チャンスとピンチ
空の色が紫色に染まり、日が暮れてくるまで彼の後ろをあちこちついて歩いて回った、もちろん勝手に。
レコードショップ、本屋、アウトドアグッズのお店など、彼は家に直行するでもなくふらふらとウインドウショッピングを重ねた。
日が落ちた頃、ようやく駅前の繁華街を後にした。
そして家に帰るのかと思いきや、彼は駅からほど近くの公園に入っていった。
先だって晴花が身を隠していたような住宅街にある小さな公園ではない。林、ともすれば森とも呼べるくらいの規模感のある大きな公園だ。鱗ノ池公園という。池もあって憩いの場として親しまれている公園でもある。
そのあとを追って晴花も公園に入っていった。
慣れ親しんだ公園ではあるが、さすがにこれだけ暗くなってくると晴花も不安はある。物陰から音がすればさすがに怖い。電燈もあるにはあるが疎らではあるから昼間とは違う。
時間は一九時をまわった。人も少なくなっているし、お礼を渡すチャンスかもしれない。
周囲を伺いながら彼の姿を探す。薄暗いので白シャツとはいえ少々見づらい。早くお礼を渡さなければと思っていると、少し先にあるベンチに彼が腰かけた。
これは千載一遇のチャンスかも知れない。晴花は胸に手を当てて深呼吸した。
何と声をかけよう、『初めまして』いや、『こんばんは』だろうか。
いきなり声を掛けたら不審がられるだろうか、先ずはお礼を述べるべきだろうか、そうすれば理由を考える間ができるかもしれない。よし、それでいこう!
そうは思ったのだが、その意に反して手足が世界に絶望したかのように震えていた。あまりの震えに晴花自身がドン引くほどである。スマホの画面が幾重にも見える。
これはいけない、心を落ち着けなければ。
すると、すぐ近くの茂みの下に猫の姿が見えた。
緊張を解こうと晴花はすっとしゃがんで猫に手を伸ばした。逃げるかと思った猫は案外素直に近づいてきた。晴花は思い出して老婆に貰ったスモモを取り出し、猫の前に置いた。
「一緒に食べようか、好きかな?」
晴花は乾いた喉を湿らせるのに、貰ったぶどうジュースを出してストローを刺した。一口飲むと甘さが広がって少しだけ喉も潤った。猫は興味があるのかスモモの匂いを嗅いだり、転がしたりしている。そして少しだけかじった。実が赤い。ソルダムという品種だろうか。
よし、そろそろ行こうかと赤白のパッケージをポーチから取り出した。
次の瞬間である。
勢いよく猫が飛びかかってきた。
驚き仰け反ったはずみでジュースがストローから派手に飛び散り、晴花の服にかかった。軽く尻もちをついた晴花は、急いで立ち上がって服の様子を見た。
真っ白なワンピースの胸元にはジュースがたっぷりとかかり、紫の模様を描いてしまっている。
これは染みになってしまうだろうか、漂白剤でいけるか? 何よりこんな姿では彼の前に出られないではないか。
逡巡もつかの間、はたとその手から箱が無くなっているのに気が付いた。
あわてて周囲を見回す。
少し離れた場所にいるさっきの猫、その口に赤白の箱が銜えられていた。
晴花の肌がざわざわとした。
「それはだめっ!」
声を上げるが早いか、次の瞬間には猫は軽やかに駆け出していた。
それは彼に渡すものだ、それが無くてはお礼にならない。
取り返さないと、と思うと同時に晴花も駆け出していた。