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美しく気品があり完璧だけど、歯磨きする時「オエエッ!!!」と凄まじくえずく公爵夫人

 私は公爵ラドニー・フリーダン。40歳。

 王城では国王陛下に助言を施す補佐官を務めており、陛下、宰相閣下に次ぐナンバー3の地位にある。

 仕事ぶりは我ながら優秀といっていい。近年も職人たちへの助成金政策が当たり、手工業の生産高が大いに伸びた。産業の発達はそのまま国の発達に繋がる。

 二人いる子供も手のかかる時期を乗り越え、寄宿舎のある学校に入学した。

 今は王都にある邸宅で、妻とともに暮らしている。

 そしてこの妻こそが、私にとってはいくら自慢してもし足りない存在である。


 妻の名はネスティ・フリーダン。30歳。

 伯爵家の生まれで、容姿端麗、頭脳明晰、気品があり、性格も穏やかで優しい。

 家柄では彼女を上回る私ですら「果たして私は彼女に釣り合っているのだろうか」と気後れしてしまうほどの完璧なレディだった。

 結婚してからも彼女はやはり完璧で、私をよくサポートし、子供たちもしっかり育ててくれた。使用人からの信頼も厚い。

 そんなネスティであるが、あえて欠点を述べるなら――むろん欠点などではないのだが――あれぐらいだろうか。



***



 夜の邸宅。夕食を済ませた私とネスティはリビングで穏やかな時を過ごしていた。

 私はコーヒーを飲み、ネスティは読書に興じる。

 やがて、ネスティがソファから立ち上がる。

 カールのある長い金髪に、サファイアを彷彿とさせる蒼い瞳、白いナイトドレス姿のネスティはまるで女神のようだ。


「じゃああなた、歯を磨いてくるわね」


「ああ」


 ネスティは歯ブラシのある洗面所に入っていく。

 もうすぐだな……私は心の準備をする。

 口には出さずカウントを唱える。

 5……4……3……2……1……。


「オオエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


 来た。


「ヴオエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


 まだ終わらない。


「グボォエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!」


 この声の主が誰かというと、他ならぬネスティである。


「ヴォエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


 彼女は歯磨きする時、こうなってしまうのである。


「ゴォエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


 歯ブラシを口の中に入れるとえずいてしまい、この魔獣の咆哮にも似た声を出してしまうのである。


「オヴェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!」


 もう一回くらいあるかな。


「オゴオオオオオオオオエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


 音が鳴りやんだ。

 歯磨きが終わったようだ。

 リビングに、スッキリした表情のネスティが帰ってくる。唇からのぞく白い歯が眩しい。

 この時のネスティは普段とは違う魅力を纏っている。

 彼女が歯を磨くのは朝と晩の二回だが、私はこの瞬間の彼女を見るのがたまらなく好きである。


 ――といっても、もちろん最初は面食らったものだ。

 新婚時、彼女のえずき癖を知った時はどうにか直そうと尽力したこともある。


『ネスティ、君はその癖さえ直せば歴史上最高のパーフェクトな淑女になれる』


『ええ、頑張ります』


 しかし――


『グッ……グボエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!』

『オエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!』

『オゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!』


 どうやってもまるで直らない。専門家を呼んでも効果無し。むしろ悪化してしまう。

 しかも不思議なことに、歯ブラシ以外ではこんなことにはならないのだ。

 なので食事中にえずいてしまうようなことはない。


 癖を直せない自分に、ネスティも当然思い悩む。


『私、金輪際歯を磨くことはやめます。そうすれば、あなたに相応しい女になれる……!』


『ネスティ……!』


 私は彼女を追い詰めてしまった己の未熟さを恥じた。

 これから補佐官として国を背負う人生を歩まねばならないのに、愛する女性の癖すら背負えず、何が補佐官か。

 覚悟を決めた私は、彼女に言った。


『えずきを直す必要はないんだ。それを含めて、ネスティという女性なのだから』


『ラドニー様……』


 私たちは熱く見つめ合った。

 すでに私たちは愛し合っていると思っていたが、この時ようやく真の愛にたどり着いたような気がした。

 思う存分えずいてくれ、ネスティ。そんな心持ちになれた。


 結婚して十数年、私も今では彼女のえずきにすっかり慣れた。

 といっても、心の準備をしていない時に聞くと、


「ウオッ……ヴオエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!!!!」


「……っ!?」


 やっぱり驚いてしまうのだが。

 いずれにせよ、ネスティのえずきはもはや私の人生の一部だ。



***



 ある日、私は王城の政務室で熱弁を振るっていた。


「市民の産業活動を活性化させることが、王家の方々や貴族の力を底上げし、ひいては国全体の力を押し上げることになるのです!」


 重臣たちから拍手が沸く。宰相閣下もうなずく。

 陛下が私ににっこりと微笑む。


「フリーダン公、君を王国産業改革の責任者とする。どうか思う存分、腕を振るってくれたまえ」


 私は丁寧に一礼する。


「ありがとうございます、陛下」


 私には自信があった。

 商工業者が力を発揮しやすい環境を作れば、経済がよく回るようになり、税収も増え、できる施策の幅も広がり、国全体が活力に溢れることになる。

 同時に私にしかできないことだと感じていた。

 私がしくじれば、この国の進歩は何十年も遅れることになる。

 必ず改革を成功させてみせると心に誓った。


「失礼いたします!」


 突如、一人の兵士が政務室に飛び込んできた。

 陛下が落ち着いた様子で「何事か」と問う。このあたりの貫禄は流石である。

 すると――


「フリーダン夫人が……誘拐されました!」


 この瞬間、私の頭の中は真っ白になった。



***



 状況を整理すると、今日の昼すぎ、ネスティは従者数人を連れて街でショッピングをしていた。

 そこへ猛スピードで馬車がやってきて、降りてきた覆面の男たちはネスティを拉致。

 巡回していた兵士が助けようとしたが、青いローブを纏った男の術によって金縛りのような状態になり、逃がしてしまったという。

 おそらくローブ男は魔法の使い手なのだろう。


 従者や兵士らを責めるつもりはない。ただただネスティの安全を祈るのみ。

 それに、私には犯人に心当たりがあった。

 まもなく王城の番兵から報告が入る。


「このようなものが城の敷地に投げ込まれました!」


 巻貝のような形状の道具だった。

 宮廷魔術師がすぐに用途を教えてくれる。


「これは魔道具ですね。魔力を込めれば、これと対になる巻貝を持っている者と会話ができます」


 城の人間と話したい、ということだろう。

 間違いなく誘拐犯の仕業――私宛だということも分かる。


「会話をできるようにしてくれるか」


「承知しました」


 宮廷魔術師が魔力を込めると巻貝は妖しく光り、そこから――


『……繋がったようですね。ラドニー・フリーダン様はおりますかな?』


 男の声だ。知的でねちっこいという印象を受けた。


「ここにいる。妻をさらったのはお前だな?」


『そうです。我々でやらせて頂きました』


 悪びれもせず、むしろ得意げに答えてくる。

 相手の下卑た笑顔が見えるようで、私の頭の中が瞬時に沸騰する。


「妻を返せ! 妻に指一本でも触れたら承知せんぞ!」


『誘拐する時に触れてしまいましたから、あいにくそのご要望には応えられませんが、手荒には扱っておりません。ご安心を』


 今はこの男を信用するしかなさそうだ。

 早く交渉を進めたい。そして妻を取り戻したい。


「……要求を言え」


『話が早くて助かります』


「早く言え!」


 焦っても仕方ないと理性では分かっているのに、感情が先に出てしまう。

 相手への怒り、自分への怒りが同時に湧く。


『あなたが進めようとしている産業改革……中止して頂きたい』


「……!」


『ラドニー・フリーダンの名の下に、現在進めている商工業改革を全て取りやめると発表してもらいましょうか。過去に配った助成金なども全て没収して下さい』


 やはりこういうことだったか。

 貴族の中には平民が力をつけ、金を稼げるようになることを好ましく思わない層もいる。庶民はこき使い、消耗すべきものと本気で思っているのだ。

 今ここで改革を止めれば、市民の間に王国(われわれ)への不信感が生まれ、経済活動は停滞するだろう。

 商工業を発展させます、やっぱりやめます、お金は返してね、なんてやったら誰だってやる気は削がれる。

 改革は頓挫し、次のチャンスは何年後になるか……。


『今申し上げたことを確認できれば、奥様はすぐに返します。しかし、もしできぬというのなら、奥様には死んで頂きましょう』


「貴様ッ!」


『国の発展か、愛する者の命か、じっくり考えることですな』


 この状況、まさに板挟みである。

 私の心は決まっている。ネスティが大事に決まっている。

 だが、私は王国の行方を担う補佐官、私情を挟むことは許されない。

 ネスティも、自分が枷となり改革が頓挫したと知ったらきっと苦しむ。彼女はそういう女性だ。

 私は悩む。どちらを選んでも、私も妻も苦しむことになる。

 きっと魔道具の向こうにいる連中はニヤニヤしながら私の答えを待っているのだろう。


 すると、国王陛下が私の肩に手を置いた。


「フリーダン公」


 私が振り返る。

 陛下は髭の生えた貫禄あるお顔で、こうおっしゃった。


「奥方の命に代えられるものなどない」


 さらに続ける。


「君ならば、回り道になってもいずれ必ず改革を成し遂げられる」


 陛下は私の力を信じてくれている。

 それゆえに、私に“誘拐犯に屈する理由”を作って下さったのだ。

 ありがたかった……。

 この人の下で働いていることを心底誇りに思った。

 私は陛下に感謝しつつ、答えを述べる。


「分かった……要求を呑む方向で話を進める」


『曖昧ですね。もっとはっきりおっしゃって下さい』


「要求は呑む!」


『いい返事です。では我々も奥様は丁重に扱うことを約束しましょう』


 当然すぐ返してもらえるわけがない。

 だが、要求を呑むと決めた以上、せめてこちらもある程度の要求はしたい。


「妻にはきちんと食事を与えてくれ。なるべく彼女の要望にも応えてあげて欲しい」


『承知しました……。一流シェフの料理を提供したり、キングサイズのベッドでお眠り頂くとはいきませんが、なるべくご要望に応えますよ』


 持って回った言い方に腹が立つが、妻の安全は保障されたようだ。


『では、改革中断の宣言をお待ちしておりますよ。愛妻家のラドニー様』


 ここで通話が切れる。

 皮肉に怒りを覚えている暇はない。私はすぐさま「産業改革中止」を宣言する文書作成に入る。

 おそらく明日の朝一番で公布することになるだろう。

 市民たち、特に商人や職人はさぞ私に失望するだろうし、誘拐に屈したことで私の王城での立場もだいぶ弱くなるだろう。

 だが、改革はいつかやり遂げてみせる――などと考えていると。


「犯人たちが、出頭してきました!」


「え!?」


 再び私の頭が真っ白になった。

 思わず聞き返すが、どうやら本当に出頭してきたようだ。


 犯人グループはおそらくリーダーであろう魔法使いのローブ男を筆頭に、全部で五人。私の予想通り、全員が平民を忌み嫌うタイプの貴族や有力者だった。

 なぜかひどく怯えている。

 宮廷魔術師が彼らを魔力で拘束した後、私は魔道具で話したリーダーと会う。


「なぜ出頭してきた?」


 すると、リーダーの男は――


「我々は悪魔を呼び覚ましてしまったァ! ひいいいっ……!」


 一体何があったのか。

 他のメンバーも顔面蒼白で震えている。


「怖いよぉ……」

「助けてくれえ!」

「呪われる、呪われる、呪われる……」


 私はリーダーに尋ねる。


「君たちに何があった?」


「我々はあの後、あなたの奥様に食事をさせたのです。シチューとパンを与えました……。すると、歯を磨きたいというので、要求通り磨かせたら……ひいいっ!」


 あー……なるほど。真相が分かった。

 あのえずきを、悪魔の咆哮とでも勘違いしてしまったのか。妻の中に眠る恐ろしい力を呼び覚ましてしまった……という感じで。

 それで、助けを求めて出頭してきたというわけか。


 望み通り、犯人たちは逮捕された。

 もちろんネスティは無事だった。

 ネスティは浮かない表情だが、よほどしっかり歯を磨いたのか、口の中は輝いていた。


「ネスティ……」


「ごめんなさい……あなたに迷惑をかけてしまいました」


 私は首を横に振る。


「君が無事であればそれでいいんだ」


「ありがとう、あなた……」


 私たちは抱きしめ合った。

 もう二度と、妻を危険な目に遭わせまいと誓った。

 えずきをそのままにしておいて、心から良かったと思った。

 やはり、妻にとっても私にとっても、彼女のえずきはなくてはならぬものなのだ。


 さて、事件は解決し――

 私の産業改革は順調に進んでいる。

 このままいけば、王国はさらに骨太となり、周辺国に対しても大きく水をあけることができるだろう。

 身辺警護も強化し、もはや私たち家族に手を出せる者はいない。


 家に帰れば、愛する妻が待っている。


「ただいま、ネスティ」


「お帰りなさいませ」


 あんな目に遭ったのに、ネスティは今も私の妻として完璧でいてくれている。

 そして、朝と晩にはもちろん――


「オゴッ……ヴォエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!」


 洗面所で今日も元気よくえずいている。






おわり

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― 新着の感想 ―
棒付きアイスとか、奥歯にものが挟まったら指突っ込んでほじくり出す、なんてことを子供のころからやってれば、わざわざ鼻から胃カメラ入れなくても済むのですが、近頃の若い世代は(以下略)←ウザイおっさんのウザ…
これねぇ、外出先で『お、エタメタさんの新作やん!』と思って、うっかり読んじゃったんですよ。 笑いをこらえるのがどれだけ苦しかったことか(^^;
 良い話なのに、「」の大部分が汚くて笑わずにはいられない。
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