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16『逃げてきたこと』

「木代花」


 お父さんはお茶を飲み終えると、空になったコップを両手で持ちながら、再び木代花の名前を呼びました。とても申し訳なさそうに呼ばれたので、お父さんの言わんとしていることが不思議と分かりました。

木代花は自室から小さな鍵を持ってくると、テレビの横にある白いサイドチェストへと向かいました。そして、慣れたように上から二番目の引き出しを開け、そこから透明なボックスを取り出します。透明なボックスには数種類の薬が入っていて、開け口には南京錠がしっかりと取り付けられていました。この箱は、木代花にしか開けることができません。

 木代花は南京錠に鍵を挿して開錠し、中から二種類の薬を取り出しました。お父さんは今でも、うつ病に効く基本的な薬は飲み続けています。けれど、当初から飲んでいた睡眠導入剤や抗不安薬は、担当医から「大丈夫であれば飲まなくてもいいですよ」と言われています。日を追うごとに少しずつ症状は改善され、ここ数ヶ月はその薬無しで生活していました。 しかし、今日はそうもいかないようです。木代花は取り出した薬をお父さんに渡し、空のコップを濯いで水を注ぎました。


「はい」


「ありがとう」


 お父さんは薬を水で流し込み、そのままキッチンでコップを洗いました。そして、力なく廊下に向かって歩きました。


「先に寝るね」


「うん。おやすみ」


 木代花は優しい声で言いました。時間は午後九時半を少し過ぎた頃で、今日も早い就寝です。ですがきっと、今日は寝付きが悪いことでしょう。いくら薬を飲んでいるとはいえ、暫くは耳に祖父母の声が残るはずです。



「お父さん、大丈夫って言ってたけど大丈夫じゃないよね」


 樹介はお父さんが歩いて行った廊下を見ながら言いました。


「うん。心配かけたくないんだろうね。多分数日は部屋にこもると思うよ」


 木代花は言いながら、数日で済めばいいな、と思いました。お父さんのいないリビングは、一人で使うには広すぎるのです。木代花は椅子に座り、欠けたままのアップルパイを眺めました。アップルパイは室内のライトに照らされて、表面がツヤツヤと輝いています。木代花は側に置いていたパン切りナイフを手に取り、二切れ目を切り取りました。


「僕も食べていい?」


 木代花の向かいの椅子に座った樹介が言いました。


「床に落ちたやつだよ?」


「うん。僕もお腹すいちゃってさぁ」


 樹介は僅かに笑いました。その笑顔からは、少しも嫌な感じがしません。むしろ安心するような………。そう、寒い日のカイロのような心地よさでした。木代花は自分の分と樹介の分を切り分けました。そして二人は大皿から一切れずつ手にし、そのまま口の中に運びました。シャキシャキとしたリンゴの食感とカスタードクリームの程よい甘さが合わさって、やっぱり懐かしい気持ちになりました。

 あの日。樹介が引っ越す前に家に来た日。その日も今日のように向かい合い、仲良くアップルパイを食べました。その二人の横には、お互いの大切な人が座っていました。あの日々はもう、どれだけ願っても帰ってくることはありません。


「美味しいね。味もあの頃と同じだ」


 樹介は誰よりも美味しそうに、口いっぱいに頬張りました。


「うん。本当に美味しい」


 もう大丈夫だと思っていたのに、木代花の目からはぽろぽろと涙が溢れました。平気なふりをしていても、心は今でも悲しみに暮れています。普段は目を伏せているけれど、この家にはお母さんのいた痕跡がずっと残っていました。

 寝室には一人にしては大きいダブルベッドがありますし、クローゼットの中にはたくさんの衣服が残っています。下駄箱には数年間動かされていない靴やサンダルが数足あり、冷蔵庫に取り付けられたホワイトボードには、妹の出産予定日がお母さんの字で記されていました。引き出しを開ければ二冊目の母子手帳が目に入り、物置部屋にはたくさんの経口補水液と乳児用オムツが未開封のまましまわれています。

 それらを見るたびに、木代花は意識的に視界から消し去って生活していました。そうしなければ生きていけなかったからです。未だにお母さんの死を受け入れられていないのは、お父さんではなく木代花の方でした。


「美味しいなぁ」


 樹介の声が聞こえました。その声はどこか震えていました。木代花は下がっていた視線を上げ、目の前にいる樹介の顔を見ました。樹介は口いっぱいにアップルパイを頬張り、目には涙を浮かべていました。室内の明かりが瞳に反射して、キラキラと輝いています。その顔を見てしまった木代花の涙腺は崩壊し、滝のような涙が頬を伝いました。

 どれだけ泣いたって、心に空いた穴は埋まりません。きっとこれからも埋まることはないでしょう。その穴を埋めたいと思うのは欲深でしょうか。たとえ地上に満たなくとも、奥底の数センチは埋めたいと望むことは多欲なのでしょうか。それぐらいいいだろう、と木代花は思います。寂しさも苦しさも胸の奥に押し込んで、今日まで頑張ってきたのです。これしきのことでバチが当たるはずありません。きっと、今の木代花に考える隙が全くなかったら、樹介にこう伝えていたでしょう。


寂しさを埋めてほしい、と。


 しかし、あいにく木代花にはまだ理性が働いていました。それを言うのは今ではないと、曲がりなりにも自覚していました。木代花は手の甲で涙を乱暴に拭うと、自慢するように言いました。


「私のお父さんが作ったんだよ? 美味しいなんて当たり前じゃん!」


「そうだね! 僕も負けてられないなぁ」


 樹介の細められた目の端に、涙が煌めくのが見えました。


「いくら樹介くんでも、お父さんには勝てないよ!」


「勝つさ。いつか絶対に!」



 二人は大きなアップルパイを平らげ、そのまま暫く話していました。幼馴染のこと、高校生活のこと、東京のこと。話題は尽きることを知らず、延々と話すことができました。けれど、あるとき話すことに疲れた二人は、ソファに座ってテレビを観始めました。部屋の電気を消したおかげで、簡易版の映画館にいるようでした。テレビから放たれる明かりが、暗闇に二人のシルエットをくっきりと浮かび上がらせます。何が面白いのか分からない深夜番組を眺めながら、木代花は樹介の肩に頭を乗せました。


「眠い?」


「ううん。ただ、恋人っぽいことしようと思って」


「肩に頭乗せるのって恋人っぽいことなの?」


「分かんない。でもドラマでよく見ない?」


「見るかなぁ。電車に乗ってるときはよく見るけど」


「それはなんか違うやつだね」


「うん。あれは多分知り合い同士でもないよ」


「知らない人に頭乗せられて嫌じゃないのかな?」


「さぁ。僕されたことないから」


「これからもされないように気をつけてね」


「なんで? 嫉妬しちゃうから?」


 樹介は揶揄うように木代花の顔を覗き込みました。そんな樹介に木代花はすかさずキスをして、「悪い?」と素直に聞き返します。樹介が知らない人に触れられることを考えると、自分でも驚くほどヤキモチを焼いてしまうことに気付いてしまいました。なんなら今すぐ檻に閉じ込めて、木代花しか触れないようにしたいのです。


「木代花ちゃん可愛すぎ」


 樹介は木代花のことを抱きしめて、これでもかと幸せを噛み締めました。それに応えるように、木代花も樹介の背中に腕を回します。心地良い体温が二人の間で混ざり合い、もう二度と離れたくないと思いました。


「今すぐ結婚しない?」


「私たちまだできないよ」


「そうだけどさ……。木代花ちゃんともっと一緒にいたい」


「そんなの私も同じだよ。東京に帰ってほしくない」


 二人は一層強く抱き合って、お互いの存在を確かめるように軽いキスを交わしました。そして目を瞑り、お互いのおでこをピタッとくっ付けました。


「あと二年か」


「やっぱり二年は長いよ。恐ろしいほど長い。何かが変わるのには十分すぎる時間だよ」


「僕は変わらないよ」


「私だって変わらない」


「神に誓ったっていい」


「神様なんていないよ」


「いるよ。きっとどこかに」


 二人はテレビをぼーっと観続けている間に寝てしまい、気づくと数時間が経過していました。真夏の早朝五時はすっかり明るくなり、あちこちでたくさんの鳥が鳴いています。木代花はあくびをしながら伸びをして、横で寝ていた樹介のことをそっと見つめました。見惚れてしまうほどの穏やかな寝顔に、愛おしさが溢れ出しました。


「そんなに見つめられたら照れちゃうなぁ」


 樹介は薄く目を開けて静かにそう言いました。


「起きてたんだ」


「ついさっきね」


 樹介も木代花と同じように伸びをして、窓の外の景色を窺うように眺めました。


「そろそろ帰ろっかな」


 そう言って立ち上がった樹介は、椅子の下に置いていた黒いサコッシュを手に取りました。


「駅まで送ってく!」


 木代花はセットしてもらった髪を整えながら言いました。本当は駅になんか行きたくありません。あの事件以来、ずっと駅を避け続けて生きてきました。正直言って、まだあの場所は怖いのです。ですが、バスが来るにはまだ早い時間で、歩いて帰るには樹介の祖母の家は遠過ぎます。この時間に帰るなら、六時の始発で帰るしかありません。二人は玄関で靴を履き、お父さんを起こさないように静かに家を後にしました。

 下駄で靴擦れを起こしていた木代花は、浴衣姿には似合わない運動靴を履きました。こんな早朝に会う人なんて高が知れているので、運動靴でも問題ありません。二人はそのまま通学路の道を進みました。小学校一年生の僅かな期間、二人はこの道を一緒に歩いて通学していました。今はもう、ランドセルも黄色い帽子も被ってはいませんが、気持ちは遥か昔の子ども時代に戻っていました。


 あの頃と同じように手を繋ぎ、少しも変わっていない下り坂を小走りで駆け下りました。二人は既に大人なので、走って転んだりはしませんでした。大通りの横断歩道にいつもいるおじいさんは、さすがにこの時間はまだいません。黄緑色の帽子を見ないで渡るこの道は、少しだけ物足りなさを感じました。早朝特有の閑散とした町を、二人は静かに歩きました。人々が活動をし始めるまでにはもう少しだけ猶予があります。それまでは、ここは二人だけの世界です。

 二人は小学校を通り過ぎ、二つ目の信号で左側に伸びる道に進みました。一直線に伸びる道の先に、目的の駅があります。木代花はふーっと息を吐いて心を落ち着けました。そして樹介の手をぎゅっと握りしめました。避けていたものを克服するには、今この瞬間しかありません。急に手を握られた樹介は僅かに驚いて、何も言わずに握り返しました。確実に大きくなっていく駅の姿に、木代花は尻込みをしそうになりました。

 恐怖は次第に木代花の心を圧迫し、足を後ろに下げようとしてきます。けれど、樹介と繋いだ手がそれを許しません。今まで散々逃げてきたのです。そろそろ向き合わなければなりません。


「無理してない?」


 木代花の気持ちを和らげるように、樹介はそっと言いました。


「大丈夫。私なら平気」


 言葉とは裏腹に、その表情は強張っています。樹介は木代花の方を向き、片手で軽く頬をつまみました。


「いひゃい」


 木代花は樹介の顔を見てそう言います。


「誰かを殺しに行く、みたいな顔してたよ」


「そんな顔してた?」


「してた。少なくとも、彼氏を見送る人の顔じゃないよ」


 そう言われ、木代花は自分の内に秘めた感情に気付きました。おそらくその感情は、同年代は誰一人として持っていないものでしょう。木代花は自分の頬を手のひらでぐるぐると回し、いつも通りの柔らかさに戻していきます。そしてニカッと笑い、「こんな感じ?」と樹介に言いました。


「うん、いい感じ!」


 樹介は繋いだ手をブンブン振り回しながら、目前に迫った駅に向かって歩みを進めました。駅には昇ってきた太陽の光が降り注ぎ、眩しいほどに輝いていました。二人は電車が来るまでの数分間、バス停に設置されたベンチに座り、夜の会話の続きをしました。そうしているうちに始発が到着し、樹介は駅構内に入って行きます。姿が見えなくなる直前、樹介は大きな声で木代花に言いました。


「僕明日までこっちにいるから! それと、誕生日には外出届出して帰ってくる!!」


 樹介は腕全体を大きく振りながら、再会の日を予告しました。こうやって会える日を伝えることは、樹介なりの優しさです。


「分かった!」


 誕生日まで約一カ月。長いようですが、一カ月なんてあっという間です。木代花は樹介の乗った電車の姿が見えなくなるまで、線路沿いに立っていました。そして、太陽に熱された頭上が熱くなり、逃げるように帰宅しました。

 帰宅してすぐ、固定電話に不在着信が来ていることに気がつきました。その電話番号を見て、木代花は慌てたようにかけ直します。何度も何度も謝って、幸いにも厳重注意に留めてもらうことができました。



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