知られたい?知られたくない?―黒瀬結愛
「知られたい?知られたくない?―黒瀬結愛」
教室の窓際、静かに本をめくる。
けれど今日は、文字が頭に入ってこない。
黒瀬結愛は、自分でも気づいていた。
読み返してばかりのページ。
視界の端には、また――彼の姿。
(また……見てた)
•
昼休み。
咲と玲奈が笑っている。
そこに朝霧が通りかかると、ふたりの目が自然と彼を追う。
(昔は、こんなふうじゃなかったのに)
少しだけ胸がざわついて、本をそっと閉じた。
•
放課後。
廊下ですれ違った彼に、ふいに話しかけられた。
「……この前、ありがとう。助かった」
「……どういたしまして」
たったそれだけの会話なのに、鼓動が少しだけ速くなる。
(どうして……こんなに)
普段の自分なら、もっと自然に返せたはずなのに。
言葉が上滑りするのは、知られたくない気持ちのせいか。
それとも――
•
教室を出たあと、静かな廊下を歩きながら、ふと頭に浮かんだ。
「明日の放課後、中庭で少し話せる?」
「あなたのこと、もっと知りたい」
進学して間もない頃、どうしても気持ちを伝えたくて、でも直接は言えなくて――
あのとき、手紙に託したたった二行。
ほんの短い言葉だったのに、あれを書いて、出すまでにどれだけ時間がかかったか。
なのに――
(どうして、あんなもの……)
書いたときの自分が、いちばん信じられなかった。
名乗らなかったから、気づかれずに済んだ。
でも今となっては、あの手紙の存在だけが、自分の中でやけに大きく残っている。
•
階段の踊り場から見えたのは、ひとりベンチに座る朝霧の姿。
夕方の光に染まる横顔が、ほんの少し寂しそうに見えた。
(あのときの手紙、気づいてるのかな……)
近づいて聞いてみればいい。
でも、それができるほど、今の自分は素直じゃない。
(話しかけたら、全部わかってしまいそうで)
•
帰り道。
イヤホンを片耳だけに差して歩く。
風が吹いて、制服の袖が少し揺れた。
(知られたくない。けど――)
(知られても、いいかもしれないって……ちょっと思ってる)
その考えが胸をくすぐるたびに、歩幅がすこしだけ変わる。
もう少しだけ、この気持ちは、私だけのものにしておきたい。
“知られないまま”でいる時間を、もう少しだけ――。




