現場からの逃走
「……逃げるぞ」
男が、小さな声で言った。私は、黙って頷く。まだ、着替えてもいない。靴も、ちゃんと履いている。怪我も、ない。
(幸運だ)
それだけが、救いだった。私たちは、静かに、静かに動いた。足音を殺し、息を抑え、闇の中を進む。幸いだったのは――別荘が、激しく燃えていたこと。
爆ぜる音。崩れる音。
そのすべてが、私たちの微かな物音を、飲み込んでくれた。
どれくらい、歩いただろう。私は、もう、
どこを歩いているのか、分からなかった。
「……この辺が、限界か」
男は、立ち止まり、私を見て、そう言った。
(……なんで分かったの)
足が、悲鳴を上げていること。これ以上、進めないこと。
――そうよ。限界よ。引きこもり令嬢を、舐めないでほしい。もう、歩けない。
「ええ……休みが、欲しいわ」
私は、できるだけ、平静を装って言った。
男は、何も言わず、腰を下ろす。私も、その隣に、腰を下ろした。見上げると――
闇は、少しずつ薄れていた。
空が、ほんのりと明るくなり始めている。
夜が、終わる。朝が、来る。
しばらく沈黙が続いたあと、
男が口を開いた。
「……どうして、狙われているか、分かっているか」
――ああ、それ?内心で、私は肩をすくめた。
「……私が、王妃教育を受けていたから、かしら」
慎重に、言葉を選ぶ。
「極秘情報を、保有しているとでも思われたのよ」
男は、目を見開いた。
「記憶が……戻ったのか?」
「いいえ。単なる、推測よ」
私は、すぐに首を振る。
「それより――」
視線を、まっすぐ向ける。
「あなたは、どうして狙われているの?」
男は、黙り込んだ。沈黙。
長すぎる、沈黙。
「……だんまりは、なしよ」
私は、低く言った。
「これから、共に逃げるのだから」
男は、はっとしたように、私を見る。
「……なぜだ」
「私、一人じゃ無理だからよ」
即答だった。
「俺は、共に逃げる気はない」
男は、きっぱりと言った。
――そう。なら、手段を変えるだけ。
「じゃあ……あなたを、買うわ」
私はそう言って、いつも首から下げていた、小さな袋を取り出した。
口を開き、中から、宝石を二つ。
夜明けの薄明かりに、それは、はっきりと輝いた。
「これで――」
私は、静かに告げる。
「私を、隣国まで連れて行ってくれないかしら?」
男は、何も言わず、しばらく、その宝石を見つめていた。




