2『小学生とお別れ』
「きすけくんまってよ!」
「木代花ちゃんおそいよ、はやくはやく!」
澄み渡った青空の下、青い点滅を視界に捉えながら、二人は仲良く家路を急いでいました。二人はあっという間に六歳になり、今年の四月から近くの小学校に通っています。
木代花はオレンジ色のランドセルを左右に揺らしながら、信号が赤に変わるギリギリのところで横断歩道を渡り切りました。
「あぶなかった」
木代花は肩で息をしながら、独り言のように言いました。木代花の後ろでは車が勢いよく行きかっています。大通りに分類されるこの交差点は、この町で一番交通量が多いと言っても過言ではありません。
「むぎちゃのむ?」
樹介は首から下げていた青い水筒を木代花に差し出しました。
「ありがとう」
それを受け取った木代花は、蓋を開けてごくごくと麦茶を飲みました。だいぶ軽くなった水筒を樹介に返すと、樹介は再び水筒を首にかけ、木代花の手をぎゅっと握りました。木代花はその手を握り返し、ブンブンと前後に振りながら、一緒に自宅を目指しました。
二人の家は、大通りを抜けて坂道を上り、暫く歩いたところに位置しています。家周辺には木が生い茂り、家の裏側には山がそびえ立っています。自然豊かな、とても静かな場所です。そして、木代花と樹介の家は、思ったよりも近くにありました。木代花の家から三軒挟んだ四軒目。それが樹介の家です。
あまりの近さに、二人のお母さんは暫く信じることが出来ませんでした。出会うべくして出会ったのだと、偶然が必然になった瞬間でした。
家が近かったおかげで、二人は退院した後も会うことが出来ました。お互いの家を行き来して、家の裏にある山に遊びに出かけました。お母さん同士の仲が良かったので、次第に家族ぐるみの付き合いになっていったのです。それもあってか、二人は他の人よりもたくさんの愛を注いでもらいました。まるで兄妹のように、怒られ褒められ、仲良くすくすくと成長しました。
「今日はぼくのおうちこない? ケーキあるんだ!」
「いく!!」
木々に挟まれた穏やかな道を並んで歩きながら、二人の頭の中はケーキでいっぱいになりました。
「ただいまぁぁぁ!」
元気いっぱいに玄関の扉を開けて、木代花と樹介は帰宅しました。樹介は靴を玄関に脱ぎ散らかすと、緑色のランドセルを揺らしながら、二階にある自室にどたどたと足音を立てて消えていきました。木代花は「きすけくんはまだまだ子どもね」と思いながら、脱ぎ散らかされた靴を整えて、その横に自分の靴を並べました。
「おじゃましまーす」
と言いながら、自分の家と同じくらい慣れた廊下を歩きました。締め切った家の中は外よりも蒸し暑く、木代花は壁に取り付けられた冷房のスイッチを押しました。そして、ランドセルを背負ったままキッチンにある小さな台に上りました。
キッチンの蛇口を捻って手を洗い、コップを借りてうがいをしました。そうしている間に、ランドセルを部屋に置いてきた樹介が足音を立ててやってきます。
「ケーキね、れいぞうこの中にあるんだ」
木代花はそう言いながら冷蔵庫を開けようとする樹介を制し、手を洗うように促しました。
「あとであらうよ」
「ダメ。かえってきたら手あらいうがいはぜったいだって、おかあさんいってるもん」
「……わかったよ」
お母さんの言うことは絶対でした。樹介は渋々石鹸で手を洗い、コップに水を注いでうがいをしました。
「今日おかあさんは?」
「おばさんのところにいくっていってたよ。そろそろ赤ちゃんが生まれるんだって」
お父さんより二つ年上のお姉さんは昨年、長いこと交際していた幼馴染と結婚しました。お姉さんは結婚してすぐに第二子を身ごもり、出産予定日を明々後日に控えています。
「そうなんだー。たのしみだね!」
木代花は食器棚からお皿とフォークを取り出しながら言いました。赤ちゃんという言葉を聞くだけで、胸がわくわくしてしまいます。しかし、樹介は冷蔵庫を開けたまま、悲しそうに俯いていました。女の子か男の子か気になるなぁと思っていた木代花にとって、樹介の反応は少しだけ違和感でした。
「どうしたの?」
木代花は自分の身長よりも高いキッチン台にお皿とフォークを置き、樹介の顔を下から覗き込みました。樹介の口は堅く閉じられていて、目からは今にも涙が零れ落ちそうです。
「ねぇ、どうしたの? わたしなにかしちゃった?」
木代花には、樹介が泣きそうになっている理由が分かりませんでした。そのまま暫く待ってみても、樹介はうんともすんとも言いません。
どう接すればいいのか分からなくなった木代花は、冷蔵庫の中からケーキの箱を取り出しました。
「とりあえずケーキたべない?」
なおも黙ったままの樹介に、半ば押し付けるようにケーキの箱を渡し、木代花はお皿とフォークを持ちました。二人はそのままダイニングテーブルの椅子に並んで座り、ケーキの箱をそっと開けました。
「わぁぁぁ!」
中には、大きないちごの乗ったショートケーキと、たくさんのフルーツが乗ったタルトが入っていました。
「きすけくんはどっちがいい?」
木代花の左側に座った樹介は、膝の上でぎゅっと拳を握っていました。樹介がこういう態度を取る理由が少しだけ分かった木代花は、ふう、と息を吐いてこう言いました。
「さみしいならさみしいっていわないと、おかあさんは気づいてくれないよ」
樹介は、悔しそうに唇を強く噛みました。
「ち、出るよ?」
木代花は樹介の顔を覗き込んで、机の上にあったティッシュを一枚渡しました。樹介の目からは、次々と涙が零れ落ちていきます。その涙は、きつく握った拳に落ちて、手の甲を伝いズボンに浸み込んでいきました。
木代花は樹介の背中を優しく摩り、ケーキを選ばせてあげました。顔を上げた樹介は、涙に濡れた目でケーキを見て、大きないちごのショートケーキを選びました。木代花はショートケーキをお皿に乗せ、フォークと一緒に樹介の前に置きました。そして、二人で仲良くケーキを食べました。
木代花は樹介の口から気持ちを聞きたいと思いましたが、なんだか野暮な気もしてきました。お母さんを取られて悔しいとか、構ってもらえなくて寂しいとか、別に私に言う必要はないよな、と思いました。既に笑顔の戻った樹介を横目に見ながら、木代花は最後の一口を頬張りました。
お皿とフォークを綺麗に洗った二人は、録画してあったプリキュアを観始めました。キラキラの衣装に変身したプリキュアたちは、目の前の悪者をカッコよく倒してしまいます。悪者を倒すヒーローになりたいと、木代花は密かに憧れを抱きました。
「木代花ちゃんどれがすき?」
樹介は、エンディングで可愛く踊るプリキュアを指差しながら言いました。
「ピンクがすき!」
木代花は元気いっぱいに言いました。ピンクは女の子の象徴で、みんなの中心にいる人です。木代花にとって、他の誰よりもヒーローでした。
「ぼくは青がすき!」
「それはいろがすきってだけでしょ?」
「そうだよ?」
樹介にとって、プリキュアのカッコよさなんて二の次でした。青色が好きだから青の人が好き。純粋すぎるほど純粋でした。その流れで、今度は仮面ライダーを観ました。プリキュア特有の可愛さはありませんでしたが、こちらもヒーローに違いありません。怪獣のような悪者を倒す姿は、プリキュアにも劣らないのです。
「カッコいい!」
隣で樹介が言いました。
「ぼく、かめんライダーになりたい!」
樹介は目をキラキラさせながら、木代花を見て言いました。
「わたしもプリキュアになりたい!」
可愛い衣装に変身して悪者を倒すプリキュアと、カッコいいスーツに変身して悪者を倒す仮面ライダー。二人が目指すものは、いつだって一緒でした。
そんな二人を、突然悲しい出来事が襲いました。樹介の家族が引っ越すというのです。というのも、樹介のお父さんは東京にある本社に所属しています。地方支部の助っ人として、十年前にこの町にやってきました。お父さんはこの町に永住するつもりでいましたが、その思いを他所に、本社に戻るよう命が下されたのです。頑張って今まで転勤のお願い事を断っていたそうですが、今回ばかりはさすがに厳しかったようです。
そして来月には引っ越してしまうようで、それを伝えにやって来た樹介のお母さんは、とても申し訳なさそうな顔をしていました。
「来月なんて、そんな急に決まることってあるんですね」
「突然決まってしまって。夫も私も、ずっとこの町で暮らすつもりでいたんですけど……。前もって分かっていたら、もっと………ね」
木代花と樹介は自分のお母さんの横に座り、その話を静かに聞いていました。
「どちらに引っ越すんですか?」
「本社のある東京へ」
「東京ですか……。遠いですね」
木代花には、まだ東京がどんな場所か分かりませんでした。けれど、お母さんが遠いというのだからかなり遠いのでしょう。そして、東京に比べたら、きっとここは恐ろしく田舎なのです。栄えている町の中心部に行くための電車は一時間に一本ですし、最寄りの駅にいくためのバスは数時間に一本しかありません。住むには些か不便な町です。
木代花は、学校で習ったばかりの日本地図を頭の中に思い描きました。しかし、自分の住んでいる場所が分からないのだから意味がありません。木代花は頭の中からそっと日本地図を消しました。
「いやだ! ひっこしたくない!!」
引っ越してしまったら今までのように会えないと察した樹介は、自分のお母さんに向かってそう言いました。
「そんなこと言ったって、まだあんた一人じゃ生きていけないでしょ?」
「木代花ちゃんのいえにいる」
「そんなわけにはいかないのよ。お父さんの転勤が決まってしまったんだから、引っ越さないなんてできないの。お願いだから分かって?」
樹介のお母さんは、樹介を宥めるように優しく言いました。木代花は、「きすけくんといっしょにすむのもわるくないな」と思いました。けれど、それはきっとお父さんが嫌がるはずです。お父さんが自分のことを、まるで宝物みたいに大切にしてくれていると、木代花は既に知っていました。だから、喉まで出かかった言葉を静かに飲みこみました。
樹介は暫くごねた後、わぁぁぁぁっと大声を上げて泣き出しました。大粒の涙が頬を伝い、水色の服に青色の水玉模様が浮かび上がりました。
「ぼく、木代花ちゃんといっしょにいたい。ずっとずっと、いっしょがいい!」
鼻水を垂らしながら、再び樹介が言いました。二人のお母さんは困ったように顔を見合わせ、泣き止ませようと試行錯誤していました。木代花のお母さんは樹介の大好きなぶどうジュースをコップに注ぎ、樹介のお母さんは樹介がハマっている携帯ゲームの画面を見せました。それでも泣き止まない樹介を見て、木代花は椅子から降りました。そして樹介の横に立ってこう言いました。
「そんなんじゃ、かめんライダーになれないよ」
その言葉に、樹介の泣き声はピタッと止みました。
「かめんライダーになりたいんでしょ?」
「……なりたい」
「ならないてちゃダメ。かめんライダーはいつだって、わらっていなくちゃいけないんだよ」
木代花はお手本のようにニカッと笑いました。樹介は涙を手のひらで拭うと、木代花と同じようにニカッと笑いました。
「これでぼくはかめんライダーになれるかな?」
樹介の睫毛に付いた僅かな涙が、キラキラッと輝いたのが見えました。
「なれるんじゃない? わたしもプリキュアになるし」
「木代花プリキュアになりたかったの?」
「うん。わたしはかわいいふくをきてわるものをたおすの!」
「ぼくはカッコいいやつきてわるものをたおすんだ!」
二人揃って木代花のお母さんに言いました。自分の夢を語る二人の目には、確かな決意が現れていました。
「二人ならなんだって出来ちゃいそうね!」
木代花のお母さんは、少しだけ誇らしそうにそう言いました。
「これからの世界を生きる若人に、私からちょっとしたプレゼントよ」
木代花のお母さんは立ち上がり、冷蔵庫から大きな白いお皿を取り出しました。その上にはお皿に負けないほどの、丸くて大きなアップルパイが乗っています。
「あ! おかあさんのアップルパイだ!」
木代花は嬉しそうに飛び上がり、再び椅子に座りました。
「ひなたさんが作ったんですか!」
「そうなの。木代花が好きなやつだから、樹介くんも来るし丁度いいと思って」
木代花のお母さんはアップルパイを机の上に置き、人数分のお皿とフォークを持ってきました。
「おいしそう!」
樹介は椅子の上に立ち、食い入るようにアップルパイを眺めました。その様子を見た樹介のお母さんは「行儀が悪い!」と怒ります。いつもならそれでしゅんとしてしまう樹介でしたが、今日だけは生き生きとしていました。まるで怒られた事実ごと無かったことにしてしまったようです。木代花のお母さんはアップルパイを切り分けて、可愛い花柄のお皿に乗せていきます。
正三角形に切られたアップルパイの断面には、分厚くスライスされたりんごが見えています。お店の物に引けを取らないその出来に、それを見た全員が喉を鳴らしました。
「いただきまーす!」
一番最初に大きな声で挨拶をしたのは木代花でした。
「いただきます!」
それに続いて、樹介も挨拶をしました。木代花はフォークでアップルパイを一口大に切ってから、大きな口を開けてパクッと頬張りました。カスタードとりんごの甘さが口の中で混ざり合い、それをパイ生地が上手にまとめていきます。ほっぺたが落ちそうになったので、木代花は慌てて頬に両手を当てました。これで頬が無くなる心配はありません。
「どう? 美味しい?」
木代花のお母さんが言いました。
「おいしい! おかあさんのアップルパイはせかいいちね!」
「嬉しいこと言ってくれるわねぇ」
お母さんは本当に嬉しそうに、木代花の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわしました。まるで照れ隠しみたいです。
「ちょっと、かみのけぐちゃぐちゃになっちゃう!」
そう言いながらお母さんの手からなんとか逃れた木代花は、もぐもぐしている樹介の顔を覗き込むように見ました。
「おいしい?」
「うん! すごくおいしい!」
「よかった!!」
自分が褒められたみたいに嬉しくなった木代花は、天使のように柔らかく笑いました。その笑顔を見た樹介は、「しょうらい木代花ちゃんをおよめさんにもらうんだ!」と密かに決意しました。
一カ月後。時が経つのは早いもので、樹介が引っ越す日がやってきました。木代花と木代花の両親が、会いづらくなる樹介にお別れを言いに家を訪ねました。
「もう荷物は先に送ってしまって。後はあっちに行くだけなんです」
樹介のお父さんが言いました。
家の中は驚くほどスッキリしていて、木代花の胸の中に寂しさがふつふつと沸き上がっていきます。
「このお家は売りに出されるんですか?」
木代花のお父さんが言いました。
「いいえ。実はこの家、借家なんです。いつか自分の家を建てたいとは思っているんですけどね」
ハハッと笑いながら、樹介のお父さんが言いました。樹介はやっぱり顔を赤くして、目にはたくさんの涙を浮かべています。けれど、この前のように泣きじゃくったりはしません。泣いてしまったら、今度こそヒーローにはなれないからです。
「きすけくん、わたしないたりしないよ」
「うん、ぼくだってないたりしない」
「さみしくてしかたないけど、ずっとあえなくなるわけじゃないし」
「うん」
二人の声は、その言葉に反して涙声になっていきます。家族のように育った二人にとって、この別れは死んでしまうよりも辛いことでした。その様子を見ていたお母さんたちは、二人に秘伝の技を伝えました。
「手紙って知ってる?」
それは、離れていても会話ができる不思議なアイテムでした。
「てがみ?」
「そう。会えない間は文通をしたらいいのよ」
「そうね、それが良いわ!」
「「ぶんつう?」」
知らない言葉に、二人は困惑して顔を見合わせました。あいにく、まだその言葉は小学校では習っていませんでした。ついでに、手紙というアイテムも。
「紙に楽しかったことや頑張ったことなんかを書いて送り合うの。そうすれば寂しくないでしょう?」
手紙と文通の正体を知った二人は、「さみしくないかもしれない!」と思いました。
「わたし、てがみかく!」
「ぼくもかく!」
二人は声高々に両親に宣言しました。そのとき、電線に留まっていたヒヨドリが一羽、灼熱の太陽に向かって羽ばたいていきました。
ここから、約九年間にも渡る長い長い文通が始まりました。