陰キャ、少し本気を出す
「朝霧、お前が2組の代走な」
体育教師のぶっきらぼうな声が、グラウンドに響く。
午後の体育は、クラス対抗リレー。2組の男子に欠席者が出たため、名簿順で朝霧蓮が指名された。
「え? 朝霧って運動できたっけ?」
「ってか走ってるの見たことなくね?」
「1位陰キャって、足も陰キャだったらウケるんだけど~」
総合コースから見学していた桐谷蒼馬の声が、わざとらしく聞こえてきた。
それに呼応するように、取り巻きたちが笑う。
蓮は特に反応を示さず、淡々とスタートラインに立つ。
(別に勝ちたいわけじゃない。……でも、やられっぱなしも好きじゃない)
ふと、視線を感じて振り向くと、グラウンド脇のフェンスに三人の女子の姿があった。
姫川 咲。黒瀬 結愛。早乙女 玲奈。
三大聖女、全員が彼を見ていた。
(……見られてる、か)
蓮は深く息を吐き、ほんの少しだけ――筋肉の出力を上げる。
スタートの合図が鳴る。
「よーい……スタート!」
――ダンッ!
次の瞬間、空気が変わった。
「……え?」
「は?」
「お、おい、速くね……?」
周囲のざわつきが、驚愕に変わる。
蓮のフォームは、無駄のない最短の加速姿勢。
鍛え上げられた脚力が地面を蹴り、風を切る。
「あの朝霧……速すぎだろ!!」
100メートルを駆け抜けるその走りは、明らかに陸上部レベル。
いや、それ以上。体力だけでなく、フォームも、リズムも、完璧だった。
「え、今の……本気じゃなかったよね?」
黒瀬結愛がぽつりと呟く。
「うん。あれ、流してた。……全力の“7割”ってとこかな」
早乙女玲奈が言う。彼女は目がいい。動体視力も、空気を読む力も。
「すごい……」
姫川咲の声は、感嘆に満ちていた。
一方その頃、桐谷蒼馬は――
口を半開きにしたまま、動けなくなっていた。
(……なんだ、あれ)
(アイツ……運動、できるのかよ)
(何なんだよ……勉強も、運動も、女にも……)
焦り、嫉妬、劣等感。黒い感情が、心の奥底で膨れ上がっていく。
•
走り終えた蓮は、息も乱さずに立ち止まり、帽子を軽く整えた。
そこに教師の声が飛ぶ。
「朝霧! お前、あのフォーム……昔やってたな? 陸上部か?」
「……いえ、違います」
「……ふうん。ま、助かったわ」
教師はそれ以上突っ込まずに去ったが、周囲の視線は一層濃くなっていた。
•
その日の放課後。屋上。
翼が笑いをこらえながら言った。
「なあ蓮、ちょっとくらい手加減ってもんをだな」
「した。7割くらい」
「ウソだろ……あれでかよ。じゃあ10割出したらどうなるんだよ」
蓮は答えず、缶コーヒーを開ける。
その背後から、足音が聞こえた。
「朝霧くん」
振り返ると、そこには制服姿の姫川咲がいた。
「……すごかったよ。走ってる姿、見惚れちゃった」
蓮は少しだけ視線をそらした。
「……ありがと」
「ううん。こっちこそ、見せてくれてありがとう」
咲はふわりと笑った。
「……また、見せてくれる?」
その言葉の意味を、蓮は測りかねたまま、静かにうなずいた。
風が吹く。
静かに、だけど確実に――
蓮の存在が、“ただの陰キャ”というラベルから逸脱しはじめていた。