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1『生まれた場所』

「僕は木代花ちゃんのことが好き」


 カーテンを閉め切った部屋の中で一人、木代花はその言葉を幾度となく思い出しました。部屋の中には、カーテンの隙間から漏れた陽光が差し込んでいます。


「十八歳になったら、僕と結婚してください」


 瞼を閉じれば、真剣にそう言った樹介の表情が現れます。展望台で交わした誓いのキスも、抱きしめられたときの温もりも、全て肌に残っています。それはもう、鮮明に。二人はあの日、将来の約束をしました。けれど、神様はどんなときも邪魔をします。まるで「幸せになるな」とでも言うように。


「…………寂しさを埋めてよ」


 かつて口にしなかった言葉を今、静かな部屋に放ちました。けれど、それに返答するものは誰ひとりとしていません。


「ヒーローになるんじゃないの……?」


 幼い頃に目指したヒーローという職業。二人はいつだって、その夢に向かって歩き続けていました。


 これは真っ直ぐ生きた、かけがえのない二人のヒーローの物語。






 ある晴れた日の午後のことです。とある病院で、ふたつの産声が上がりました。大きな声で泣く可愛らしい男の子と、その子よりも元気いっぱいに泣く女の子でした。その声は、まるで声の大きさを競っているかのように、廊下のその先まで響き渡っていました。病気の「び」の字もない二人の赤ちゃんは、暫くして母親のお乳をこれでもかと飲み始めました。


「そんなに急いで飲まなくてもいいのに。誰も取ったりしないわよ」


 男の子のお母さんは言いました。


「そんなにお腹空いてたの?」


 女の子のお母さんは笑いながら言いました。二人の赤ちゃんは、お母さんのお乳が尽きるまで飲み続け、お腹がいっぱいになるとそのまま寝てしまいました。わが子の寝顔を見た二人のお母さんは、その可愛さに思わず口角が上がりました。

 人差し指を小さな手にそっと添えると、指を優しく包んでくれました。感動のあまり泣きそうになった二人のお母さんは、ゆっくりと窓の外に視線を移しました。


 窓の外には、薄っすらと色付いた葉が風によってゆらゆらと揺れていました。その木の枝から、数匹のキクイタダキが羽ばたいていきます。小さくて可愛らしいキクイタダキを見た二人のお母さんは、なんだか祝福されているような気分になりました。

 雲から顔を出した太陽は、その光を地上に降り注ぎ始めました。キラキラと輝く光を受けた葉に目を細めながら、二人のお母さんは静かな部屋でそっと我が子の頭を撫でました。

 誰もいない綺麗な個室には、赤ちゃんとお母さんの二人だけでした。生まれて間もない赤ちゃんを見ていると、「この子を守らなければ」という責任感が溢れてきます。二人の女性は、ついにお母さんになりました。




 次の日。今日は朝から曇り空で、これから雨が降り出しそうな天気でした。男の子のお母さんは体調が優れず、ベッドの上で横になっていました。

 午後になり、男の子のお母さんの病室に来客がありました。男の子のお父さんと、お父さんのお姉さんが二人。そして、お母さんの弟が一人やってきました。どの人も男の子を見ると目を細め、優しい手つきで頭を撫で、頬を軽くつつきました。寝ていた男の子はつつかれたことに驚いたのか、大きな声で泣き始めました。それに慌てたお父さんとは裏腹に、お姉さんたちは男の子をあやし始めました。


「驚かせてごめんねぇ」


 お父さんより五つ年上のお姉さんが、そう言いながら男の子を抱き上げました。このお姉さんには、六歳の男の子と五歳になる女の子がいます。今日は平日なので、それぞれ小学校と保育園で過ごしています。


「お腹が空いたのかい!?」


 泣き止まない我が子を見て、お父さんが慌てたように言いました。お父さんはお姉さんの顔を見て、続けてお母さんの顔を見ました。お母さんは眉をしかめたまま目を瞑り、お父さんの言葉を完全にスルーしました。お姉さんたちは静かにため息をつき、少しだけ呆れたような目でお父さんのことを見ました。


「私たちが来る少し前にミルクをあげたって、看護師さんから聞いたわ。あなたも聞いていたじゃない。だから違うと思うよ」


 五つ年上のお姉さんが言いました。


「空腹で泣くことはもちろんあるけど、いつだって理由があるわけじゃないの。寂しかったり、構ってほしかったり。そんな理由で泣くこともあるのよ」


 お父さんより二つ年上のお姉さんが優しい声音で言いました。このお姉さんには、二歳になる女の子がいます。この女の子が生まれて半年経った頃、お姉さんは考え方の食い違いから旦那さんとの離婚を決意しました。

 多少のいざこざはあったものの、数日後には無事に離婚することができています。その後幼馴染の男性と再会し、結婚を前提にお付き合いを始めました。今日はその彼氏さんが、家で女の子の子守を引き受けてくれたようです。


「そうなのか……。育児って難しいな」


 お父さんは興味深そうに言いました。男の子はお姉さんの腕の中で揺られるうちに、泣くのをやめて寝てしまいました。お姉さんは男の子をコットと呼ばれる新生児ベッドにそっと寝かし、飲み物を買うために病室を後にしました。二つ上のお姉さんも、五つ上のお姉さんに続いて病室を後にします。


「お姉ちゃん、何か欲しいものある?」


 お母さんより三つ年下の弟が言いました。


「特にないかな」


「してほしいこととかは?」


「………少しだけ背中摩ってもらってもいい?」


 お母さんはそう言うと、ゆっくり右側を向きました。弟はお母さんの背中をゆっくりと摩り、時折「大丈夫?」と声をかけました。病室に立っていることしか出来なくなったお父さんは、そっと窓の外を眺めました。朝よりも分厚くなった灰色の雲からは、今にも雨が落ちてきそうです。

 病室の引き戸を開けて戻って来たお姉さんたちの手には、小さなパックのジュースが数本ありました。


「これ、飲めそうなときに飲ませてあげて」


 そう言ってベッド横にある備え付けの棚に置いたのは、一〇〇パーセントのりんごジュースとオレンジジュースでした。頼まれた弟は小さな声でお礼を言い、そっとお母さんの様子を見ました。変わらず辛そうなのを見て、弟は後にしようと決めました。

 五つ上のお姉さんは、お母さんの弟にリンゴジュースを。お父さんにはオレンジジュースを渡しました。そして、すよすよと眠る赤ちゃんを眺めながら、四人は静かにジュースを飲み干しました。





 一方その頃。女の子のお母さんは、三八度を超える高熱にうなされていました。起き上がることも、ご飯を食べることもままならず、点滴から栄養を得ていました。精密検査を終えて病室に戻ってきたのはお昼ごろで、丁度備え付けのテーブルにお昼ご飯が運ばれてきたところでした。

 朝よりは心なしか体調の良くなったお母さんは、お椀の蓋をそっと開けてみました。そこには、優しい味付けのお粥がよそられていました。お母さんはベッドに座り、スプーンでお粥を少し掬って口に運びました。相変わらず食欲はないものの、なぜだか食べれる事実に驚きました。

 おぼんの上には他にも料理が乗せられています。お吸い物にほうれん草の煮浸し、サンマの塩焼き、だし巻き卵。どれもお母さんが食べられそうなものばかりが、綺麗なお皿に盛り付けられていました。


「朝も思ったけど、なんか豪華だよね……」


 お母さんは、もう少し質素な病院食を想像していました。けれど、入院初日に出てきたのは、まるで旅館のようなご馳走でした。今日食べることが出来なかった朝ごはんも、イタリアンレストランのモーニングを想見させます。


「他の人のお昼ご飯ってどんな感じなんだろう」


 目の前でいい香りを漂わせる昼食ももちろん美味しそうですが、これはお母さんのために作られた特別メニューでした。他の人を羨むお母さんでしたが、いくら豪華でも食べられなければ意味がありません。お母さんは病院の配慮に感謝しながら、お吸い物を一口飲みました。






 昼食を完食したお母さんは、再びベッドで横になりました。


「あの子は今どうしてるかな」


 お母さんは今日、まだ女の子に会えていませんでした。会いたいと思う一方で、体調が優れずそれどころではありません。看護師さんも気を利かせて、女の子を病室に連れてくることはありませんでした。今もなお、新生児室で過ごしている我が子に想いを馳せながら、お母さんは眠りにつきました。

 次に目が覚めたとき、目の前にはお母さんの両親と、出張中だったお父さんがいました。


「帰ってきたの?」


「急いで終わらせてきたんだ!」


 満面の笑みを湛えながら、お父さんが言いました。


「よく頑張ったなぁ。お疲れ様!」


 お母さんのお父さんが言いました。


「本当にねぇ。それにしても、赤ちゃん可愛いわね」


 お母さんのお母さんが言いました。


「会ってきたの?」


「あなたが起きる前に少しね。あ、リンゴジュース飲む?」


 そう言って差し出されたパックのリンゴジュースを、お母さんはそっと受け取りました。そしてストローを刺して少しずつ口に含みながら、灰色に染まった空を眺めました。窓の外では、大粒の雫が地面や屋根に打ち付けられていました。その音は、この世の音を全て吸い込んでいくようでした。


「台風来るって、さっきのニュースで言ってたよ」


 お父さんは自宅から持ってきたお母さんの着替えを片付けながら、そんなことを言いました。


「台風かぁ」


 止む気配のない大雨の音を聞きながら、お母さんはりんごジュースで喉を潤しました。





 午後五時になり、お母さんたちの病室に看護師さんが一人ずつやってきました。それぞれの部屋に居た親族は、ほんの数十分前に名残惜しそうに帰っていきました。そのため、病室にはお母さん一人でした。

 男の子のお母さんの体調は少しだけ良くなり、パックのオレンジジュースを飲んでいたところでした。女の子のお母さんは、ベッドに横になったまま育児動画を観ていました。


「「体調はどうですか?」」


 それぞれの看護師さんが言いました。


「だいぶ良くなりました」


 男の子のお母さんが言いました。ジュッ、とパックに僅かに残ったオレンジジュースをストローで吸い上げて、お母さんは空になったパックを丁寧に潰しました。


「朝よりは楽になりました」


 女の子のお母さんは動画を止めて、少し怠さの残る体を起こしながら言いました。


「「よかったです」」


 二人の看護師さんは言いました。それから、お母さんたちの血圧と体温を測り、思い出したかのようにあることを口にしました。



「「そういえば、同じ日の同じ時間に生まれた赤ちゃんがいるんですよ~」」



「へぇ」


 軽く腕を締め付けられながら、男の子のお母さんが言いました。


「そうなんですか」


 ピピピという体温計の音を聞きながら、女の子のお母さんが言いました。日付だけでなく時間まで同じだったもう一人の赤ちゃん。二人のお母さんは、なんだかその子に会いたくなってきました。


「「その赤ちゃんに会うことってできますか?」」


 看護師さんは数値を用紙に記入すると、笑いながらこう言いました。


「「今から行きますか?」」






 元気になったとは言えない体で歩くのはまだ難しく、お母さんたちは車いすに座りました。

看護師さんに押されながら、二人のお母さんは新生児室の前までやってきました。廊下に面したガラス張りの窓からは、すやすや眠る数人の赤ちゃんを見ることが出来ます。


「「この子ですよ」」


 看護師さんが言いました。男の子のお母さんは、目の前に居る赤ちゃんを見つめました。ピンク色の服を身に纏い、小さな手を握ったまま、顔を右側に向けて目を閉じています。

女の子のお母さんも、目の前に居る赤ちゃんを見つめました。水色の服を身に纏い、くりくりとした瞳を左側に向けています。

 その様子に吸い寄せられるように、男の子のお母さんは右側を、女の子のお母さんは左側を向きました。二人のお母さんの視線がぶつかり、そのまま数秒が過ぎていきました。どちらのお母さんも、なんだか初めて会った気がしなかったのです。けれど、どこで会ったか記憶を辿っても、それらしい人は現れません。

それもそのはず。この二人は、今日初めて会ったのです。初対面なのです。それなのに、まるで旧友にでも会ったかのような懐かしさが、胸のあたりに広がっていきました。


「あの……お名前を伺っても?」


 女の子のお母さんが言いました。


「涼野陽子です。あなたは?」


「秋風ひなたです」


 これが、女の子と男の子が出会うきっかけになりました。






 翌日。体調の良かった陽子お母さんは、ひなたお母さんの病室に向かいました。前日の雨が嘘のように、空はカラッと晴れています。引き戸を開けて病室に入ると、ひなたお母さんは静かに窓の外を眺めていました。


「おはようございます」


 その横顔にそっと声をかけると、ひなたお母さんは振り返り、嬉しそうに笑って言いました。


「おはようございます! よく寝れました?」


「なんだか今日が楽しみで、あまり眠れませんでした」


 ベッド脇にある椅子に腰かけた陽子お母さんは、眠い目を擦りながら言いました。昨日は夕食の時間が近いこともあり、少しだけ言葉を交わして各々の病室に戻りました。続きは翌日に、という約束を交わしたため、二人とも熟睡はできませんでした。まるで遠足前日の子どもみたいだなぁ、なんて、心の内で思いました。


「赤ちゃんのお名前はもう決まっているんですか?」


 ひなたお母さんが言いました。


「大きく真っすぐ育ってほしいなぁっと思って、樹介にしようかと。ひなたさんは?」


「私も真っすぐいい子に育ってほしいと思って、木代花って名前を考えてて……」


「なんだか似てますね」


「そうですね」


 二人はふふっと笑ってから、我が子に名前を伝えるべく病室を後にしました。素敵な名前を貰った二人の赤ちゃんは、未来に期待を抱くように宙を一蹴りしました。



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