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 後ろ足から弱ってきたラッキーは、今では歩くことさえ難しく、一日の半分以上を睡眠に当てていた。時折自らの足で立ち上がり、ふらつきながら、身を預ける位置を変えたりしながら過ごしていた。

 寂しさなのか、目のほとんど見えなくなったことの不安感からなのか、弱弱しく、どこか人を切なくさせる遠吠えを上げ、昌江が来るまで止めようとはしないこともあった。

 白内障を患い、両目の奥は白く濁り、左目は視力を完全に失ってしまい、目やにがひどかった。日に何度か拭いてやらなければ、細菌が繁殖し水気の減り縮み、遠目では片目にしか見えないくらいくぼんでしまった眼球はもっと悪くなるらしい。濡れたティッシュで瞼をなぞる様拭くと、黄色く濁った目やにが大量にとれた。

 医者に診せ、大まかな説明も受けたが、結局は年齢からくるものだといわれれば、無理に治療するのもかえって良くないそうで、昌江としては老衰の犬をただ介抱してやる他なかった。

 

 同じスーパーで働く同僚が飼っていた犬は、白内障の手術をし終えた後に、手術の疲労で死んでしまったからやらないでおいた方がいい、と大仰にアドバイスをしてもらい、旦那とも話し合って、そのままにしておくことに決めてその話は済んだ。

 尻尾のあたりに瘤ができ、大きく膨れ上がり、熟しきった果物のように、自然に膿んだ皮膚の一部が破け、濁った血液と肉の塊のようなものがでてきた。

 皮膚病かと、医者へ連れて行き、瘤を切り取ってもらったが、また膿が溜まる。それも年齢からくるものだと医者にいわれ、根本的な解決方法はないのだと諦め、職場での会話においてつい同僚に相談するような口ぶりで聞いてしまえば、うちの犬もそうだった。老犬にもなれば免疫力も低下してくるものだからと、医者と同じことを言ってくれ慰めてくれた。

 昌江もついに納得し、その瘤が毎回隆起してくるのを確かめながら、腫れ上がる寸前の瘤を憎らしく思いつつ、もうそろそろ、膿を出してあげる頃かと、毛の抜けて細く小さくなった尻尾を優しく撫でてやると尻尾が僅かに反応を示した。

 尻尾も以前のような元気よさはなく、垂れているだけで、地面で擦れ、そこから化膿し、痣から別の瘤ができた。

 だからといって、力の無い尻尾を終始持ち上げてもおく方法も思い浮かばず、傷口に包帯を厚く巻いてもみたが、いつの間にか包帯ごと擦れ、なかなか傷は完治せず、化膿も治まることがなかった。その為、毎日包帯を換えてやることになり、旦那も時々、血の付いた床を引きずり歩く姿にようやく気づき、仕事の手を止め、ラッキーの包帯の取れたところを下手な巻き方ではあったが、取り換えてくれてはいたので、昌江だけに介護の全ての負担がいくことはなく、多少助かってはいたが、やっぱり雑な巻き方が気になり丁寧に巻き直した。二度手間だとは分かってはいるが、そうしないと昌江自身が落ち着かなかった。

 傷口に張り付きにくい、滅菌パッドという商品を薬局で見つけ、それを当てた上からだと滲んだ血が固まっても、傷口に張り付くことはなくなり、包帯を取り替えるのは前よりも手順は増えたが、ラッキーのことを考えれば、昌江は迷わず手間のかかる方を選び、次からは溜まりきった膿を手である程度押し出した後、滅菌パッドの上から包帯を巻いてやった。

 びくっ、とラッキーは体を震わせ、それでも自分のためにやってくれているのだろうと知ってか、それ以上の抵抗はしない。その犬も自身が介護の必要なのをわきまえているように、昌江のすることに逆らわなかった。血と共に色の濃い膿がしぶとく出てこない時は搾り出すよう、もっと指先に力を込める。毎日のことながら、痛々しい姿に昌江はその老犬を憐れまれてならなかった。


 夏が近くなると、蚊の問題がでてきた。フィラリアから心臓病を引き起こすという話を聞き、犬用の蚊取り線香を買ってみた。二ヶ所に置き、線香の微かな煙はラッキーの邪魔にはならず、蚊も以前に比べ寄りつかなくなったが、それでも足りない気のする昌江は、蚊の嫌う匂いを発する『蚊連草』というものがあることを知り、すぐさまガーデニングショップへ探しに出かけ、よく育つようにと願いを込め、大き目の鉢植えに移し変え栽培を始める。風通しの良い場所に置き、充分な水を与えてあげた。花びらに顔を近づけ匂いを嗅げば、そっと良い香りが鼻をくすぐった。これを蚊は嫌うのか、昌江は半分疑いつつも、蚊連草を育てた。蚊取り線香よりは気にならないらしく、蚊連草の傍で昼寝をするラッキーを眺め安堵する。

 しかし、薄くなった毛を掻き分け皮膚を除けば、小さく、赤く腫れ上がった箇所がいくつもあった。線香も蚊連草も効かなかったのかと思えば、旦那の工場のセメントの足場から離れた草地にラッキーが体を移した際に蟻に喰われていたことが分かると、リードを短くし、草地には行かせないよう工夫をした。ラッキーは蟻に喰われても、何の反応も示さないものだから、ようやく二人が皮膚の赤くなる原因を突き当てひと息つくのもつかの間で、次の問題が起こった。

 セメントの床には、床擦れをしにくいようにと風呂場のマットレスをひいていたが、ラッキーはそれを好まないらしく、ひんやりとしたセメントの床に直に横たわるのがお気に入りらしく、そこで頬や肩に擦り傷をつくる。その部分がもっとひどくなると、皮膚の奥にある骨まで剥き出しになった。包帯を肩から前足の下側に回してやっても、床擦れはなくならず、傷はなかなか完治しなかった。

 軽度の痴呆がはじまっていたラッキーが、床にそのままの体勢でおしっこを垂れ流すようになった。その度に一旦、旦那がラッキーを持ち上げ、尿の垂れたところを昌江が洗い拭き、消臭剤の霧を吹きかける。犬にもノネナールでもあるのだろうか、歳老いたラッキーの糞尿は臭いがきつくなっていた。体に付いた尿を旦那が濡らしたタオルで拭いてやる。犬用の『シャンプータオル』という拭くだけで体の手入れが出来るものを見つけた。犬が舐めても無害な成分であるとうたわれていた。薬局に行く回数も増え、ラッキーの買い物ばかりが多くなってきたことが、犬の衰弱の程度を教えているようだった。

 糞尿を洩らすラッキーをどうしようかと同僚に相談してみた。犬用のおむつもいいらしいが、犬が嫌がるので、赤ちゃん用のを小さく切って使った方が、犬の不愉快さは少ないらしい。それも嫌がるのなら、犬用のトイレシートもあると教えてもらうが、なかなかうまい具合にはシートの上でしてくれないラッキーを叱りたくなることもあったが、ふらふらと濡れた床から離れようとがんばり起き上がる懸命な姿が、昌江の、心のしこりをやわらげた。


 同僚は、最初はパグを飼い、その犬は十年の寿命を老衰という形で全うすることができたが、二匹目のパグは白内障の手術で五年も持たなかったことを、その時の、自身の知識の無さをあげ後悔し、昌江に聞かせる。だからこそ、犬を飼うことの難しさも噛みしめ三匹目はさらに丁寧に飼っているのだと言い、自分は決して一時の好奇心から犬を飼っているのではないと強調した。昌江には同じ後悔をしてほしくないとも言い、些細な気がかり事にも真剣にアドバイスをしてくれる同僚は、昌江と歳の近いおばさん同志、職場では犬の話が中心となり、獣医よりも彼女の意見を先に求めるようになっていた。犬小屋の中でも糞尿をするようになったラッキーのために、お古のタオルケットをくれたり、糞尿の臭いのきつくなったラッキーに、犬用の消臭剤や、ウエットティッシュがあることを教えてくれたのも彼女だった。

 昌江は同僚のよく行くというペット用品店を訪れる度に、犬を飼うのに必要な知識を得てきて、いつの間にかペット用品のさまざまな種類とその品物に関する知識、とりわけそれが何の成分で出来ているのかをしきりと、商品の裏面に意識が向かうようになっていた。

 そのことを、冗談交じりに旦那に話し、犬の介護の仕事でも始めようかしら、なんて笑いながら横文字の成分の名を思いつくままに言い並べ始める。

旦那は、ほぅ、とか、へぇ、とかいちいちうなずき、昌江の話を肴に焼酎をあおるリズムが早くなる。真っ赤になった顔をして、畳の上に寝転がりそのまま寝息を立てる。それを合図に昌江は洗い物をするため、台所へとたつ。二人と一匹の夜はそのようにして過ぎていくのが常だった。 


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