別荘に着いた
私と使用人は、別荘に到着した。
馬車を降りて、まず目に入ったのは――思わず息を呑むほど、美しい建物。白い壁に、手入れの行き届いた庭。背後には、豊かな森が広がっている。空気は澄んでいて、風は柔らかい。
……確かに。病気療養には、これ以上ない環境だ。問題は、その中身だった。
別荘には、すでに人がいた。調理師兼庭師の老人。掃除兼洗濯を担当する女性。
二人は夫婦で、高齢だが、近隣の村から通っているという。そして――私の身の回りの世話役兼、連絡係。……名目上は。
(実態は、監視役、よね)
落ち着いた表情をした、中年の侍女が一人。使用人は揃っている。
生活に困ることは、ない。
ないけれど――
「……で?」
私は、別荘の中庭を見渡した。
周囲は、森。見渡す限り、森。
商店もない。街道も遠い。
人の気配も、ほとんどない。
あるのは、自然。静けさ。そして、時間。
(……ここで、私はどうしろと?)
学園はない。仕事もない。娯楽もない。
期限は、一年。その一年を、ただ、のんびり過ごせば――その先に待つのは、例の「嫁に出される」未来。
美しい別荘も、澄んだ空気も、風光明媚な景色も――今の私には、何の足しにもならない。
胸の奥に、じわじわと焦りが広がる。
(……詰んでない?)
私は、心の中で、叫んだ。
ここは、癒やしの場所じゃない。
これは――猶予期間という名の、檻だ。
私は冷静になった。まずは――読み書きだ。
考えるまでもない。日本人なら、できて当然。生きていくうえで、必須スキル。
(文字が読めない人生とか、無理)
問題は、誰に教えてもらうか。老夫婦は優しいけれど、高齢だ。若い使用人は……色々と問題が起きそうだから、まだ保留。
消去法で――中年女性。監視役。連絡係。
つまり、時間はあるし、屋敷内で一番立場が安定している。
私は、彼女の前に立った。
「ハンナ」
侍女は、ぴくりと眉を動かした。
名前は、ハンナというらしい。
「あのね、ハンナ……」
声を、できるだけ柔らかく。
視線を少し下げて、控えめに。
「私、字も……忘れてしまったの」
困ったように、微笑んでみせる。
「教えて、もらえないかしら?」
――とっても、いじらしく。
――とっても、可愛く。
……。
返ってきたのは、氷点下の視線だった。
(ちっ)
内心で、舌打ち。
(ダメか)
気を取り直して、次の手。
「ハンナのお仕事、手伝うわ。迷惑をかけないようにするし……」
一歩、距離を詰めて。
「空いた時間で、いいの。ほんの少しで」
ねだった。できる限り、真摯に。でも。
冷たい視線は、変わらない。
(……手強い)
ここまでダメなら――奥の手だ。
私は、声を落とす。
「……少しだけど」
そっと、宝石袋に手を伸ばし、一番小さい宝石を、ちらりと見せた。
「お礼も、出すわ」
――その瞬間。ハンナの目の色が、変わった。ほんの一瞬。けれど、私は見逃さない。
(よし)
(釣れた!)
「……空いた時間なら」
ハンナは、素っ気なく言った。
「少しだけ、です」
私は、にっこりと微笑んだ。
「ええ、もちろん」
こうして私は――字を教えてもらう手段を、手に入れた。やり方は、ちょっと汚い?
いいえ。
これは、生きるための交渉です。




