8『残酷』
それからというもの、木代花はまるで別人に生まれ変わったとでも言うように成長していきました。目覚まし時計が鳴る前に起床し、素早く着替えを済ませます。ランドセルを持って一階に下り、洗顔とうがいをひと通り終え、その足でキッチンに向かいます。
トースターにパンを二枚セットして、フライパンで目玉焼きとベーコンを焼いていきます。その間に、木代花はお父さん用のコーヒーを淹れる準備を始めました。お湯を沸かしてコーヒーを淹れ終わる頃には、トースターはチンッという音を立てて完成を知らせてくれます。試行錯誤した末に見つけ出した、最高の順番です。これでお父さんが起きてくれば完璧なのですが、あいにく今日も起きてくる気配はありません。
朝食をダイニングテーブルに並べた木代花は、ボサボサの髪を揺らしながら階段を上りました。お父さんとお母さんの寝室は、木代花と同じ二階に位置しています。最近では、木代花が毎朝お母さんの代わりに起こしに行くのです。
「お父さん。ご飯できたよ」
ノックをした後、木代花は静かにドアを開けました。カーテンがピッタリ閉められた寝室は、夜のように真っ暗でした。入り口の壁と平行に設置されたダブルベッド。その窓側が控えめに盛り上がっています。
「持ってこようか?」
木代花はベッド上の山に向かって言いました。けれど、お父さんは物音ひとつ立てません。
「持ってくるね」
優しく声をかけ、木代花は下に下りました。お父さんの分の朝食をおぼんに乗せ、それを再び二階へ運びます。そして、ベッド脇にある小さな棚の上部にそっと置きました。
「今日もお母さんのところ行くの?」
静寂が広がります。
「行くんだったら、お母さんの着がえ持っていってほしいの。わたしだと夕方になっちゃうから。準備しておくから、持っていってね」
返答はありません。けれど、寝ているわけでもありません。お母さんが倒れた衝撃に、心も体も追いついていないのです。どうすればいいのか、お父さん自身も分からないでいました。
「わたし学校行ってくるね!」
木代花はそう言ってリビングに向かい、少し冷めたパンを齧りました。一人で食べる朝ごはんは寂しくて、それでも我慢して食べ進めます。静かな家の中で独りぼっちな気がして、目には涙が溜まっていきます。
「泣いちゃダメ!」
小さな声でそう呟き、手のひらで涙を拭いました。
「負けちゃダメ!!」
自分に言い聞かせるように言って、目玉焼きを頬張りました。木代花が弱くなってしまったら、お父さんはどうなるのでしょう。今よりももっと塞ぎ込んでしまうかもしれません。だから、木代花が強くなる以外に選択肢はありませんでした。
朝食を食べ終えた木代花はお皿を洗い、櫛で髪を梳かしました。お気に入りのツインテールはまだ自分ではできません。友達にそう言うと、手先の器用な楽々ちゃんが結ってくれるようになりました。
「いってきまーす!」
玄関で大きな声で叫び、木代花は学校に向かいました。道行く人に挨拶をして、今日もみんなに元気を配ります。時々心配してくれる人もいますが、その心配を跳ね除けるぐらい可愛く笑って見せます。そうすると、どの人も「偉いねぇ」と頭を撫でてくれるのです。木代花はそれが思ったより嫌ではありませんでした。
坂道をてくてく歩き、木代花は大通りにいるおじいさんの横に立ちました。相変わらず黄緑色の帽子を被り、手には旗を持っています。
「おはようございます」
「おはよう、木代花ちゃん」
笑い皺が特徴的なおじいさんは、毎日変わらない様子で挨拶をしてくれます。変化が大きい環境の中で、ここだけがいつまでも変わらないで存在し続けていました。
「今日の給食はなんだろうねぇ」
「今日はね、確かカレーだった気がする」
「おぉ! カレーは美味しいよねぇ」
「うん! わたしカレーが一番好き!」
そんな他愛無い会話が、ほんの少しだけ木代花の心を救います。
「お、青になったよ」
おじいさんが旗を前に出して渡るように促します。
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
木代花は元気よく手を振って、同じ小学生が歩いている道を進みました。
お母さんが倒れてから、世界は少しだけ変わりました。けれど、どの人もそれを感じさせないように気を使っています。それは、クラス内でも同様です。今までは普通だった家族の話題。気がつくと、その話題を口にする人はいなくなりました。代わりに芸能人の話で持ちきりになり、木代花は少しだけ芸能人に詳しくなりました。
「おはよう」
「あ、おはよう木代花ちゃん!」
教室のドアを開けると、真っ先に楽々ちゃんが向かってきます。
「座って!」
木代花は自分の席に座り、楽々ちゃんは櫛で木代花の髪を梳かし始めました。楽々ちゃんは丁寧に梳かしたあと、髪を二つに分けて結っていきます。木代花はこのとき、毎日のように思い出すのです。リビングで笑い合っていた、事が起こる前の日々を。
「でーきた!」
「楽々ちゃんありがとう!」
「どういたしまして!」
嬉しそうに笑う楽々ちゃんを見ていると、心がぽかぽかしてきました。朝の会が終わった後、木代花は高田先生に呼び出されました。
「話ってなんですか?」
二人は隣の空き教室に行き、木代花は椅子に付いた埃を払いながら問いました。
「最近お母さんの様子はどうだ?」
高田先生は少し小さい椅子に座りました。先生はガタイが良いので、椅子がとても小さく見えます。
「何も変わってないです。お母さんはずっとねてるし、お父さんは今日もつらそうです」
「お父さんは、仕事には?」
「今はお休み中だって、この前会社の人が教えてくれました」
「そうか」
先生の表情から感情を読み取ることはできませんでした。木代花を哀れんでいたのか、それとも心配していたのか。木代花にとって、そんなことはどうでもよかったのです。なぜこんなことを聞いてくるのか。そっちの方が何倍も気になります。けれど、その疑問を口にすることはできませんでした。心配してくれていることぐらい、毎日痛いほど伝わってくるのです。
「あまり無理はするなよ」
「………無理なんてしてないです」
木代花はいつもの笑顔で答えました。その笑顔の下で、もしかしたら無理してるのかもな、と思いました。しかし、それに気づいてしまったら何もかも終わってしまいます。ここで無理をしないで、一体いつすると言うのでしょう。木代花が頑張らなければ、秋風家は粉々に崩れ去ってしまうかもしれません。無理にでも平気なふりをしていないと、周りの人を心配させてしまいます。泣きたくて叫びたくて、どうしようもなくなったとしても、それを良しとしない自分がいたのです。
学校が終わり、木代花は猛スピードでランドセルに荷物を詰め込みました。そして、誰よりも早く学校を後にします。家とは反対方向に歩いていく木代花の視線は、不思議と上向きでした。見慣れない景色に目を輝かせ、おしゃれなカフェを食い入るように見つめます。けれど、そのお店で楽しめるほどのお金は持っていません。毎日ただ眺めているだけでした。
学校から歩いて一時間半ほどのところに位置した病院には、たくさんの人が訪れていました。エントランスに並べられた椅子に空きはなく、放送でひっきりなしに患者さんが呼ばれます。そんな人たちを他所に、木代花はエレベーターで三階に上りました。もう怖く感じることはありません。一人でもへっちゃらです。木代花は三階の廊下を進み、躊躇うことなく引き戸を開けました。そこには、いつぞやと同じ格好をした両親がいます。
「お母さん来たよー」
木代花はランドセルを背負ったまま、病室の中に足を踏み入れました。誰も反応してくれないけれど、もうそれには慣れました。ベッド脇に、木代花が用意したお母さんの着替えが置かれていました。やっぱりタヌキ寝入りだったのです。
「お母さん。今日ね、調理実習でカップケーキを作ったの。チョコチップのやつでね、意外と上手に出来たんだよ!」
ランドセルの中から取り出したカップケーキを、眠っているお母さんに見せました。お母さんは、こんなときでもぐっすりと寝ています。もし起きていたら、「美味しそうね!」と言ってくれたに違いありません。
「お母さんの分も作ったから、起きたら食べて!」
木代花はそのカップケーキを棚に置き、お父さんの顔を覗きこみました。
「お父さん、帰ろ」
木代花がそう言うと、お父さんはゆっくりと目を開けました。
「うん」
「よし。お母さん、明日も来るね!」
お母さんの手を握ってそう伝え、明るく元気に病室を後にします。お父さんも、まるで子ガモのように木代花の後をついて行きました。家までは市営バスで帰ります。さすがに距離がありすぎて、歩いて帰るとなると夜が更けてしまいそうだからです。バスの座席に並んで座った二人は、ガタガタと揺れるバスに身を委ねました。
「お父さん、夜は何食べたい?」
お父さんは俯いたまま黙っています。
「聞いてる? 夜ご飯は何がいい?」
お父さんが何も話したくないことは分かっています。けれど、無理矢理にでも言葉のキャッチボールはするべきなのです。じゃないと、いざと言うときに声が出なくなってしまいます。
「………………………………蕎麦、がいいかな」
「かけそばか、ざるそば。お父さんどっちが好き?」
「かけ蕎麦かな。お母さんもかけ蕎麦の方が好きみたいだよ」
「そっかぁ。私もかけそばの方が好きー!」
そんな木代花の様子を見たお父さんは、僅かに口角を上げました。木代花の必死な明るさが、お父さんの心をほんの少しだけ軽くした瞬間でした。
『木代花ちゃんへ
ついにぼくたちも最高学年になっちゃったね。六年生って言われると、もう学校終わっちゃうのかってさみしくなるね。ランドセル結構気に入ってたから、中学校でも使いたいんだけどなぁ。
遊園地に行ったって聞いて、ぼくは少しだけうらやましくなったよ!だってね、ぼくはもうずーっと遊園地に行けてないんだ。真央ちゃんが生まれてから、お父さんもお母さんも真央ちゃんのことばっかりで、全然ぼくと遊んでくれないんだ! だけどね、今なら分かるよ。
赤ちゃんってね、少し目をはなすと、予想もできないことをしちゃうんだ。おもちゃを食べちゃうし、赤ちゃんのベッドから落ちそうになるし。ぼくなんかよりもたくさん見ててあげないといけないの。だから文句を言うのはやめたんだ。
それから、無理していいお兄ちゃんでいるのもやめたよ。真央ちゃんを守ってあげたいっていう思いはあるの。でも、それは過保護って言うんだって。真央ちゃんのためにならないんだって。それを知ったら、木代花ちゃんの言うように傍にいてあげるだけでいいのかなって思えたんだよね。
ピンチのときは助けてあげて、そうじゃないときは傍にいる。これもいいお兄ちゃんって言えるよね。
この前、他の小学校のクラブチームと試合をしたんだけど、五点差で負けちゃった。ぼくも試合に出させてもらったんだけど、空ぶりばっかりで全然ダメだった。カッコよくホームランを打ちたかったんだけど、練習でできてないことが試合でできるわけないよね。
くやしくてくやしくて、チームメイトと一緒に泣いちゃった。だれが悪いわけでもないってコーチが言ってたけど、やっぱりぼくのせいだと思うんだ。だって、ぼくがボールを打ててたらきっと負けなかったはずだし、今ごろみんなで楽しく夜ご飯を食べてたと思う。
どうやったら打てるようになるんだろう。野球選手みたいになるにはどうしたらいいんだろう。たくさん練習するのはもちろんなんだけど、何かコツがあるんだろうなぁ。一度でいいから、野球選手に直接聞いてみたいな!
あ、それとね。負けてくやしかったから、空いた時間でお父さんとキャッチボールをすることにしたよ! ボールの投げ方とか速さとか、お父さんにたくさん教えてもらうんだ! そしたら、次の試合は勝てるかもしれないよね! 絶対勝って、今度こそ木代花ちゃんに報告するよ!』
元気そうな樹介の手紙に、木代花は密かに救われました。お母さんが倒れた現実を伝えないことで、五年間在り続けた日常はこれからも形を変えることはありません。離れていても繋がっている。そんな些細なものが、今では木代花を優しく包んでくれています。いい娘という存在と、秋風木代花という存在を、離れないように繋ぎ止めていました。
『木代花ちゃんへ
お誕生日おめでとう! 十二歳になって最初に思ったことは、「ぼくは大人になったなぁ」ってこと。漢字がいっぱい書けるようになったし、百点だってたくさん取れるようになったんだよ!
最近なんて、ゆうきくんが百点取れなかったテストで百点を取ったんだ! うれしくて、その日のうちにお母さんに伝えたの。そしたら「おめでとう!」って言って、大好きな回転ずしに連れて言ってくれた! こういうときしか行けないから、すっごくおいしく感じるよね。将来は回転ずし屋に住みたいなぁ。
ぼくの学校は七月に修学旅行に行ったよ! 栃木の日光ってところでね、他の学校の小学生もいっぱいいたよ! 日光の周りをグループに分かれて散策したあと、みんなで日光東照宮に行ったの。すごく大きくてキラキラしてて、「わぁぁぁ」って声が出ちゃった。門みたいなやつが大きくて、ずっと見てられるんだよ! 別の世界に行ったみたいで楽しかった!
そのあと、奥にある長い階段をみんなで登ったの。最初は話しながら楽しく登ったんだけど、だんだんつかれてきちゃった。登り終わるころにはみんなヘトヘトで、話す体力もなかったよ。なんかトレーニングみたいだった。木代花ちゃんは修学旅行いつ? どこ行くの? 気になるから、行ったら教えてね!
真央ちゃんは今年の一月で三歳になったよ! ぼくの名前も呼んでくれるようになって、いっしょに公園に遊びに行ったりするんだ! ゴム製のやわらかいボールでキャッチボールをしたり、広いしばふで追いかけっこをしたりするの。
笑顔でぼくの方に走ってくる真央ちゃんがかわいくて、ずっといっしょに遊んでいたくなるよ。木代花ちゃんの妹ちゃんってもう生まれた? お名前とか教えてほしいなぁ』
何も知らないということは時に残酷です。木代花は妹の名前以前に、顔すら知らないのです。そして、もう二度と会うことはできません。
手紙と一緒に同封された数枚の写真。日光東照宮をバックにクラスメイトと映る樹介の写真を見て、木代花は少しだけ羨ましくなりました。
「…………修学旅行なんて、行けるわけないよ」
木代花の学校は六月に修学旅行がありました。けれど、お父さんの傍を離れるのが躊躇われた木代花は、旅行に行くのをやめました。俺が傍にいるから行っておいで、と叔父さんは言ってくれましたが、木代花は微笑んで断りました。行きたい気持ちはもちろんありました。ですが、心のどこかでこうも思っていたのです。
二人には私しかいない、と。顔を上げれば、相変わらず眠り続けるお母さんと、生気を失ってうなだれるお父さんが目に入ります。木代花がどれだけ頑張っても、お母さんは目を覚ましません。元気であろうと努力しても、お父さんに笑顔が戻ることはありません。どんなに会いたいと願っても、妹が帰ってくることはありません。その重なった悲しみが、少しずつ木代花の心を押し潰していきました。
「お父さん」
「……………」
「お父さん」
「………………………」
「そろそろお仕事行ったら?」
「…………………………………」
「ねぇ、お父さん」
「辞めたよ、仕事」
「やめた?」
「うん、辞めた」