別荘での生活が始まった
私は、この世界の常識を知らない。
貴族としての振る舞いも。身分の距離感も。平民の生活も。金銭感覚も。「普通」と呼ばれるものすべて。
だから――次のターゲットを、慎重に選んだ。調理師兼庭師の、年配の男性。穏やかな顔立ち。長年この別荘に仕えてきたであろう、落ち着いた佇まい。
(この人なら……)
食事の後、皿を片付けているところに、私は声をかけた。
「あの……」
彼は、少し驚いた顔で振り返る。
「……何でしょうか」
怪訝な視線。それもそうだ。貴族が、使用人に、それも私的な話をするなんて――普通は、あり得ない。でも。
(そんな常識、今の私にはゴミ箱行き)
「知っていると思うのですが……」
声を落として、視線を伏せる。
「私、記憶を失くしてしまって……本当に、何も、わからないのです」
彼は、黙って私を見た。
「いろいろと……普通のことを、教えてもらえませんか?」
できるだけ、か弱く。できるだけ、無害に。
(私は、草食動物です。害も、毒も、ありません)
「……他にも、教える者はいるだろ」
だろうね。想定内。
「でも……」
私は、少しだけ顔を上げる。
「料理も、庭も……とても素敵で。お手伝いしながら、教えてもらえたら……と」
彼は、首を横に振った。
「手伝いは、不要だ」
(……くそう。無理か)
ならば。私は、ぐっと唇を噛んだ。
「……だって」
声が、震える。
「あの方……怖くて」
ちらり、と中年女性のいた方角を見る。
「いつも、見られている気がして……安心、できなくて……」
――泣きそうな顔。いや、半分は本音。
声は、ちゃんと震えている。目も、自然と潤んでくる。
(すごいぞ、私)
彼は、明らかに困った顔をした。
しばらく、沈黙。そして――
「……少しなら、だ」
(よし。折れた。言質、取ったぞー)
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
こうして私は――この世界の常識を教えてくれる、もう一人の味方を手に入れた。
ひゃっほーい。
私は、若い男性使用人に対して、最大限の注意を払った。
命じた仕事は、はっきりしている。
薪割り。薪拾い。買い出し。
外周り。とにかく、力仕事。
――屋敷の中には、入らない。
――私に、近づかない。
(決して、近付くな)
私は、か弱い療養中の貴族女性。若い男性使用人なんて、視界に入れてはいけない存在だ。近づけば噂になる。見られれば疑われる。一度疑われれば、取り返しがつかない。
(安全第一)
部屋では、ひたすら「文字」を覚えた。
読んで、書いて、読んで、書いて、ひたすら覚える。
調理場では、手伝いをしながら情報収集。
食材の流通。近隣の村の様子。
この土地の常識。金銭の感覚。
それはもう、必死だった。
生きるために。一年後を、乗り越えるために。
だから――私は、知らなかった。
「……もっと、癇癪を起こすかと思ってたがな」
「ええ。静かにしてますね」
「本当に……別人のようだわ」
調理場の片隅で、使用人たちがそんな話をしていたことを。
――以前の私が、どれほど扱いづらい存在だったのか。
――今の私が、どれほど異質に見えているのか。
そして。その会話を――若い男性使用人が、遠くから聞いていたことを。
薪を抱えたまま、立ち止まっていたことを。
私は、まだ、知らない。




