは、やってはいけない事だとわかっていたけど、力を使って街の中を覗いてみた。
そこでたくさんのことに気づいたの。
子どもは、守ってくれる大人がいること。
子どもは、可愛がられていること。
子どもは、たくさん寝ていること。
子どもは、仕事をしていないこと。
仕事をしたら、お金をもらうこと。
暗くなったら、仕事をしないこと。
ご飯は、2食以上食べること。
休憩する時間があること。
たくさん、たくさん、気づいたの。
わたしとは全く違うことに、気づいたの。
子どもとも、大人とも違う。
じゃあ、わたしは、何……?
みんなにとって、わたしは、どんな存在なの?
そんな疑問が、頭を離れない。
それでも日々は、過ぎ去っていく。
仕事をして、仕事をして、また仕事をする。
遊ぶ時間なんて、欠片も存在しない。
それがわたしの普通。
みんなと違う、普通。
でも普通って、一般的って言う意味でしょう?
わたしは一般的じゃないのに、普通なの?
考えれば考えるほど、頭は混乱する。
でも、仕事に失敗は許されない。
失敗すれば、ご飯が食べられなくなるから。
お腹が空くのは、とても苦しくてつらい。
寝る時間になって、早く寝ないといけないのに。
朝がつらくなるから、寝ないといけないのに。
頭に浮かぶのは、他の子どもたちのこと。
楽しそうだった。
嬉しそうだった。
喜んでいた。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
羨ましい。
どうして、わたしと違うの?
誰も褒めてくれない。
誰も慰めてくれない。
誰も抱きしめてくれない。
誰も抱き上げてくれない。
どうしてわたしは、一人なの……?
考えて、考えて、答えが出なくて、また考える。
そして、やっぱり答えは出ない。
だから、考えるのをやめた。
考えるのをやめて、窓から部屋を抜け出した。
髪の色を変えて、目の色を変えた。
この時間、誰がどこを通るのかなんて、手に取るように知っている。
だってずっと、ずっと覗いていたから。
どこをどういけば捕まらないか、見つからないか、外に出られるかなんて、わたしにとっては簡単なこと。
だって教会は、この街は、わたしの庭だから。
通るべき道が、はっきり見える。
音を立てないように、渾身の注意を払って駆け抜ける。
秘密の抜け穴を通って、教会の敷地から逃げ出した。
誰もいない迷路のような路地裏を、正解の道を選んで通り抜ける。
建物の隙間で、少し休んでまた歩く。
踵は血が滲むけど、傷はない。
怪我をした直後から、勝手に治るから。
でも、痛みは無くならない。
痛い……
けど、もう戻れない。
戻りたくない。
だから、前へ前へ進む。
歩いて、走って、歩いて、走って、時々休憩して。
街を囲う壁にだって、穴はある。
子どもたちが、大人に内緒の、冒険に行くための穴。
街の外に出られる唯一の穴。
わたしにとって、鳥籠の中から出られる唯一の出口。
希望の出口。
呼吸を整える。
心臓は、うるさく聞こえるほど、ドキドキしている。
わたしは身を屈めて、穴から這い出した。
立って、下を向いていた視線を、上に上げる。
目の前には何もなかった。
道も建物も人も、何もなかった。
何もないのに、何もないことが、嬉しかった。
目の前には何もない。
わたしだって、何も持っていない。
けれどまっさらな状態で、ここから始められる。
身体の疲れも、足の痛みも、今だけは忘れられた。
わたしは早く街から離れるために、止まることなく歩き続けた。
街道はダメ。
すぐに見つかってしまう。
森に行こう。
わたしは小さいから、森に隠れられる。
時間制限は、午前5時まで。
午前5時になって起きてこなかったら、部屋に入られる。
そうしたら、部屋にいないことがバレちゃう。
部屋にいなかったら、捜索隊が出される。
きっとわたしの足より、ずっと早い。
それまでに、できるだけ遠くへ。
わたしは足の痛みを無視して、止まろうとする気持ちも無視して、ただひたすら歩き続けた。
森に入ってからは、さらに歩く速度が遅くなった。
足下がゴツゴツしていて、躓きそうになる。
不意に枝が伸びていて、ヒラヒラした服や長い髪を引っ掛ける。
それでも前へ、前へ。
木々の隙間や頭上から、魔物や動物がのぞいてる。
わたしが望まない限り、彼らはわたしに近づかない。
だって、わたしの方がずっと強いから。
本能的に避けられてしまう。
でも、今はそれでいい。
足を止めている時間がないから。
ハァハァハァ……
もう、お日さまが頂点に来ている。
きっと、捜索隊が出されているはず。
見つかったら、何をされるんだろう。
焦りで注意が疎かになる。
「あっ……」
何かに足を取られた。
止まってしまった。
倒れてしまった。
足が震える。
力が入らない。
ダメ!
ここで倒れるわけには、いかないのに!
動いて!
動け!
起き上がって足を引きずるけど、また倒れる。
ああ……もう……ダ、メ……
「あれ?何これ?」
身体が宙に浮かんだ。
違う、誰かに捕まった。
襟首を持たれ、子猫のようにプラーンとぶら下げられる。
その誰かと、目があった。
「ん?子ども?」
一切動けないわたしは、ただ黙って彼を見つめる。
動けない。
動く気力がない。
口を開くのも億劫だ。
疲れた。
「なんか面白そうだから、持ってかーえろっと。」
肩に担ぎ上げられた。
空腹の胃が痛い。
彼が歩くたびに揺られて、肩が胃に刺さる。
「あ!ギルマス〜!なんか、拾った〜!」
「捨ててこい!」
「え、やだよー。ちっこいし、ペットにちょうど良くない?」
「ペットって、お前、それ、人間の子どもだぞ。」
「でもこんなところに一人でいるんだから、捨てられたんでしょ?拾ったもん勝ちだよー」
「ちょっと貸せ。」
「ほい。」
ポーンと投げられて、別の男の人の腕に収まる。
脇を持たれて、再びプラーン。
お互いジーッと見つめ合う。
「随分、子どもらしくない目だな。」
真っ黒で、飲み込まれそうな目。
目が離せないほど、綺麗な黒。
わたしと正反対の色。
「一緒に来るか?」
コクリと頷く。
拾ってくれるらしい。
ぜひ、拾って欲しい。
できることなら、なんでもするよ?
一家に一人、聖女がいれば便利だよ?
役に立つよ?
「名前は?」
「……呼んで、くれるの?」
「呼ぶから、聞いてるんだろう?」
「……ユフィーレ。」
「俺はアルトゥール。」
「アルトゥール……アル……」
「なんだ、ユフィーレ。」
「アル……アル……アル……」
「お、おいっ!?」
目から水が流れて、頬を伝う。
これが涙というものか。
知らなかった。
悲しくなくても、涙が出るんだ。
初めて、名前を呼ばれた。
呼んで、くれた。
涙が止まらなかった。
連載できたらしたいなぁ




