18『英雄』
木代花は靴に足を突っ込んで、勢いよく家を飛び出しました。通学路とは反対方向に駆けていき、バス停を勢いよく通り過ぎました。目の前に現れた二股の分かれ道を左側に進み、坂道を一気に駆け下りました。道路の片側には無数の車が停まっていて、赤いテールランプが行くべき道を照らしていました。崖側に面した、歩道と呼ぶには細過ぎる道を、木代花は全力で走りました。
一歩踏み外せば崖の下に落ちてしまうでしょう。落ちたら最後、命の保証はありません。けれど、そんな心配をしている余裕はありません。少しでも早く、事故のあった橋に向かわなければなりません。嫌な予感は嘘だったと、自分に証明しなければなりません。そうしなければ、木代花の心は潰れてしまいます。二人で思い描いた未来は、そう簡単に失くしていいものではありません。だから、自らの手で繋ぎとめておかなければいけないのです。木代花は全力で走りました。
細い道を走って、走って、走って。人生で一番早く走りました。歩道にはみ出た木の枝が、木代花の頬を何度も掠めていきました。目に当たりそうなものを避けたとき、目の下の皮膚がさっと切れ、じんわりと血が滲みました。それでも、木代花は足を止めませんでした。大切な人が居なくなってしまう痛さに比べれば、こんなのは掠り傷にも入りません。
荒い呼吸をしながら、木代花は目の前に伸びる道に沿って足を前に出し続けました。そんなとき、前方に停車していた車の助手席のドアが開き、木代花はぶつかる直前で勢いよく止まります。
「すみません!」
出てきた女性に謝って、木代花は中央線の方へ抜けました。歩道よりこちらの方が幅があります。それに、おそらく橋は通行止めになっているのでしょう。抜け道のない一本道では、一台たりとも動く気配を見せることはありませんでした。
がらんとした一車線は、今だけは木代花のために開けられています。こんな姿を見たら、お父さんはきっと怒るでしょう。お母さんは「危ないでしょ!」と心配するでしょう。後で怒られる覚悟はできています。だから、今だけは許してほしいのです。この瞬間だけは見逃してほしいのです。
坂道を猛スピードで駆け下りていく木代花を、車に乗車している人々が見守っていました。木代花は涙で顔が濡れるのも、髪が肌に張り付くのもお構いなしで走り続けました。坂の中腹まで来たとき、木代花は足がもつれて盛大に転びました。受け身を取ることができず、顔から地面に落ちました。勢いがついていたために、その状態で地面を僅かに進みました。
木代花は荒い息のままよろよろと立ち上がり、再び足を前に進めました。膝や腕、おでこや頬を擦りむいて、血がじんわりと滲んでいます。鼻をぶつけた衝撃で鼻血が垂れ、それを乱暴に右手で拭いました。
服は黒く汚れ、靴紐の結び目が外れかかっています。それでも、木代花は足を止めませんでした。泣きそうなのを堪え、痛みなんて無かったことにします。どれだけボロボロになろうとも、誰かを失うよりは遥かにマシでした。もう二度と、あんな思いはしたくありません。
そんな木代花の心を表すように、突然霧雨が降ってきました。雨が葉に当たるサーっという音が車の排気音と合わさって、辺り一帯を包み込みました。けれど、木代花の耳には自分の呼吸音しか聞こえません。周りがどうなろうとも、気にする余裕は持ち合わせていませんでした。
霧雨を浴びた木代花の髪はぐっしょりと濡れ、服が肌に密着します。それでもやっぱり走り続け、目の前に一際明るい赤色が見えました。木代花はその勢いを維持したまま、赤色に向かって駆けました。橋の周辺には、警察や消防、救急隊の人が集まり、懸命な救助活動が行われていました。橋の手前には規制線が貼られ、それ以上近づくことはできません。駆け寄った木代花の体は警察官によって制され、安全な場所で見ていることしかできませんでした。
どうか、樹介くんが乗っていませんように。
ただそう願うしかありません。けれど、その願いは一瞬で打ち砕かれました。救急隊が運ぶストレッチャーの上に、全身ずぶ濡れの樹介が横たわっていたのです。全身をしっかりと固定され、頭とスボンには血が滲んでいます。車のヘッドライトや救急車内の明かりによって、樹介の全身はキラキラと光って見えました。それは不気味なほどに輝き、木代花の瞳には絶望の象徴として映りました。
「うそ…………………樹介くん。樹介くん!!」
どれだけ叫ぼうとも、目の前で運ばれる樹介が返事をすることはありません。優しく「木代花ちゃん」と名前を呼んでもくれません。木代花は堪えきれなくなり、樹介の名前を叫びながら泣き崩れました。
救急車に乗せられ姿が見えなくなった樹介との距離は、宇宙よりも遠くに感じました。
数時間後。病院で樹介の死亡が確認されました。
東京で行われたお葬式。制服を身に纏った木代花は、親族の席に座らせてもらうことができました。目を真っ赤に腫らした木代花は、生気の抜けた状態で椅子に座っています。お坊さんが唱える暗号のような言葉は少しも耳に入らず、樹介が入っている真っ白な箱をじっと見つめていました。
花に囲まれた遺影には、無邪気に笑う樹介が映っています。それを見る度に、枯れたはずの涙が湧きだしたかのように溢れ出しました。神様は、木代花からお母さんだけではなく、樹介をも奪っていきました。どれだけ奪ったら気が済むのだろう。木代花は静かに神様を恨みました。
これが運命だと言うのなら、木代花は生きていたくないと思いました。きっとこれからも、神様は木代花から大切な人を奪っていくのです。その度に、引き裂かれるような思いをしなければなりません。
これが何度も繰り返されるのなら、木代花にはもう耐えきれませんでした。
木代花の前方には、樹介の大切な真央ちゃんが座っています。真っ黒なワンピースに身を包んだ真央ちゃんは、胸の前で小さな犬のぬいぐるみをしっかりと抱いていました。木代花と同じく目を腫らした真央ちゃんは、今も静かに泣いています。こんな形で会いたくなかったな、と木代花は思いました。写真のように周囲を明るくする笑顔を、樹介とともに見たかったのです。二人の思い出が詰まった川で、仲良く遊びたかったのです。悲しみに暮れる真央ちゃんに会いたいなんて、少しも望んではいませんでした。
「木代花ちゃん」
呼ばれた方を見ると、少しやつれた樹介のお母さんがいました。いつの間にか式は終わり、周囲に座っていた親族はいなくなっています。木代花は返事をせず、樹介のお母さんの顔をじっと見つめました。
「実はね。あの子の持ってた鞄の中にこれが入っていたの」
そう言って渡された黒い箱。その蓋を開けると、中には小さな花のモチーフが付けられた、可愛らしいネックレスが入っていました。
「これ………」
「多分誕生日にあげようとしてたんじゃないかな」
木代花はそのネックレスをよく見ようと目を凝らしました。しかし、涙の膜が瞳を覆い、ハッキリ見ることはできませんでした。樹介はこのネックレスをどんな思いで買ったのでしょう。木代花と同じように、反応を想像しながら買ったのでしょうか。いくら考えようとも、その答えを知る人はもう存在していません。木代花は箱を抱いたまま、声を殺して泣きました。
自室の机の上には、黒い紙袋と黒い箱が並んで置かれていました。樹介のお葬式から数日が経ち、木代花はかつてのお父さんのように、部屋に閉じこもるようになりました。カーテンをしっかりと閉めた部屋は昼間でも暗く、入り口の扉には鍵がかけられています。木代花を心配して部屋を訪ねるお父さんの声を無視し続け、部屋の外に置かれたご飯にも一切手を付けません。もはや生きているかどうかすら分からない状況でした。
しかし時折、すすり泣くような声が聞こえ、そのたびにお父さんは安堵します。お父さんも少し前までは同じ状態だったので、木代花の気持ちが痛いほど分かりました。今はただ、静かに一緒にいてあげようと思っています。
テレビでは連日、バス転落事故のニュースが流れています。運転手を含めた七人全員が死亡した悲惨な事故。この事故が起こった原因は運転手の居眠り運転とされ、事前に防ぐことはできなかったのかと批判が殺到しています。どれだけの批判が飛び交おうとも、亡くなった人が戻ってくることも、遺族の心が癒えることもありません。起こってしまったことは、無かったことにはできないのです。
「木代花、ちょっと病院行ってくるね」
お父さんはドアの前でそう告げて、階段を下りていきました。ドア越しに聞こえたお父さんの声は、かつての木代花のようでした。自分がしっかりしなくては、という責任感を背負ったような声です。木代花はお父さんを心配させている自分に腹が立って、自分の足を数回殴りました。その後に、虚しさと悔しさと後悔に襲われ、布団を頭から被りました。
木代花が駅で待っていたら、樹介は死なずに生きていたかもしれません。誕生日が一日だけ後ろにずれていたら、事故に巻き込まれることはなかったかもしれません。起こった過去を変えようと願い、心が擦り切れるほど努力しようとも、無情にも過去が変わることは一生ありません。木代花はこの事実を受け入れて、何十年と生きなければならないのです。十六歳が背負うには、些か大き過ぎる宿命でした。
木代花は今日も布団に包まって、静かに一日をやり過ごそうとしていました。そんなとき、インターホンが来客を告げました。いつものように居留守を使おうと思い、木代花は布団を深く被ります。インターホンは、木代花を呼ぶように数回鳴り、その後に続いて「警察でーす」と言う声が聞こえました。警察が家に来る理由は少しも分かりませんでしたが、木代花はその言葉に引き寄せられるように布団を脱ぎました。
自室の鍵を開け、数日ぶりの階段をゆっくりと下りました。そして玄関の鍵をそっと開け、少しだけ開けた隙間から外を窺いました。
「突然すみません」
黒いスーツ姿の二人の男性は、そんな木代花の姿に臆することなく言いました。制服を着ていない警察官は、どこをどう見てもサラリーマンにしか見えませんでした。
「五年前の事件についてお伝えしようと思い、急ではありますが伺わせていただきました」
「五年前……」
その言葉だけで、木代花にはお母さんのことだと分かりました。風化しつつあった事件について、今更何を伝えると言うのでしょう。
「実は、あの事件の犯人が判明しました」
一人の警察官が言いました。
「先日、山の中に自転車が埋まっているという通報がありまして。掘り起こすと、カゴの中にマタニティマークのキーホルダーが入っていたんです」
「え」
「そこには小さな字で「ひなた」と書かれておりました」
五年間全く進展がなかった大事件。それがこのタイミングで進展するなんて、誰かが図りでもしない限りあり得ません。どうしてこのタイミングだったのでしょう。
「その自転車の防犯登録を確認すると、先のバス転落事故を起こした運転手だということが分かりました。周囲に自転車を処分したと言っていた時期から考えても、犯人であることは間違いないと思われます」
あぁそうか。だから今だったんだ。木代花は不思議と冷静に思いました。犯人が死んだから、こんなタイミングで自転車が見つかったのです。どれだけ探しても見つからなかったものが、神隠しが解けたみたいに現れたのです。
「運転手は、明日にでもこの事件で追送致されると思います」
「そう、ですか」
もっと早く見つかっていれば、樹介が亡くなることはなかったんじゃないか。何でもっと早く見つけてくれなかったんだ。思うことは山ほどあります。けれど、警察の人たちが一生懸命探していたことを、木代花は身を持って知っています。毎日毎日探し続け、それでもやっぱり見つからなかったのです。そのたびに、申し訳なさそうな顔をした警官が謝りに来ていました。
『本当にごめんなさい』
『今日も見つかりませんでした』
『明日は捜索範囲を広げて探してみます』
深々とお辞儀をして、毎日のように謝る警官。こんなに全力で探してくれている人がいる。それだけで、心が少し救われていました。だから。だから、目の前の警察官に当たることは間違っています。そう、分かっているのに……。
木代花は自分の気持ちをどこへぶつければいいか分からなくなりました。お母さんを轢いた犯人は死んでしまいました。死んでしまったから、暴言を吐くことはできません。殴ることだってできません。ただ拳を強く握り、悔しさに耐えるしかありません。
「い、今まで、ありがとう、ございました」
木代花は二人の警察官にお礼を言い、深く頭を下げました。言いながら複雑な感情が胸を占め、ぼろぼろと涙が零れました。この人たちが動いてくれていたから、事件は無事に解決したのです。後味は悪くとも、木代花の戦いに終止符が打たれました。
* * * * *
半年後。木代花は自室の勉強机に向かい、暗闇の中で電話をかけました。呼び出し音が数回鳴った後、『この電話は』という声が聞こえます。もう二度と繋がることのない電話番号。木代花が会いたいと望む人は、世界から消えたまま帰ってくることはありません。木代花は机に備えつけられた小さなライトを灯し、机の横にかかっていた習字セットを取り出しました。そして、机に新聞紙と黒いフェルトの下敷きを敷き、机が汚れないように配慮しました。
木代花は下敷きの上に白い半紙を置き、ズレないように文鎮で上部を押さえました。続けて硯に市販の墨を入れ、慣れた手つきで筆に浸み込ませていきます。大半の人が眠りについた午前三時。窓の外からは虫の声しか聞こえず、木代花の心は不思議なほど穏やかでした。
木代花は硯の縁で筆に付いた余計な墨を落とし、丁寧な手付きで半紙に文字を書きました。書きながら、木代花はお祭りの日を思い出しました。あの日、展望台で語った将来の夢。光り輝く星空の下で、樹介は自衛隊員になりたいと言い、木代花は医者になりたいと言いました。
世界には言霊という言葉が存在していますが、言霊なんて迷信だ、と木代花は思います。発した言葉に魂が宿るのなら、樹介の夢は叶ったはずなのです。志半ばで絶たれることはなかったはずなのです。だから、そんな言い伝えは少しも信用なりません。秋風家に伝わる秘密のおまじないも、本当は効果なんて無いのでしょう。無いものを有ると思い込んでいただけなのです。
木代花は二つの漢字を書き終え、その出来を確かめるように立ち上がりました。お世辞にも上手とは言えない黒い文字は、夢を抱いた二人が目指していたものです。けれど、既にその言葉に力はありません。半身を失くした木代花にとって、それは何の意味もなさない言葉に変わってしまいました。
書いた文字を暫く眺めた木代花は、持っていた筆を机に置きました。そして、机の上に飾られた二つのプレゼントをじっと見つめ、二階の窓から飛び降りました。
机の端には水の入ったコップが置かれ、その中に一本の枝が刺さっています。その枝の先端付近についた、とても小さな数個の蕾。それは、これから来るであろう春に向かって、着々と準備を始めていました。




