天の扉
ルイは、村の外れにある小さな畑で鍬を振っていた。朝の陽光が金色に輝き、汗が額を伝う。両親を早くに亡くしたルイにとって、この畑は生きるための糧であり、心の拠り所でもあった。村人たちは彼を「孤児のルイ」と呼び、優しくもどこか距離を置いて接していた。それでも、ルイは自分の手で土を耕し、作物を育て、ささやかな自立を保っていた。
その日、空はいつもより青く、雲一つない澄んだ色をしていた。ルイが一息つこうと鍬を地面に突き立てた瞬間、遠くの空に奇妙な影が揺れた。鳥にしては大きすぎる、不自然な動き。目を凝らすと、それは鳥ではなく、人間の形をしていた。白い羽を生やした、まるで絵画から抜け出したような存在が、よろめきながら降りてくる。
「なんだ、あれは……?」
影は急速に近づき、畑の端に力なく落ちた。ルイは鍬を放り出し、駆け寄った。そこには、血に濡れた白い羽を持つ少女が倒れていた。彼女の羽は片方が折れたように不自然に垂れ下がり、肩には矢の傷が赤く滲んでいる。息は弱々しく、蒼白な顔に深い苦痛が刻まれていた。
「君、大丈夫か!?」 ルイは慌てて少女のそばに膝をついた。
少女はエメラルドのような瞳を細め、かすれた声で呟いた。「……逃げて……彼らが……来る……」
その言葉が終わるや否や、遠くから馬の蹄の音と甲冑の擦れる音が響いた。丘の上に現れたのは、黒い鎧に身を包んだ王国の騎士団。赤い旗に刻まれた剣と茨の紋章が、夕陽に不気味に光る。
「異教徒の天使め! 逃がすな!」 騎士の一人が叫んだ。
ルイの心臓が激しく鼓動した。考えるより先に体が動いていた。彼は少女を抱き上げ、近くの藪に身を隠した。少女の体は驚くほど軽く、羽の柔らかさが腕に触れた。騎士団は畑を踏み荒らし、剣を手に辺りを探し回ったが、幸いにもルイたちの姿を見つけることはできなかった。
藪の中で、少女は意識を失っていた。ルイは彼女の傷を改めて見た。羽の付け根から血が流れ、肩の矢傷は深そうだった。騎士団の仕業に違いない。ルイは唇を噛み、少女を自分の家に運ぶことを決めた。両親がいない彼の家は粗末で、村の外れにある小さな小屋だったが、隠れるには十分だった。
家にたどり着くと、ルイは少女を藁のベッドに寝かせ、傷の手当てを始めた。村の薬草婆さんから教わった知識を頼りに、布で血を拭き、傷口に薬草をすり潰して塗った。少女は時折うめき声を上げたが、目を覚ますことはなかった。彼女の首には白銀の鍵が揺れ、月光にきらめいていた。
夜が更け、ルイは少女のそばで椅子に腰かけ、眠気をこらえながら見守った。なぜ自分がこんな危険を冒しているのか、彼自身にも分からなかった。ただ、少女の無垢な顔と、騎士団の冷酷な叫び声が、胸に焼き付いて離れなかった。
天使の名
翌朝、少女は目を覚ました。エメラルドの瞳が朝日を反射し、深い悲しみを湛えていた。
「ここは……? あなたは……?」
「ルイだ。昨日、畑に落ちてきた君を見つけた。騎士団に追われてたみたいだね」 ルイは穏やかに答えた。
少女は体を起こそうとして顔を歪めた。傷がまだ癒えていない。ルイは慌てて彼女を制した。「無理しないで。名前は?」
「……ニア。わたしは……天界の使者。でも、この王国では異教徒と呼ばれてる」 彼女の声は弱々しかったが、どこか毅然としていた。
「騎士団はなぜ君を追うんだ?」 ルイは尋ねた。
ニアは目を伏せ、静かに語り始めた。「この王国は、天使を敵と定めた。わたしは争いを止めるために地上に降りただけなのに……彼らはわたしを捕らえ、処刑しようとしている。わたしの持つ鍵……それが目的かもしれない」
ルイは彼女の首にかかる白銀の鍵を見た。「その鍵、何なんだ?」
ニアは一瞬躊躇したが、ルイの真剣な目に押されるように答えた。「...この鍵は『天の扉』を開くもの。でも、開けてはならない。扉の向こうには、恐ろしいものが封じられているの」
ルイは息を呑んだ。村の噂で、王国が異教徒狩りを激化させていることは知っていた。だが、天使や天の扉といった話は、まるで古い伝説のようだった。
「ここにいれば安全だ。騎士団は村まで来ない」 ルイは力強く言ったが、心の底では不安が渦巻いていた。
ニアは首を振った。「彼らは執念深い。わたしを放っておくはずがない。あなたまで危険に……」
「大丈夫、あんな奴らへっちゃらさ」 ルイは笑ってみせたが、内心の動揺を隠しきれなかった。
その時、遠くで犬が吠え、馬の蹄の音が近づいてきた。ルイは窓から覗き、村の入り口に騎士団の姿を確認した。彼らは村人に何かを尋ね、鋭い視線で辺りを見回している。
「ニア、隠れて!」 ルイは素早く彼女を物置の奥に押し込んだ。そこは、両親がかつて使っていた古い道具や麻袋が積まれた場所で、隠れるには充分だった。
騎士団が家の戸を叩いた。ルイは深呼吸し、平静を装ってドアを開けた。
「何か用か?」 ルイはできるだけ無関心な口調で言った。
騎士の隊長が冷たい目でルイを睨んだ。「異教徒の女を見なかったか? 白い羽を生やした女だ」
「知らないね。俺は畑仕事で忙しいんだ」 ルイは肩をすくめ、内心で心臓が跳ねるのを感じた。
隊長は家の中を覗き込んだが、何も見つけられず舌打ちをして踵を返した。「見つけたらすぐ報告しろ。さもないと、お前も異教徒の仲間として処刑だ」
騎士団が去った後、ルイは物置からニアを呼び戻した。彼女は震えながらも、感謝の目を向けた。「ありがとう……でも、わたしはもう逃げられないかもしれない」
「そんなこと言うな。俺がなんとかする」 ルイは力強く言ったが、どうすればいいのか、頭の中は混乱していた。
森の小屋と老婆の知恵
夜が村を包み、星々が冷たく瞬く中、ルイはニアを連れて家を出た。騎士団が再び戻ってくるのは時間の問題だった。ニアの傷はまだ癒えきっていないが、じっとしているわけにはいかなかった。
「どこへ行くの?」 ニアが小声で尋ねた。彼女の羽は折れたまま、弱々しく揺れている。
「森の奥に、小屋がある。そこならしばらく隠れられるはず」 ルイは背負った麻袋に食料と布を詰め、慎重に周囲を見回しながら森の奥へ進んだ。
森は深く、木々の間を風が囁く。ニアはルイの手を握り、震えを抑えようとしていた。「ごめんなさい……あなたをこんな目に……」
「俺には日常茶飯事さ」 ルイは軽口を叩いてみせたが、心臓は激しく鼓動していた。両親がいない生活は、常に自分の力で生き抜くことを強いていた。だが、今回は命がかかっている。ニアの存在が、ルイに新たな責任感を芽生えさせていた。
森の奥にたどり着いた小屋は、朽ちかけた木造の建物だった。かつて村の猟師が使っていたもので、今はアトラという老婆が住んでいる。アトラは村人たちから「薬草婆さん」と呼ばれ、薬草や魔法の知識を持つ変わり者だった。
「アトラ婆さん、いるかい?」 ルイは小屋の戸を叩いた。
部屋の奥から、ゆっくりと老婆が姿を現した。白髪を無造作に束ね、皺だらけの顔に温かい眼差しをしている。「あぁ、ルイかぃ。お友達を連れて来たのかぃ?」
ルイはこれまでの経緯をアトラに話した。ニアのこと、騎士団の追跡、天の扉の鍵のこと。
アトラは静かに聞き、目を細めた。「……そうかぃ、大変だったねぇ。ルイ、こちらへおいで」
アトラはゆっくり椅子に腰掛け、ルイを近くに呼び寄せた。彼女はルイの胸に指を置き、呪文のような言葉を唱えた。低く、響く声が小屋に満ちる。
「これは……?」 ルイは戸惑った。
「おまじないをかけたのさ。」 アトラは微笑んだ。
「言い伝えには、神の島にある天の扉を開けた者は祝福を与えられ、不老不死になるという。だが、教皇はそれを信じ、天使を異教徒と呼んで鍵を奪おうとしている。死を克服したい国王も貴族たちは、教皇には逆らえない。だから教皇は強大な権力を持っているのさ」
ルイは息を呑んだ。天の扉の話は、村の古老たちが語る伝説でしか聞いたことがなかった。だが、ニアの存在と鍵が、その伝説を現実のものにしていた。
「今日はもう遅いから、寝なさい」 アトラはそう言うと、ニアに薬草の軟膏を渡し、傷の手当てを始めた。
騎士団の襲撃
翌朝、ルイが水を汲みに小川へ向かうと、遠くで馬の蹄の音が響いた。騎士団が森に踏み込んでいる。ルイは急いで小屋に戻り、ニアを起こした。
「ニア、行こう! 騎士団が近い!」
ニアは蒼白な顔で頷き、ルイの手を借りて立ち上がった。だが、彼女の足取りはおぼつかなく、羽の傷が悪化しているようだった。アトラは二人を見送り、静かに言った。「気をつけてね、その子を守るんだよ。」
二人は森の奥へ逃げようとしたが、騎士団の動きは速かった。馬の蹄の音が近づき、木々の間から黒い鎧が姿を現した。
「天使め! そこにいるな‼︎」 隊長の声が響く。
ルイはニアの手を引き、必死に走った。だが、ニアの体は限界に近かった。彼女はつまずき、膝をついた。「ルイ……もう、逃げられない……」
「そんなこと言うな!」 ルイは叫んだが、背後から騎士団が迫る。
ニアはルイの手を振りほどき、立ち上がった。「鍵を……守って……」 彼女は首から鍵を外し、ルイに渡した。
その瞬間、騎士団に囲まれた。隊長が剣を抜き、冷酷な笑みを浮かべた。「天使は不老不死らしいな。暴れるなら刺し殺してでも大人しくさせろ!」
兵士がニアに剣を振り上げる。ルイは考えるより先に動いていた。「ニア!」
ルイは身を挺してニアを庇い、胸に剣が深く突き刺さった。激痛が全身を走り、視界が揺れる。兵士はルイを崖の縁まで押しやり、冷たく笑った。「異教徒の仲間め、死ぬがいい。」
ルイの体は崖から落ち、海へと沈んでいった。ニアの悲鳴が遠く響く。「ルイ! ルイー!」
ニアはそのまま兵士に捕まり、涙を流しながら連行されていった。
海賊船での出会い
ルイは冷たい波に揺られ、意識が遠のいていた。どれほどの時間が経ったのか分からない。やがて、彼の体は浜辺に打ち上げられていた。
「お前、大丈夫か?」 若い男の声が響く。
ルイはかすかに目を開けた。目の前に、ぼさぼさの髪と日焼けした顔の青年が立っていた。カイトと名乗るその男は、ルイを海賊船「アルテミス」に運んだ。
ルイが次に目を開けた時、そこは船の狭い部屋だった。木の匂いと潮の香りが混じる。体は痛みで重く、胸の傷がズキズキと疼く。
「ここは……?」 ルイは呟いた。
「海賊船アルテミスの中さ」 カイトが答えた。「お前、よく生きてたな。あの傷、本当なら死んでてもおかしくなかったぞ」
ルイは胸を見た。痛々しい傷跡が残っている。だが、アトラの呪文が彼の命を繋いだのかもしれなかった。
「ニア……助けなきゃ……」 ルイは起き上がろうとしたが、カイトに押し止められた。
「おい、怪我人がいきなり動くなよ。取り敢えず休め」
ルイは渋々頷き、渡された残飯を食べた。「ありがとう……」
その時、部屋の奥からドスドスと足音が近づいてきた。「カイト、仕事は片付いたのかぃ!?」 眼帯をした若い女性が現れた。フィーネ、海賊船アルテミスの船長だ。
カイトは慌てて弁明した。「姉御、死にそうな奴がいて拾っちまったんだ」
ルイはこれまでの経緯を話し、フィーネに交渉を持ちかけた。「王国が向かう神の島まで連れてってくれないか?」
フィーネは目を細め、笑った。「王国の奴らを追って天の扉に群がってる隙に船や武器を盗むのも悪くない。しかも天の扉とやらにも興味がある。良いだろう、連れてってやる。ただし、タダ乗りはさせない。雑用をしっかりやってもらうよ」
交渉は成立し、ルイはフィーネ率いる海賊たちと共に、賑やかな城下町で出発の準備を始めた。
海賊の絆
城下町は活気に満ちていた。市場では魚の匂いと商人たちの掛け声が響き、港には無数の船が停泊している。ルイはフィーネやカイトと共に、食料や武器を調達した。
海賊たちの食事風景は豪快だった。「おい雑用、早くしろ!」「飯だ! 飯!」 口調は荒々しいが、彼らの目はどこか温かかった。ルイは雑用をこなしながら、海賊たちの絆に触れた。フィーネは厳しいが仲間を大切にし、カイトは不器用ながらも心優しい男だった。
ある夜、船の甲板でカイトがルイに話しかけた。「お前、なんでそこまで天使の女を助けようとするんだ?」
ルイは星空を見上げ答えた。「素直にニアを助けたいって思ったんだ、初めて何か大事なものを見つけた気がしたんだ。」
カイトは笑い、肩を叩いた。「お前、なかなか良い男だな」
神の島の戦い
王国の船を追跡し、ルイと海賊たちは神の島に到着した。島は霧に包まれ、岩だらけの岸辺に王国の兵士がずらりと並ぶ。警備は厳重だった。
フィーネはルイの背中を叩いた。「大切なんだろ? さっさと行って守っておいで」
カイトが不安そうに呟く。「姉御、この後は?」
「まどろっこしいね! 正面突破さ‼︎」 フィーネの号令一下、海賊たちは雄叫びを上げ、兵士たちに突撃した。
乱戦の中、ルイは島の奥へ進んだ。迷路のような岩場を抜け、ついに天の扉にたどり着いた。巨大な石の門には、複雑な紋様が刻まれている。そこには、鎖に繋がれたニアと、剣を手にする教皇がいた。
「君が天使と一緒にいた少年かね? その鍵を渡してもらおうか‼︎」 教皇が叫んだ。
ニアはルイに鍵を投げ渡し、叫んだ。「絶対渡さないで!」
教皇はニアの羽を切り落とし、剣を首に突きつけた。「...不老不死とて、首を跳ねれば死ぬやもしれんな?」
ルイはニアの命と鍵の間で葛藤した。だが、ニアの涙と叫びが彼の心を締め付ける。最終的に、ルイは鍵を教皇に渡してしまった。
『おぉ...やっとこの時が...』
教皇は狂喜し、天の扉を開けた。だが、その瞬間、扉の奥から異形の生物が溢れ出した。
『なっ、なんだこれは!?こんなもの言い伝えにはなかったぞ!?』
『ひぃぃっ、助け...』
黒い霧のような姿で、触れる者を喰らい尽くす。兵士たちの悲鳴が響き、教皇も呪われた生物に飲み込まれた。
ニアが叫んだ。「早く扉を閉じなきゃ!」
ルイとニアは力を合わせて扉を閉め、鍵をかけた。
その直後、扉には亀裂が入り激しい音と共に島ごと海に沈み始めた。
新たな旅立ち
ルイとニアは先に脱出した海賊が用意した小舟で島を抜け出した。
振り返ると、天の扉は大きな音を立てて崩れ、海深くに沈んでいった。
ルイはニアに鍵を返し、彼女はそれを海に投げ捨てた。
ニアは空に帰らず人として生きることを選んだ。
ルイと手を取り合い二人は新たな未来を誓った。
海賊たちに別れを告げる時、フィーネは笑った。「達者でな!」
カイトも手を振った。「元気でなー!」
ルイとニアは手をとり合い、
2人を乗せた子船はゆっくりと輝く水平線の彼方へ消えていった。