それぞれの距離感
放課後の教室。
荷物をまとめようと机を開いた瞬間――
朝霧蓮の目に、白い封筒が映った。
無地の紙。飾り気のない封。宛名も差出人も、何も書かれていない。
けれど、封はきちんと閉じられ、中には一枚の便箋。
そこには、整った文字でこう書かれていた。
「明日の放課後、中庭で少し話せる?」
「あなたのこと、もっと知りたい」
蓮は、少しだけ指先に力を込めた。
恋文というには、淡白すぎる。けれど、確かに“気持ち”がこもっている。
(……誰が?)
思い当たる名前が、いくつか浮かんで――すぐに打ち消した。
•
翌日、昼休み。
それぞれの場所で、“手紙の存在”だけが話題になっていた。
•
――図書室。
静かに読書をしていた黒瀬結愛は、ページを開いたまま、指先で紙の角をなぞっていた。
(どうして、あんなもの……)
書いた時の自分が、いちばん信じられなかった。
匿名で渡した、ただの短いメッセージ。
名乗るつもりはなかった。渡すことすら、躊躇った。
けれど――衝動が勝った。
(気になって仕方ない。でも、理由はまだ……言えない)
•
――中庭。
いつものように昼食をとっていた姫川咲は、周囲の会話に耳を傾けていた。
「ねえ聞いた? 朝霧くん、昨日、机に手紙入ってたらしいよ」
「うそ、誰が?」
「わかんない。でも、ラブレターだったらどうする?」
「うわー、そうだったら面白すぎ!」
咲は、手元の箸を止めた。
(……私じゃない。でも、誰かが朝霧くんに気持ちを伝えた?)
それがほんの少しだけ、胸の奥にチクリと刺さった。
•
――校舎裏の自販機横。
缶コーヒーを飲みながら、早乙女玲奈は空を見上げていた。
(手紙、ね……)
なんでそんなもん出すかな。
そう思って笑い飛ばすつもりだった。
でも――
(なんか、モヤモヤすんだよね)
自分が気になるのは、誰が出したかなんかじゃない。
“自分が出さなかったこと”かもしれない。
理由も、正体もわからないモヤが、心の中に居座っていた。
•
そして放課後。
蓮は、中庭へ足を運んだ。
ベンチには誰もいない。
数分待っても、誰の姿もない。
(やっぱり、名乗るつもりはないんだな)
と、そのとき。
「ここ、いい?」
木陰から現れたのは、黒瀬結愛だった。
だが彼女は、手紙の話には一切触れなかった。
「……偶然、通っただけ。別に、意味はないわ」
「そう」
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
蓮は、ふと視線を落とし、胸の中で呟いた。
(……黒瀬さん、たぶん君だよな)
文体、言葉の選び方、間の悪さ。
何より、今こうして“偶然”を装って現れること自体が、あまりに彼女らしかった。
けれど――
(彼女が何も言わないなら、俺から口にすることでもない。
そういう距離の保ち方も、たぶん悪くない)
そう思って、何も言わなかった。
•
教室で、廊下で、屋上で。
三人の少女たちは、それぞれの場所で空を見上げていた。
“まだ、言えない”。
でも――“もう、動き出している”。
想いとすれ違いが、静かに交差を始めていた。