別荘に行く前
別荘へ向かう、その前日の夜。
私は、屋敷の中を歩いていた。――トイレを探して。
夜の廊下は、やけに長くて、やけに暗い。足音がやけに響くのが、少し怖い。
(この屋敷、広すぎない?)
そう思いながら曲がり角を過ぎた時――ひとつの扉から、光が漏れているのに気がついた。
……声も、する。
思わず、足が止まった。聞き覚えのある声。
父と、母――らしき人たち。私は、息を殺して、壁際に寄った。
「……あの娘は、どうすればいいのかしら」
母の声は、かすかに震えていた。
「家は、長男が継ぐ。それは決まっている」
父の声は、淡々としている。
「では……どこかに、嫁がせるの?」
一瞬の沈黙。
「……記憶を失くした欠陥品だ。まともな縁談は来ないだろう」
胸が、きゅっと縮んだ。
「好色な男か、妙な趣味を持つ相手か……
まあ、その程度が関の山だな」
「そんな……」
母の声が、掠れる。
「一年だ」
父は、容赦なく言った。
「一年経っても記憶が戻らなければ、嫁に出す」
……は?
(ちょっと)
思わず、心の中で声が荒れる。
(本気で言ってる?)
そもそも。私の記憶は――
もう、戻らない。だって、消えているのは「思い出」じゃない。この世界での過去そのものだ。
いくら頭を叩こうが、 いくら思い出そうとしようが、出てくるのは、前世の記憶だけ。
(ていうか、選択肢、それ?)
家を継げない。学園も辞めた。
記憶もない。だから――変な男に嫁がせる?
(酷くない?)
しかも。
(一年後って……早っ)
猶予、短すぎない?療養って言葉、どこ行った?
私は、そっとその場を離れた。足音を殺して、来た道を戻る。胸の奥が、重たい。
明日からの別荘生活。自由で、静かで、のんびりした日々――そんな未来を、さっきまで信じていた。
でも。
その色は、今、一気に――灰色に変わった。
私は、別荘へ向かう――その前に、どうしてもやらなければならないことがあった。
父と母を前にして、私は小さく息を吸う。
(……ここが、正念場)
これは交渉だ。いや、賭けだ。
「……お願いが、あります」
声は、できるだけ弱く。震える手を、胸の前で重ねる。
視線は伏せ気味に。潤ませた目で、ちらりと二人を見る。
「この宝石たちを見ていると……なぜか、記憶が呼び戻されるような気がするのです」
私は、そう言って、そっと宝石箱に触れた。部屋に置かれた、数々の宝石。
首飾り。指輪。耳飾り。どれも、価値があるのは一目でわかる。
「この部屋の宝石も……別荘へ、一緒に持って行っても、よろしいでしょうか?」
――全身全霊。儚げに。か弱く。
今にも泣き出しそうな顔で。
(お願い……お願い……!)
これで、私の運命が決まる。
宝石がなければ、別荘はただの猶予期間。
宝石があれば、それは――未来への準備期間になる。
父は、少し考え込むように黙った。
母は、不安そうに私を見つめている。
時間が、やけに長く感じられた。
そして。
「……いいだろう」
父が、短く言った。母も、ゆっくり頷く。
「気休めにでもなるなら……持って行きなさい」
(っ……!!)
――勝った。
心の中で、静かに、でも確かに拳を握る。
運命は、私に味方した。
私は宝石――
否。未来の軍資金を携えて、領地へと旅立つことになった。
別荘という名の、追放先。
静養という名の、猶予。
ここから始まるのは、生き延びるための、現実的な第二の人生。
(……よし)
私は、心の中で、そう呟いた。
――これで、準備は整った。




