この気持ちはー黒瀬結愛
放課後の教室は、いつもより静かだった。
テスト範囲の発表を明日に控え、勉強熱心な生徒たちは図書室や自習室へと散っている。
そんな中で、黒瀬結愛は一人、ノートに視線を落としていた。
表情は変わらない。
ただ、指先だけがわずかに揺れていた。
(また、考えてる……あの人のこと)
仁科ひよりの一件。
朝霧蓮が見せた、優しさ。迷わず、迷わせない言葉。
(……やっぱり、あのときの手紙なんて出さなきゃよかった)
後悔じゃない。
ただ、もっとちゃんと、自分で向き合えばよかったと思う。
「……あれ?」
机の上に置いていたノートの一冊が、風で床に滑り落ちた。
拾おうとしてしゃがみかけたとき――
「これ、落ちた」
「――っ!」
そこに立っていたのは、朝霧蓮。
彼の手には、落としたノート。
「……ありがとう」
なぜだろう。
それだけなのに、心拍数が跳ね上がった。
•
「さっき、教室に誰かいたと思って寄っただけ。
……まさか黒瀬さんがまだ残ってるとは思わなかったけど」
「……復習してただけ。特に深い意味はないわ」
咄嗟に返した声が、思っていたより硬かった。
(なにこれ、普通に返事すればよかったのに)
結愛は自分の態度をすぐに反省する。
でも蓮は、気にする様子もなく近くの席に腰を下ろした。
「今、化学の範囲見てた?」
「……ええ。気になるところがあって」
「もしよかったら、俺もそこ気になってたから……一緒に見てみてもいい?」
「――えっ」
その瞬間。
思考が一瞬、真っ白になった。
(……“一緒に”?)
(“一緒に”って、ただの勉強のこと……だよね?)
(……なのに、なんでこんなに気になるの)
心臓の音がうるさい。
机に落ちた手が、少し汗ばんでいた。
•
ほんの数分。
たったそれだけだった。
蓮は説明も端的で、無駄がない。
それなのに、その距離感が――近くて、近すぎて、息が詰まりそうだった。
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「ありがとう。……たぶん、頭に入りやすくなったわ」
ノートを閉じながら、そう言うのが精一杯だった。
「黒瀬さんって、もう少し話しかけにくい人かと思ってた」
「……それは、褒めてるの?」
「うん。前より少し話しやすくなったって思ってる」
「……ふぅん。私から見たら、あなたも充分、近寄りがたいけど」
「……つまり、お互いさまでしょ?」
そのやりとりが、なぜかほんの少しだけ、くすぐったく感じた。
•
教室を出たあと、結愛は自販機の前で立ち止まった。
買ったばかりの麦茶を、開ける気にもなれずに。
(どうして、こんなに揺れるの?)
いつもなら、もっと冷静でいられたはずなのに。
勉強でも、委員会でも、誰と話すときでも――
だけど彼の前では、全部がうまくいかなくなる。
(この気持ちは、知られたくない)
誰にも。
――特に、本人には。
だけど。
(……どうしよう、また話したいと思ってる自分がいる)
冷えた缶を、胸元でそっと抱いた。
顔の熱を、ごまかすように。




