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 ある深夜、普段とは違う鳴き声に起こされ昌江は犬小屋へ向かう。またおしっこだろうか、と工場の自動灯がラッキーの呼吸を荒くする姿にただならない緊張を覚えながら。

 激しい呼吸の、生暖かなしめった息をぜいぜいと吐き出している。ラッキーは昌江の与えた、ペットボトル一本分の水をすぐに飲みほした。全身の呼吸が乱れていた。体をさすってやると大きな鼓動が手触りとなって昌江の手に残る。どうやら風邪の症状のようだ。

 その後少し呼吸が落ち着くとまた寝室へと戻る。次に昌江が呼び起こされた時は明け方の四時だった。まだぜいぜいと苦しそうに息をしている。同じように水を飲ませてやるとよく飲む。きつい臭いにマットレスを取り除くと下に尿が溜まっていた。

 床をモップできれいにし、絞ったタオルで体を拭いてやる。マットレスを洗い、壁に立てかけておく。代わりに吸水性の高いトイレシートを敷き、そこへ寝かせる。一度もがくように起き上がり、すぐに力尽きシートの上へ倒れ込む。ひどく疲れているみたいで、昌江は心配になる。これが別れとはならないでくれよと思いながら、また寝室へと戻る。

 今度は六時。旦那が朝食の用意をしている。今日は客に呼び出され早出をしなければならないため工場を空けて行くと残し、旦那は工具などを車に積め、三十分ほどして出て行った。

 昌江が午後からの勤務へ向かうまでの間もラッキーは悪い夢にうなされるようで

、前足をぴくりと痙攣させ、突然夢から覚めたこどものように上半身だけ起こし鳴き声をあげたりしていた。

 出勤間近になり、ようやく呼吸が落ち着いてきた。全体重をシートに預け横向きのまま静かに息をするラッキーを見て、ようやく一安心できそうだとパートへ行く準備にとりかかる。

 出掛けにもう一度シートを覗くと、しめっている箇所を手で確かめ、念のためにとまた体を拭いてやり、シートも替え、休まらない気持ちのまま、パートへ向かう。

 その後ラッキーの風邪は回復の方向へ向かっていたが、それをきっかけに筋力の低下が著しく見られるようになった。

 なんとか自力で歩かせたい昌江達は、ラッキーの後ろ足の支えをして歩かせる。「イッチ、ニイ、サン、シイ」

 太腿の付け根あたりを握り、後ろ足を順番に前に出してやると、昌江の作り出したリズムに従い、ラッキーは前足を精一杯の力で、でもゆっくり、一足が重たそうに、途中昌江の両手に腰を預け休憩を挟みつつ、それでもラッキーは歩くのを止めなかった。

 草むらの短く茂っているところで立ち止まり、昌江が後ろ足を、少し外側に開いてやる。そうするとおしっこがしやすいらしく、やがてふるふる体を小刻みにゆらせ、しよぼしょぼ尿の流れる音が草むらにじんわり滲んでいく。うんちは横になった姿勢でしかしなくなった。肛門の下に新聞紙をあてがい、しっかりと受けとめてやる。かたいのがいつもだったから、もっと水を飲ませる必要があるかもしれない。

 昌江はラッキーの口元にペットボトルの口を当て、ボトルの横腹を押し口内に水を注いでやる。ラッキーの舌が動き出し、連続した舌の動作は勢いが衰えず、やはり水が足らなかったか、と昌江は次からはそうやって水を摂らせることにした。下半身の弱り具合が早まってきたように思われる。

 

 そして、とうとう起き上がるのが本格的に難しくなったラッキーに、おむつをはかせることを昌江は旦那と相談し、試しに旦那が娘から貰った幼児用のおむつをはかせてみた。ラッキーはもうそういった異物感にも鈍感らしく、おむつを噛み千切ったりするような抵抗もせず、なすがままになっていた。暑さが厳しくなるにつれ、彼の周りにひどくハエがたかるようになっていた。そのハエにも全く反応を示さない。旦那は時々、ラッキーの周りを飛び回るハエ達を上手に箒で叩き落とす。その音にさえラッキーは無関心で眠り続けている。体力の衰えも相当なものだと窺えた。噛む力が弱り、おかゆ状にして晩飯を食べさせるようになった。


 ラッキーの左目がさらに潰れたようになり、右目も、目やにがひどくなってきた。眼球は瞼の奥へとさらにくぼみ消えてしまっていた。

 最近は起き上がる力も弱くなり、手をかしてやらなければ、自力では起き上がることさえ出来ず、急速な筋力の衰え具合も、このまま続けばやがて起き上がるどころか身動きさえとれなくなる日も近いだろうと二人に思わせた。

 昌江はいよいよ最期の時を覚悟しなければならないことを感じていた。十七年も生きれば、犬としては長寿の方だと周りの飼い主達にも言われていたが、せめて自分の前で逝ってくれないか、きちんと看取ってあげたいからと、前足だけを僅かにばたつかせてみせるラッキーの老い果てた姿に昌江は目頭の熱くなる心境に、自分はこれっきりにしよう。今度もし犬を飼っても、自分の方が先に亡くなってしまうだろうから次はもう飼うまい、とこれから我が身に介護の手が必要となる近い将来を重ね合わせ、自分もその老犬のような手厚さで介護されることを期待してしまうのだった。

 二人には迷惑をかけたくはないが、息子や娘に心ごと預け、甘えてみたい気持ちもあった。あの子達なら、きっとわたし達夫婦を助けてくれるだろう。それでも出来る限りは自分達でやろうと、昌江と旦那は密かに自分達の近い将来を語り合っていた。

「後二、三年が限界だろうな」

 と旦那にしては珍しく弱気な発言をもらすとラッキーが鳴く。珍しく旦那が先に反応した。

「ラッキー。おしっこか? 」

 前足だけをひくひくさせ、なんとか飼い主に近づこうと、ほふく前進のような歩みで、旦那のサンダルの鳴る方へラッキーが少しだけ動いてみせた。その際、おむつの擦れるざらりとした響きが昌江の耳に残った。



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