発端
高峰晴花は絶望的に恥ずかしがり屋なのだ。
恥じらう乙女も度が過ぎれば只の変人に成り下がるのが今の世の中である。
その上、垂れ下がる髪を世界と己を隔絶するように利用しているのだから尚更だ。顔もまともに見えなければ気持ち悪がられて至極当然。
とはいえ、晴花にとって他人と目を合わせるなどという行為は、全身の血流を強制的に頭部に送り込む行為でしかなく、そうなれば尚のことコミュニケーションなど望むべくもない。
当人も分かってはいる、だが無意識の身体反射を改善するのはままならない。
たかだか目を合わせて話す、たったそれだけのことすらまともに出来るようになるまでには数か月、時には数年という膨大な時間がかかる。だから彼女にはほとんど友人はいない。
そんな有様だから実のところ本人を目の当たりにした場合、まともに会話などできようはずもなく変な奴だと思われるのがオチだということは想像に難くない。
それでも晴花は彼に会わなければならないのだ。
ことの発端は二週間前である。
晴花の学校は地域でも有数の進学校である。私立一柳女子高等学校はお嬢様学校として有名で、指定の和柄のセーラー服を着たいという目的で受験する者も少なくない。
晴花の場合は生来の真面目さと勤勉さ、そして何よりも父の重すぎるといって過言ではない愛情によって箱入りの園へと導かれたといえる。
学校は小高い丘の上にあり、坂道が麓から学校まで幾筋も伸びて網の目のように広がっている。その間を埋めるように豪奢な戸建ての住宅が並び、世間では一流とかけ『一柳富士』と呼ばれるほどの高級住宅地でもある。
まるで阿弥陀籤のような道を通って帰路についていた時だった。
自転車が坂の上からもの凄い勢いで下ってきた。
生徒ではない、時折この坂道の奇異さから自転車で運転技術を競う輩がいる。学校では安全性に問題ありとして警察にも届けているが一向に取り締まれない。
そんな輩の一人だったのだろう。
晴花は普段なるべく車の少ない道を選んで歩いている。
だからその時も油断して買ったばかりの本を読みながら下校しており、下ってくる自転車に気が付かなかった。何の気なしに道を横切ろうとした時だった。
突然、腕を掴まれて引っ張られる感覚に驚いた。
本が手から離れて目で追った瞬間、眼前を風の塊が通り過ぎて行った。
黒髪が風に舞う。
塊は罵詈を垂れ流して遠くに消えていった。
晴花は自分に何が起きたのか分からず、落ちた本の革表紙を眺めていた。
「大丈夫か?」
「え?」
声のした方に顔を上げると短髪の青年がそこにいた。思考停止である
「怪我は――無さそうだな。あっぶないなぁ、あいつ」
青年は過ぎ去った自転車を一瞥し、落ちた本を拾い上げて差し出した。
「君もさ、気をつけなきゃ駄目だぜ、はい」
状況は理解できた。しかし、理解したなら理解したで戸惑い、言葉も出せなかった。
おろおろとしながら本を受け取り、お礼を言わなければとまごついている内に青年は「それじゃ」と軽快に小走りでいなくなってしまった。
晴花はその場でしばらく思考の迷路をうねうねした。
何とか迷路を抜け出した頃には当然手遅れである。
お礼を言えなかった!
「はれちゃん、カレー、冷めちゃうよー」
静香の声ではっとしてベッドから立ち上がった。
助けてもらったお礼を言おうにも青年がどこの誰なのかも分からない。
短髪ではつらつとした印象、年齢は恐らく同じくらい、身長は晴花より少し高かったから175といったところだろうか。
服装は、白いTシャツにモスグリーンのハーフパンツ、スポーツブランドのスニーカー、黒いナイロンのショルダーバッグ。
特徴と言ってもそのくらいのものだ。決定的なものはない。
とてもではないがその程度の情報で探し出せるはずがない――はずだった。
それが今日、偶然にもその姿を駅前で見かけたのだ。
少し遠かったが間違いない、あの時の青年だった。学校帰りに駅前の商店街にある文房具店でノートを買おうと立ち寄った時だった。
駅の改札から出てきた彼の姿が見えた。
晴花は視力には自信があったから見間違えではないと確信している。
目の前で相対した時にどうするかなど考えもせずに彼の後ろ姿を追った。
追ったのだが、先の通りに見失ったのだ。
だが収穫はあった。
今日の彼は制服、そして持っていたのは学校指定の鞄。その鞄には見覚えがあった。
隣駅にある男子校、青ノ淵高等学校のものだった。






