気づいてほしくて、気づかれたくなくて―姫川咲
体育祭から数日。
教室の空気は、すこしだけざわめいていた。
「あの子、リレーで一気に追い抜いてった子でしょ?」
「進学の男子だよね。あんなに走れるなんて知らなかった」
「てか、静かで真面目そうな雰囲気だったのに、運動もできるって…ギャップやば」
その会話が自分のことではないのに、やけに耳についた。
(みんな、急に言い始めたな)
姫川咲は、教室の窓から外を見ながら、軽くため息を吐く。
(私……ずっと前から、気づいてたのに)
進学コースの朝霧蓮。
寡黙で、どこか他人との距離を置いているように見える彼。
でも咲は知っている。
その静けさの奥に、誰かを想って動ける人間らしさがあること。
•
放課後の体育倉庫。
体育祭で使った備品の片づけを頼まれ、咲はひとりで作業をしていた。
「これ……上、届かないな……」
棚の上に残されたコーンに手を伸ばすが、指が届かない。
踏み台を取りに行こうとしたその瞬間――
「……無理しない方がいいよ」
声と同時に、隣から伸びた手。
朝霧がそっと取ってくれた。
「ありがとう」
短く、それだけ。
彼は咲の視線に気づいたのか、少しだけ首を傾げた。
けれど何も言わずに、また作業に戻っていく。
その背中を見ながら、咲は小さく息をついた。
(変わらないな――あのとき、遠足で助けてくれたときと)
小学生の頃、列から外れて迷子になりかけた自分に、
静かに声をかけてくれた少年の姿。
あのときと同じように、今も彼は何も言わずに手を差し伸べてくれる。
(ほんとに、変わらない)
•
「ねえ、咲」
放課後、廊下で待っていた咲坂花音が、やさしく声をかけた。
「最近、蓮のこと……よく見てない?」
「えっ……」
図星すぎて言葉が詰まる。
「なんとなく、そんな気がして。あんた、昔から感覚鋭いもんね」
「ちがうよ……別に、そういうんじゃ……」
「ふうん。でも、もしそうだったら――ちゃんと大事にしなよ」
「……なにが?」
「気づいてたってこと。あんたが、いちばん早かったってこと」
咲は何も答えなかった。
でも、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
•
昇降口を出ると、少し先に彼の姿が見えた。
(……私が先に気づいてた)
(でも、誰よりも早く好きになったなんて、まだ言えない)
ほんの少しだけ、背中に視線を向ける。
彼が振り返ることはなかったけれど――それでも、見ていたかった。
いつかきっと、自分から目を逸らさずに言える日が来る。
そんな予感だけを胸に、今日もその背中を見送った。




