15『いつかのアップルパイ』
「楽しかったぁ」
街灯が照らす人気のない道を、二人は手を繋いで歩きました。お祭り終わりの満足感が胸いっぱいに広がり、同時に今日という日が終わってしまう寂しさを覚えました。
「ちょっと寄り道していかない?」
少しでも長く樹介と一緒にいたかった木代花は、静かにそう提案しました。樹介も同じ気持ちだったようで、木代花の提案に二つ返事で乗りました。二人は来た道を戻り、神社を横目にさらに先へと進みました。暫く歩くとだんだん木々が少なくなり、突然目の前に夜空が現れました。開けたそこは行き止まりになっており、町全体を見渡せる展望台になっています。
「綺麗!」
樹介は木製の柵に近づきながら、灯りの灯る町を見下ろしました。信号の色や車のヘッドライト、民家の明かりなどがあちこちに存在し、町という一つの世界を形作っていました。
「綺麗でしょ? 夜は滅多に人来ないんだぁ」
木代花は柵の前で立ち止まった樹介の横に並んで立ちました。
「よく来るの?」
「たまにね。こうやって夜景を眺めてると、なんだか心が洗われていくような気がして」
「確かに。なんか落ち着く感じがする」
二人はそれ以上何も言わず、ただ手をしっかりと握って夜景を眺めました。今日は雲ひとつない快晴で、無数の星々が二人のことを優しく見守っています。その星の中には、きっとお母さんもいるはずです。亡くなった日からずっと、木代花たちのことを心配し、ときに手を差し伸べてくれているはずです。木代花はそう信じています。
「木代花ちゃん」
樹介が夜景を見ながら言いました。
「何度も言うけど、僕は木代花ちゃんのことが好き」
「私も、樹介くんのことが好き」
「これからもずっと一緒にいたいと思ってる」
「私だって、ずっと樹介くんと一緒にいたい」
「僕は、木代花ちゃんと結婚したい」
「うん………………!?」
木代花はその言葉に驚いて、樹介の方を勢いよく振り返りました。そして、自分の耳を疑いました。流れで頷いてしまったけれど、樹介は今「結婚したい」と言いました。それ以外の言葉には、どうしても聞こえませんでした。樹介と自分が結婚する。そう考えただけで、木代花は飛び上がりそうなほど嬉しくなりました。
「十八歳になったら、僕と結婚してください」
樹介は木代花の方に向き直り、真剣な面持ちで言いました。結婚するということがどういうことなのか、木代花には正直よく分かりません。義務や責任がどれほど生じるのか、想像すらできません。漠然としたイメージしか、今の二人は持ち合わせていません。しかし、結婚すればいつでも一緒にいることができるのは確かです。離れ離れになる心配も、別れ際の寂しさを覚える必要もなくなります。何より、お互い傍にいてほしいときに居ることができるのです。話を聞いてほしいときに、わざわざ電話をかけなくて済むのです。それ以前に、宇宙一好きな人と結婚できたら、木代花は泣くほど嬉しいのです。
「私でいいの?」
木代花は最後の確認をしました。
「木代花ちゃんがいいの。僕は、今目の前にいる木代花ちゃんがいい!」
その言葉に、木代花の目には涙が溜まっていきました。木代花がいいなんて、生まれて初めて言われたのです。樹介にはもう、木代花じゃなければダメなのです。そう思うと、少しだけ重い気がしました。
けれど、その重さは心地の良い重さでした。
木代花は返事をする代わりに、精一杯背伸びをしました。樹介の首に腕を回し、唇にそっと口付けをします。誓いのキスさながらの、長い口付けを交わしました。突然の事態に硬直した樹介の姿にふふっと笑い、その魔法を解くために再度唇を重ねます。そうして何度かキスをするうちに、樹介の目線は再び木代花を捉えました。
「今、キス……」
「誓いのキスだよ!」
木代花は追い討ちをかけるように、軽くキスを贈りました。樹介は木代花の顔をじっと見つめたあと、クシャッとした顔で笑い、木代花を強く抱きしめました。そして、そのままぐるぐると回り始めました。木代花は遠心力のせいで足が地面から離れ、宙に浮きました。
「あはははは、回りすぎだよ!」
「だって嬉しすぎるんだもん! 木代花ちゃんと付き合えただけじゃなく、結婚なんて。それにキス!! 僕初めてだったのによく覚えてないよ!」
「私の初めてちゃんと覚えといてよ!!」
「急だったから無理だよ! 事前に言ってくれないと」
「今からキスしまーす、なんて言えるわけないじゃん!」
二人は嬉しさのあまり大きな声で話しました。静かな夜の町に、楽しげな笑い声がこだましています。
「今年で十六だから、あと二年かぁ」
「二年なんて、これまでの時間に比べたらあっという間だよ」
「そうだね。そしたら私は涼野木代花?」
「秋風樹介かもしれないよ?」
「なんか違和感だね」
「すぐに慣れるよ」
「そうだね!」
二人はお互いの顔を見つめ、どちらからともなくふふっと笑いました。
真夏の夜は少しばかりじめっとしていて、おまけに風もピタッと止んでいました。ただただ静かな夜が、二人を優しく包み込んでいます。
「樹介くんって将来の夢あるの?」
木代花は夜景を眺めながら言いました。
「僕はね、自衛隊員になりたいんだ!」
「自衛隊員?」
「そう! 日本中の人を守る、最高にカッコいい仕事なんだよね。木代花ちゃんは?」
「私は医者になりたい。どんな人でも治せちゃうぐらい、優秀な医者」
手遅れだと診断された人や、植物状態になってしまった人。そんな人たちを救えるような医者になりたいと、最近強く思うようになりました。木代花がこう思うようになったのは、やっぱりお母さんの影響が大きいのです。
「木代花ちゃんも誰かを助ける仕事だね」
「多分、私たちにはそれが合ってるんだと思う!」
「そうだね。仮面ライダーとプリキュアだもんね!」
「うん! 私たちはこれからも誰かのヒーローを目指すんだよ!」
どれだけ成長しても、二人の目指すものは同じでした。
「そろそろ帰ろっか」
「うん、お父さん心配しちゃうもんね」
二人はお互いに見合ってから、再び人気のない道へと歩き始めました。暗がりの中には、手首につけた二色のブレスレットが輝いています。
「っ……!」
木代花は足に痛みを感じ、その場で歩みを止めました。
「どうしたの?」
「なんか足が痛くて」
木代花はしゃがんで右足の下駄を脱ぎました。すると、指の間が鼻緒で擦れ、靴擦れを起こしていました。
「やっちゃった……」
木代花はへらっと笑いながら樹介を見上げました。指の間が痛くとも、ここから裸足で帰るわけにはいきません。道には至るところに石や木の枝が落ちています。木代花は我慢して下駄を履き直し、何事も無かったかのように歩き出しました。
「木代花ちゃん」
樹介は繋いでいた手を引いて木代花の歩みを止め、その前にしゃがみました。
「乗って!」
「私なら大丈夫だよ」
木代花はそれを証明するように、その場で数回飛び跳ねました。気丈に振る舞っていても、着地するたびにズキッとした痛みが走ります。それを見抜いた樹介は、木代花に早く乗るように催促しました。
「でも……」
歩けないほどの痛みではないなと思った木代花は、樹介の背中に乗ることを渋りました。そもそも、おぶってほしくて足を確認したわけではありません。
「木代花ちゃん、彼氏にはいつだって甘えて良いんだよ」
木代花がなぜ渋っているのか、樹介には少しだけ分かりました。何年もの間、木代花は誰にも頼らず一人で家庭を守ってきたのです。樹介が親に甘えていたときも、木代花は逆に父親を支えていました。今の木代花は、甘え方を完全に忘れてしまっているのです。
「僕は甘えてほしいなぁ」
「……………じゃ、じゃあ」
観念した木代花は、樹介の背中に慎重に乗りました。樹介は木代花が乗ったことを確認し、ゆっくりと立ち上がります。背中越しに別の体温を感じ、耳元では「わ!」と驚いた声が聞こえました。あまりにも近くで聞こえたので、胸の奥がビクッと震えました。
「重いでしょ?」
不安そうな声が聞こえます。
「全然。むしろ軽すぎてビックリしてる。ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ? え、私そんなに軽い?」
木代花は後ろから樹介の顔を覗き込もうとしました。呼吸音が聞こえるほど接近され、樹介の耳は真っ赤に染まります。
「軽い軽い! 真央ちゃんと同じくらい軽いよ!」
「それは嘘じゃん!」
テシテシと木代花は樹介の頭を叩きました。逃れることが出来なかった樹介は、その可愛い攻撃を甘んじて受け入れました。僕の彼女は可愛いなぁ、なんて思いながら、その幸せを噛み締めてゆっくりと足を進めました。
自宅の玄関前で下ろされた木代花は、樹介にお礼のキスを贈りました。
「送ってくれてありがとう!」
「こちらこそ、一緒に過ごせて楽しかった!」
未だにキスになれない樹介は、頬を染めながら言いました。二人はお互いの存在を確かめるように抱き合って、名残り惜しげに別れました。樹介は表の道に出て、木代花が無事に帰宅するのを見届けようと思いました。木代花はそんな樹介に向かって手を振り、開錠したドアを開けました。するとそこには、見覚えのない靴が二足現れました。その靴は、丁寧にこちらを向いて揃えられています。暗い廊下にはリビングの光が薄らと漏れていて、奥から聞き覚えのある声が耳に伝わってきました。
最悪な状況だと察した木代花の心臓は、ドキドキと変に鼓動を早めていきました。木代花は慌てたように下駄を脱ぎ捨て、転びそうになるのも構わず一直線にリビングに向かいました。指の間の痛みなんて、少しも感じませんでした。それ以上に、目の前で起こっているであろう出来事が脳内を占めていました。
リビングの扉を開ける直前、女性の怒鳴り声が聞こえました。木代花が体当たりするような形で扉を開けると、目の前の光景に絶句しました。一番最初に目に入ったのは、尻もちをついて床に座るお父さんの姿でした。その姿に続いて、目の前に立ちはだかる父方の祖父母の後ろ姿が見えました。
「あんたはいつになったら働くの!? 娘にいつまでも働かせて、父親として恥ずかしいとは思わないの!?」
「お前の親として、本当に情けないぞ」
お父さんを罵る声に、木代花の中の何かがプツンと切れる音が聞こえました。木代花は無言でリビングに足を踏み入れ、お父さんと祖父母の間に立ちました。
「あら、帰ってたの」
祖母が別人のように言いました。けれど、今の木代花は元気に「ただいま〜」なんて言うことはしません。大切な人を傷つけられて、黙っていられるわけがありませんでした。
「何してるの?」
木代花は目の前にいる二人を睨みつけながら、人生で一番冷たい声で言いました。その声に祖父母が凍りつくのを感じた木代花は、再度同じ質問をします。
「何してるのって聞いてるんだけど」
「何って……お父さんに会いに来たのよ」
「会いに来ただけじゃないでしょう?」
木代花の脳内は、煮えたぎる油のように熱くなっていました。
「いつ働くか聞きに来たんだ」
祖母の後ろにいた祖父が、状況を説明するかのように言いました。
「そうよ。いつまでも娘である貴女に頼りきっていては、父親として失格でしょう?」
さも当たり前とでも言うように、祖母はぎこちない笑顔を浮かべました。木代花はその笑顔に不快感を覚え、苦虫を噛んだような顔をしました。
「二人はお父さんの何を知ってるって言うの?」
「え?」
「お母さんが倒れて、どれだけお父さんがショックを受けたか知ってるの?」
「そんなの知ってるわよ」
「じゃあなんで? なんで今までお父さんのところに来なかったの!? 自分の子どもが大変なときに、傍にいてあげようとしなかったの!?」
木代花は祖父母のことを許すことができませんでした。母方の祖父母はお父さんのことを心配し、毎日のように様子を伺いにやって来ていました。自分の子どもが大変な状況でも、旦那であるお父さんのケアを欠かすことはありませんでした。そんな中、実の親である祖父母は電話すらよこしませんでした。当時はそれが祖父母なりの優しさなんだと、そう思っていました。ですが、久しぶりに顔を出したかと思えば、お父さんを心配するどころか責め立てていました。それが親のすることか。木代花は拳を握りながら密かにそう思いました。
「私たちにも生活があるのよ!」
祖母は耐えかねたのか、大声でそう言い放ちました。
「親だからって、いつまでも息子に構ってはいられないのよ!」
「だったら来ないでよ!!」
大切な人を守るために、木代花は自ら壁になりました。絶対に引き下がったりはしません。
「お父さんは頑張ってるの。お母さんのことを受け入れて、必死に立ち上がろうとしてるの。お父さんの親だって言うんだったら、まずはその努力を認めてあげるべきでしょう?」
祖母が何か言おうと息を吸ったのを見て、冷静な祖父は祖母の肩をぽんぽんと軽く叩きました。そして、一人の親として木代花に言いました。
「確かに、翔太の努力は賞賛に値する。よく頑張っていると思う。しかし、いくらショックを受けたからと言って、未成年の娘に働かせること自体、父親のすることではない」
「何も知らないのに知った気になって喋んないでよ」
「これでも木代花のことを心配しているんだ。友達と遊ばずにバイトばかりして、今しかできないことが一つも出来ていない。青春時代なんてあっという間だ。それなのに、もう二度と戻ってはこないんだぞ」
祖父が木代花のことを思って言っているということは、その言葉から痛いほど伝わってきます。それと同時に、木代花の置かれた状況を不幸だと思っていることも感じ取れました。確かに、同級生の会話内容を聞いて、羨ましいと思った回数は数え切れません。流行りのファッションをしてみたいと、何度も何度も思いました。それでも、木代花は自分でこの道を選択しました。辞めようと思えばいつだって辞められます。けれどそうしなかった。お母さんの代わりにお父さんを支えようと、いつからかそう思うようになったからです。
それに、木代花は少しも不幸なんかじゃありませんでした。新聞配達のバイトでは、一緒に働くおじさん方に良くしてもらっています。ご飯屋のバイトだって、店主と奥さんは優しいですし、お客さんだって良い人ばかりです。なにより、木代花はこのバイトが楽しくて仕方ありませんでした。大変なことはありますが、たくさんの人と話せるのは木代花にとって最高の娯楽なのです。
「私のためを思うんだったら、もう二度とここには来ないで。正直言って迷惑だよ」
木代花は少しだけ柔らかい声で言いました。おそらく今回のことで、お父さんの症状は著しく悪化するでしょう。減少傾向にあった通院回数も増加してしまう可能性が高くなります。今日のように樹介とどこかへ出かけることも、心配が先立ってしばらくできそうにありません。お父さんの病状が悪化することで、木代花の青春時代は着々と減っていきます。どうしてそのことに気づかないのだろうと、木代花は心の中で思いました。
「そんな言い方ないでしょ!」
癇癪を起こしたかのように、祖母は木代花の言葉につっかかりました。今にも木代花のことを殴りそうな勢いです。誰かのためを思ってしたことがかえって悪い方へ向いているなんて、祖母は微塵も思っていません。今日こうしてやって来たことも、一〇〇パーセントの善意なのです。そんな祖母のことを宥めながら、祖父は一言こう言いました。
「二人ともすまんかったな」
そう言う祖父は、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべていました。謝って全てが解決するなんて、木代花には到底思えません。それだけでは解決しないから、世の中に警察という職業が存在しています。けれど、これはそんな「世の中」の話ではありません。田舎の端に存在している、普通の家族の話なのです。許される許されない以前の、もっと根底にあるものの話なのです。
「帰るよ」
祖父は優しく祖母に言いました。けれど、祖母はそれに反して木代花に向き直り、右手で木代花の頬を勢いよく打ちました。祖母の人差し指には、銀色の指輪がはめられています。それが運悪く頬骨に当たり、木代花はあまりの痛さに頬を押さえて屈みました。
「何やってるんだ!」
今まで冷静だった祖父は、祖母の横暴に思わず声を荒げました。
「孫だからって調子に乗るんじゃないよ!」
再び腕を振り上げた祖母を制したのは、祖父ではなく木代花が愛してやまない樹介でした。祖母の右手を掴んだ樹介は、そのままゆっくりと腕を下ろしました。
「あんた誰よ!」
家中に響き渡るほどの声で祖母が言いました。
「木代花ちゃんの恋人です。……あ、婚約者か」
「は?」
祖母は不審な人を見るような目で樹介のことを睨みました。木代花は婚約者という言葉に驚いて、パッと顔を上げました。そこで樹介と視線がぶつかり、気恥ずかしくなってお互いに顔を逸らしました。呆気に取られた祖母を見て「今がチャンスだ」と思った祖父は、祖母と一緒にリビングから退場して行きました。ガチャンとドアが閉まる音がして、ようやくこの家に平穏が訪れたことを実感しました。もうこの家には、木代花と樹介とお父さんしかいません。
「お父さん大丈夫?」
木代花は、お父さんの側に倒れていた椅子を起こしながら言いました。お父さんは尻もちをついてはいるものの、怪我をしている様子はありませんでした。
「大丈夫大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
お父さんはそう言いながら立ち上がろうとしますが、腰が抜けているのか上手く立ち上がることができません。木代花と樹介は協力してお父さんを抱き上げ、隣にあった椅子に座らせました。
「ありがとう」
お父さんは平気そうに笑ってみせますが、無理をしていることは明らかでした。膝の上で握った拳が僅かに震えていて、精神的ダメージは計り知れません。少しでも安心させてあげようと、木代花は得意のお茶を入れてあげることにしました。得意と言っても、ティーバッグにお湯を注ぐだけの簡単なものです。
「あ、そっち危ないよ」
木代花がキッチンの方へ行こうとすると、お父さんが咄嗟に忠告しました。キッチンの床には、割れた白いお皿と丸い焼き菓子が落ちています。
「裸足はさすがにまずいか」
木代花は玄関にあるスリッパを履き、再びキッチンに戻ってきました。その間に、樹介は焼き菓子を別のお皿に乗せ、破片を新聞紙の上にまとめました。そして、バラけないようにそっと包みました。
「ありがとう!」
「あとは掃除機かけた方がいいかもね。場所教えて?」
「えっとね、階段下の扉の中に入ってる」
「りょーかい!」
「お願いしまーす!」
樹介は掃除機を取りに行き、木代花はやかんでお湯を沸かし始めました。二人のやりとりに、お父さんは少しだけ安心しました。婚約者という言葉を聞いたとき、正直驚いて、結婚には早過ぎないか? と思いました。けれど今の二人の様子を見て、結婚後の生活が一瞬で想像できてしまったのです。
きっといい家庭を築くのだろうと、不思議と確信できたのです。お父さんが抱いた不安なんて、とっくの昔に解決されていたことでしょう。
木代花はコップにティーバッグをセットし、その上から沸騰したお湯を注ぎました。無色透明だったはずのお湯が、みるみるうちに緑色に変化していきます。その横で、掃除機を見つけた樹介は電気プラグをコンセントに挿し込みました。ブオーっという掃除機の音がリビングに響き、ものの数秒で止みました。
「はい、お父さん」
木代花は出来上がったお茶をダイニングテーブルに運びました。
「ありがとう。樹介くんも、本当にありがとう」
「いえいえ」
樹介はコードをしまった掃除機を抱えながら、ふっと笑みを溢しました。
「お父さん、これってアップルパイ?」
人数分のお茶をテーブルに運んだ木代花は、お皿に乗った丸い焼き菓子を持ちながら言いました。
「うん。部屋を片付けてたらレシピの書かれたノートを見つけてね。試しに作ってみたんだ」
「そうなんだ」
アップルパイという言葉に、木代花は手の中のものをじっと見つめました。見た目はお母さんが作ってくれたアップルパイそのものです。木代花は持っていたお皿をテーブルの上に置き、キッチンにあったパン切りナイフで三角形に切り取りました。断面からは厚くスライスされたリンゴと、多めに敷かれたカスタードクリームが見えました。正真正銘、これは大好きなお母さんが作る、最高に美味しいアップルパイです。
「床に落ちて汚いから捨てて。それに、お皿の細かい破片が付いてるかもしれない」
木代花は切り分けた一切れの裏面を注意深く観察しました。けれど、それらしいものはひとつも見受けられません。
「大丈夫そうだよ?」
「でも、万が一ってことがあるかも知れないし」
「んー」
木代花は少しだけ考えました。お父さんの言うことも一理あると思ったからです。見えないほど小さなガラス片が人体にどれだけ影響を及ぼすか、専門知識のない木代花には分かりません。正直、見えないんだから問題ないと思っていますが、心配そうに見つめるお父さんを見ると、動かそうとした手が止まってしまいます。それでもやっぱり、木代花にはこのアップルパイを捨てることができませんでした。
お父さんが時間をかけて丁寧に作り上げた、世界一美味しいお菓子なのです。想いの詰まったものを捨てられるほど、木代花は非情ではありません。それに今、木代花は小腹が空いてきたところなのです。
「私食べる! お父さんが作ってくれたものだし、お腹空いてきちゃったから」
木代花は立ったまま、手に持っていた一切れを一口食べました。口いっぱいに懐かしい味が広がって、じわっと涙が込み上げてきました。涙の溜まった瞳を見られたくなくて、木代花はそっと俯きました。俯いたことで、涙がひとつ、足の甲に落ちていきました。
「木代花ちゃん?」
隣に立っていた樹介はそう言って、静かに木代花の背中を摩りました。木代花は噛み締めるように咀嚼して、涙に濡れた瞳をお父さんの方へ向けました。
「木代花……」
「これ、すっごく美味しいよ!」
木代花はそう言って、持っていた残りのアップルパイを勢いよく平らげました。




