ひとつずつ、わたしらしく-志賀楓
夏休み最後の日曜日。
蓮は都心の小さな美術館ロビーで、緊張気味に両手を握りしめて佇む志賀楓を見つけた。
「せんぱいっ!」
ツインテールが跳ね、白いブラウスと淡いピンクのスカートが揺れる。
楓は胸の前でパンフレットを抱え、頬を上気させたまま小さく頭を下げた。
「今日は来てくださって、ほんとにありがとうございます!」
「志賀さんが選んだ展示、楽しみにしてたよ」
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企画展のテーマは「雲と空」。
開場直後の静かな回廊で、ふたりは柔らかな油彩の前に立ち止まった。
「……せんぱい、覚えてますか? 中学の文化祭でせんぱいが描いていた“夏空の絵”」
「懐かしいな。あれ、部誌用に急いで仕上げたやつだ」
「わたし、あの絵を初めて見たとき“空って、こんなに広いんだ”って思ったんです。
それで美術部に入って……でも、ぜんぜん話しかけられなくて……」
楓は視線をキャンバスに落とし、少しだけ笑った。
「高校で再会したとき、“今度はちゃんととなりに立つんだ”って。それが、わたしの夏休みの目標でした」
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展示室を出て、ガラス壁のラウンジへ。
高い天井から落ちる間接光が、静かな午後を映し出している。
楓はテーブル越しに蓮を見つめた。
恥ずかしさに揺れる瞳が、それでもまっすぐに意志を宿す。
「せんぱい。まだ“好き”って言えてないけど、たぶん、わたし――」
言いかけて息を飲む。
蓮は静かに頷いて続きを促した。
「……ちがう。言います」
楓は両手でカップを包み、しっかりと蓮の目を見た。
「わたし、せんぱいのことが好きです。
中学で絵を見てからずっと、今もこれからも、ずっと――」
抑えていた想いが、静かな声に結晶して落ちる。
蓮は胸の奥で確かに何かが震えるのを感じた。
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館を出ると、夏の夕立が上がったばかりの街に、濡れたアスファルトの匂いが残っていた。
駅へ向かう歩道橋で、楓がそっと蓮の袖をつまむ。
「……返事は、今じゃなくていいです。
でも、今日のわたしを覚えていてくれたら、うれしいです」
「志賀さんの気持ち、ちゃんと受け取った。……ありがとう」
蓮はそう言って、差しかけていた傘を楓の頭上にそっと寄せた。
ツインテールの先についた雨露が、淡い夕陽で虹色に光っていた。
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志賀さんの“好き”は、ずっと静かに育っていた。
言葉にした瞬間、その静けさが一気に色を帯びた。
俺はまだ答えを選べない。
けれど――彼女の絵のように、ひとつずつ線を重ねる時間を、大切にしたい。