それぞれの距離感
期末考査。
進学コースにとっては、学力を問われる真剣勝負。
総合コースはやや易しめとはいえ、赤点を取れば容赦なく補習が待っている。
その空気感が、教室と廊下に静かに流れていた。
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「ねえ、蓮くん」
放課後の進学コースの教室。
入ってきた早乙女玲奈のその呼びかけに、教室の空気が微かに揺れる。
(……名前で呼ばれてたっけ?)
一瞬戸惑いながらも、朝霧は無言で彼女の持っていた数学プリントに目をやる。
「このへん、どーにもわかんないんだけど、ちょっとだけ教えてくれる?」
「ここ。公式の使い方が逆になってる。順番に直せば、あとは流れでいける」
「……さすが。思ったよりやさしいじゃん、朝霧くん」
朝霧は何も返さずに、淡々と問題を解き終える。
「……ありがと。助かった」
そう言って、玲奈は手を振るように去っていった。
その様子を、ドアの隙間からそっと覗いていたのは――黒瀬結愛。
(わざわざ……こっちまで来てたんだ)
玲奈が総合コースの教室から来て、進学の彼に直接教わっていた。
他の生徒は気にしていない様子だったが、黒瀬には、その距離が妙に近く見えた。
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朝霧が荷物をまとめて席を立った、そのとき――
「……あの」
声をかけたのは、教室の隅でずっとタイミングを計っていた黒瀬だった。
朝霧が振り返る。
「ちょっとだけ、わからないとこがあって……これ、見てもらってもいい?」
手に持っていたのは、英語の問題プリント。
内容は、実はそこまで困っていたわけではない。
ただ、きっかけが欲しかった。それだけだった。
朝霧はその意図に気づいたのか気づかなかったのか、黙ってプリントを受け取り、さらりと問題を指差す。
「ここ、関係詞が抜けてる」
「あっ……そっか。ありがとう」
自然なやり取り。
それだけのことなのに、黒瀬の心臓は少しだけ跳ねていた。
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「おつかれ、姫川さん」
教室を出ようとした朝霧に、姫川咲が声をかけた。
「朝霧くんも。返却、どうだった?」
「まあ……普通に」
「うん、私もそれなりに。……あ、次、数学の補講あるけど、もう帰る?」
「寄るとこないし、帰るつもり」
「そっか……じゃあ、またね」
自然な笑顔と、少しだけ残った名残惜しさ。
(やっぱり、こうやって話せると安心する)
ほんのわずかな会話でも、彼の表情や返しひとつで、心が落ち着く。
咲はそんな自分に気づいて、ふっと微笑んだ。
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数日後、補習対象の掲示が出された昼休み――
「あっちゃー……蒼馬たち、全滅じゃん」
「総合の内容って進学より全然簡単なのに、それでも赤点って……」
蒼馬、狩野、その取り巻きたちの名前が堂々と補習名簿に並んでいた。
「人のことバカにしてる暇あったら、もう少しちゃんとやればー?」
通りかかった女子生徒のひと言が、妙に刺さる。
普段、進学を“ガリ勉”とからかっていた彼らは、言い返す言葉もなく、掲示板の前をそそくさと立ち去った。
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朝霧はその様子を遠くから見つめながら、何も言わず、教室に戻っていった。
誰かに勝つためじゃなく、自分のために勉強している。
そういう姿勢は、言葉にしなくても、周囲に伝わっていた。
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夏の空が、もうすぐそこに迫っている。
それぞれの想いは、まだ言葉になっていないけれど――
確かに、一歩ずつ、近づき始めていた。




