はじまりの色彩
中学2年の春。
志賀 楓は、美術室の隅の席で、静かに鉛筆を動かしていた。
筆圧は弱く、線も頼りない。
誰よりも目立たず、必要最低限の会話しかしない。
そんな彼女にとって、美術部は数少ない“落ち着ける場所”だった。
「……これ、描きかけ?」
不意に声がして、顔を上げる。
そこに立っていたのは、隣のクラスの三年生――朝霧 蓮だった。
「……はい」
俯きながら答えた楓の声は、掠れていた。
「構図、悪くないと思う。色も乗せるなら、陰影もう少し出した方がいいかも」
そう言って、朝霧はさらっと自分のスケッチブックを開いた。
そこには、目を見張るような細密な鉛筆画があった。
静物画なのに、生きているような存在感があった。
「すごい……」
思わず漏れた声に、朝霧は少しだけ照れたように笑った。
「描くの、好きだから」
それだけ言うと、彼はすぐに自分の席に戻っていった。
楓はその背中を、ずっと目で追っていた。
⸻
季節が進み、三年生の卒業が近づいたある日。
美術室の棚に、朝霧が使っていたスケッチブックが置かれていた。
顧問が「卒業記念に寄贈されたもの」と話していた。
楓はこっそり、それを開いた。
最後のページには、校舎の屋上から見下ろすグラウンドの絵。
そして、隅に小さく手書きの言葉が残されていた。
「絵は、気持ちが言葉にならないときの言語だと思う」
(気持ちが、言葉にならないとき……)
静かにページを閉じて、彼女は初めて気づいた。
(私……朝霧先輩のこと、好きだったんだ)
⸻
それから。
高校を決める面談で、志望校の欄に煌陽学園と記入した。
理由を聞かれ、「大学合格実績が高いから」と答えたけれど、本当は違う。
(先輩が通ってる高校。……私も、行きたい)
そう思ったとき、胸がふわりと熱くなった。
⸻
変わりたい。
もっとちゃんと話せるようになりたい。
先輩の隣で、ただ“静かに見てるだけ”じゃなくて――
(ちゃんと、見つけてほしい)
そこから楓は、少しずつ“努力”を始めた。
勉強を頑張った。
ファッション誌を読み、口調や話し方を変えてみた。
教室でも少しだけ声を出すようにした。
時々、うまくいかなくて落ち込む夜もあったけど、心の奥にはずっと、絵を描いていたあの先輩の横顔があった。
⸻
そして、冬。
合格通知が届いた日。
窓の外の空を見上げながら、楓は小さく呟いた。
「――もう一度、会いに行くからね。せんぱい」