冷静と情熱のあいだ――黒瀬結愛
進学コース2年A組、静まり返った教室の窓際。
黒瀬結愛は、ノートに視線を落としながらも、ページはもう数分前からめくられていない。
視界の端に、彼の姿がある。
朝霧 蓮。
口数は少なく、感情もほとんど表に出さない。
ただ、彼の動作にはどこか無駄がなく、全てに意味があるように思える。
(また見てる……私)
自分でも気づかないうちに、彼を目で追ってしまうようになっていた。
•
昼休み。図書室の窓際。
読みかけの文庫本を閉じて、結愛はふと記憶の奥に沈んでいく。
•
――中学一年の冬。夜の塾帰り。
人通りの少ない住宅街。暗く冷え込んだ空気の中、早足で歩いていた時だった。
「ねえ、君さ……ちょっといい?」
後ろから声がかかった。
振り向くと、街灯の下に立っていたのは見知らぬ大人の男。
ニヤリと笑ったその顔に、警戒心が一気に跳ね上がる。
「別に怖がらなくていいじゃん。すぐ終わるから」
喉が詰まる。足が動かない。誰もいない。
背筋が凍る。
「……離れてください」
精一杯の声を絞ったとき――
「やめろ」
低く、凛とした声が、背後から聞こえた。
視界に飛び込んできたのは、自分と同じくらいの年齢の少年だった。
「誰だお前」
「通報する。今すぐ離れろ」
その声は、落ち着いていた。
でも、肩がわずかに震えていた。
それでも――彼は、一歩も退かなかった。
男は舌打ちしながら去っていった。
少年は結愛の方を見ようともせず、静かに呟いた。
「……怖かったな。大丈夫か?」
そのときの“目”と“声”だけが、記憶に焼きついている。
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(まさか……朝霧くんが、あのときの人?)
証拠なんてない。
でも――彼の佇まい、言葉の選び方、間の取り方――全部が似ていた。
(偶然? 思い込み? でも……)
気になって、仕方がない。
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翌日の授業中。
前の席の男子がペンケースを落とした。
誰も拾おうとしなかったその瞬間、椅子を引く音がした。
「落ちたよ」
拾い上げて、すっと差し出す。
当たり前のような所作。無駄も見返りもない、ただの自然な行動。
結愛の視線は、その手元から離れなかった。
(やっぱり……あのときと同じ)
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放課後。昇降口を出て、校門へ向かう途中。
前を歩いていた蓮と、偶然、歩調が揃った。
「……黒瀬さん」
「こんにちは。偶然ね」
結愛は並んで歩く。無言がしばらく続いた後――口を開く。
「少し、聞いてもいい?」
「何?」
「中学の頃。夜道で、女の子を助けたこと……ある?」
蓮は少しだけ歩みを止め、空を見上げるようにして言った。
「……あった。塾帰りの子だったと思う。顔は……あまり覚えてないけど」
結愛の心臓が、ひとつ跳ねた。
「たぶん、そう。
声も、目も……覚えてる」
蓮は静かに彼女を見つめた。
どこか懐かしむような、でも確認するような眼差し。
「……そうか」
それだけを言って、また歩き出した。
しばらく並んで歩いたあと、結愛はふと口を開く。
「……また、話しかけてもいい?」
「……別に、嫌じゃなければ」
その返事に、結愛はかすかに微笑んだ。
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その夜。
自室のデスク。開きかけたノートを前に、結愛は小さく息を吐いた。
思い出すのは、あの時の震える背中。
自分を庇ってくれたあの少年。あの目。あの声。
(理屈じゃない。でも――私は、覚えてる)
「……もっと、知りたい」
ぽつりと呟き、ノートを閉じた。