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以前書いた『老犬介護』というお話を分割しただけです。

 もともとは野良犬や野良猫を毛嫌いする昌江が、植木の水遣りの際に、どこからか庭へと迷い込んできた丸っこい子犬を、その時ばかりは見過ごせずにはおれなかったのは、何かの縁のようでもあったな、とその今ではリードをはずしても、どこへも行かれなくなった老犬を見つめ、そろそろおしっこをさせるかと、老犬の首に繋がるリードを手繰り起き上がるのを手伝い、草地のある方へと誘導してやる。


 まだ、二人のこども達が家にいた頃、学校帰りで、昌江が抱いている幼い犬を見て、最初に帰宅した長女がまず関心を示した。長女は犬種にこだわり、本にある犬とその犬とを見比べ、一番近いのはシェットランドシープドッッグだといってきかず、はしゃぎようは夜寝付けなくなったほどだ。

 いわれてみれば、洋犬に近い顔立ちで、全体的に白い毛の所々に黒毛が混じっていて、顔だけは黒い部分が多くあり、額から鼻にかけて広がるように白毛が生えていた。

 まだ幼い頃は、額の三日月型の白い毛が、成長するにしたがい鼻の周りの白毛とくっつき一つにつながっていった。

 長男は早々に名をつけようと、あれやこれやと適当に思いついた名を発しては首を捻る。

 そのうち食卓に出した焼き魚をじっと見て、『いわし』がいい、と突拍子もないことを言い出すものだから、昌江は『ラッキー』と命名し、こども達を言い伏せた。

 野良を好かぬ、このわたしに好かれたお前は幸運だった、という理由からだったので、こども達には安直すぎると反対されたが、この家で、一番この子の世話をするのはわたしなのだからと、名付け親になる権利を主張すれば、こども達も旦那も何も言わなくなった。

 丸っこいぬいぐるみのようなラッキーは毛が長く、パンダのこどもみたいで、ころころと歩く姿は愛嬌があり、生後一ヶ月ほど経ったくらいに違いないと家族で想像しては、子犬を捨てた飼い主を軽蔑しつつも、一家に新しい家族を授けてくれた幸運に感謝した。


 青色の首輪をかけてやり、まだ犬小屋も建てないうちは、旦那の工場の柱に繋いでおいたら、夜中にしつこく鳴き出す始末で、家の中でしばらくは飼うことにした。こども達は歓び、抱き枕にでもするように、互いにラッキーを奪い合い、一緒に寝ようとする。昌江はさすがに布団の中でおしっこでもされてはと、それを許しはしなかった。

 こども達は残念がったが、ラッキーも、まだ短い足では階段をのぼり、二階のこども部屋までは辿り着けず、一階の寝室の閉め切った扉越しに媚びるような鳴き方をし、子犬ならではの頼りなさと、寂しさを醸し出す。

 情に負け、こども達には内緒で時々寝室へと招き入れてやることもあったが、すぐに成長していったラッキーが階段を易々と駆け上がるようになった頃には、手先の器用な旦那の見事な犬小屋が出来上がり、小屋の表札には、こども達の不器用な文字で彼の名が掲げられた。


 ラッキーを飼い始めたのが五月だったから、ちょうど犬の毛の抜けやすくなる時期で、初めて犬を飼う昌江達は抜け落ちた毛に手をやかされた。室内で飼っていた頃も抜け落ちた毛にこども達がくしゃみで居所を告げ、その度にこども部屋に掃除機をかけてやり、ガムテープを巻いた手で、こども達の服に付いた毛を取り除いてやった。

 ブラシで体に触れられるのを最初のうちは拒んでいたラッキーもやがて、その行為の気持ちよさを覚え、慣れてくれば毛並みをブラシで整えてやるのは昌江も、こども達も、特に長女はラッキーの毛を好んで梳いてくれ、楽しみのひとつとなった。

 長男には散歩の相手を無理にさせた。ラッキーは力加減の出来ない犬で、飼い主を飼い主とさせない強引さで、散歩の主導権をなかなかこちらに譲ってはくれなかった。

 長女の買ってきたしつけの本のようにはなかなかうまくいかず、振り回されることが多かったが、旦那と散歩に行く時だけは、おとなしく左側を遠慮がちに歩く。

 いうことを聞かず工場でいたずらを繰り返すラッキーを、旦那がこっぴどく叩き叱ってからは、旦那にだけは従順で、主従関係を犯すことは絶対にしなくなった。旦那との散歩はラッキーには苦痛そうだと、こども達と笑いながら、旦那とラッキーの落ち着きのある、静かな散歩を眺めているのは、昌江には確かにラッキーも家族のひとりと数えられているような、こども達の姿を見ている時と同じ感覚を抱かせた。


 ラッキーとの散歩という行為は家族全体のものとなっていたし、家族にひとつの約束事のような絆を与えてもくれた、その大切な散歩も今では随分とご無沙汰になった。

 もう裏山の坂道をひっぱられ登ることもなくなったのだなと、開発され、分譲住宅地に成りつつある土地を、昌江は寂しく想った。

 けもの道のような裏山をラッキーが引っぱってくれる。のぼりは楽なのだが、くだりになると、力強いラッキーの勢いを抑えるのに旦那以外は皆必死で、こども達と三人がかりで、隙をついて駆け出そうとするラッキーを取り囲むようにして歩いたこともあった。

 ラッキーは、後ろ足の蹴り足が最も力強く、首輪を自ら締めつけるように前進することだけが使命のごとく、ひたすらに走ることが好きだった。うっかりリードを握った手を離しでもすれば、どこまでも駆けて行き、夕飯時には嬉しそうに尻尾を激しく振り、垂らした舌で、はぁはぁと息をしながら帰ってくる。

 自分がしたことと、これから旦那に怒られることを全く予想もしていないというような無邪気さでラッキーは、飯をよこせとばかりにえさ入れの周りを行ったり来たりする。

 旦那は後ろ足の腿あたりを強く叩く。キャンと痛がるラッキーをさらに叩き、逃げ回っていたことがいけない事だと日本語で言い聞かせるが、また散歩中にこども達の隙を見て逃げ回り、同じようにその後旦那に叱られる、その見飽きることのない、犬と旦那のやりとりを昌江はラッキーに多少の同情を感じつつも、微笑まずにはおれなかった。怒られてしゅんとするラッキーの表情も可愛らしく、後で叩かれた太腿のあたりを優しくさすってあげようと思いながら、うなだれたままの尻尾を眺めていたこともあった。


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