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ブレーメンの聖剣 第1章胎動<中>  作者: マグネシウム・リン
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物語tips:オーランド工科大学

オーランド屈指の名門大学。工学系の大学。キャンパスはオーランド各地にあるがグス・フレドリスク教授のラボがあるのは第6キャンパス。2桁区の34区にある。

大学のランクとしては、No1はオーランド大学で、No2がオーランド工科大学。キエら歴代の(おう)の影響で、回帰主義(旧人類の技術・知識の破棄)の名の下、研究開発は厳しく監視されている。

ここ半年、訓練漬けの毎日のせいでかったるいと思っていた日常でさえ懐かしく感じてしまう。

 早朝の2桁区の渋滞も、野生司大尉の車を借りるのも、ホノカを学校へ送り届けるのも、懐かしい。あの頃からあっという間に時間が過ぎた。それだけ訓練を繰り返したしそして、戦場へ出征する時も迫っている。

「平穏な日常、か」

 野生司大尉の言葉を繰り返してみた。たぶん、今この時間をいちばん大切にしているのは大尉だ。大尉の前で後ろ向きな態度は取れない。

 信号が青に変わって車列がのろのろと前へ進む。交差点に差し掛かったところで再び赤に変わった。警官が笛を拭きながら赤い旗を振ってドライバーに止まらせたり進ませたりして指示を出している。

「ごめん、今日が休みだって知ってたら、わたし、運転をお願いしなかった」

「気にするな。なんてことない」

 普段は野生司大尉が武装した女性の強化兵に運転を依頼していた。しかしホノカの言い分だと無愛想で会話もなく空気が重苦しいだけだったらしい。リンのような朗らかな兵士を想像したようだが、強化兵の性格はどちらかと言えば、その代役の運転手のように無口なことが基本だった。

「学校は楽しいか?」適当な話題をホノカに投げてみた。「3年生に進級したんだってな。おめでとう」

「どうも」

 この話題は空振りだった。ホノカはぼんやりと窓の外を眺めたままだ。以前だと教科書を読んだり車内で器用に宿題をしていたりしたが、ずいぶんと様子が変わったらしい。

「学校で楽しいこと、無いのか?」

「うーん、普通。でも来週、学校で打ち上げ祭りのイベントがある、くらい」

「ホノカはイベントで何をするんだ?」

「何も。生徒会とか実行委員会とかが進めているだけだから、わたしは参加するだけ」

「なるほど」

 学校の組織図、というものを知らないせいでいまいち理解できない。それでもイベントは楽しいものだがそれを心から楽しめそうにないという雰囲気はホノカを見てわかった。

「ホノカはなにか悩みがあるのか」

「まあ、あるけど」

「進路のこと? どの大学に行くんだ?」

「あーあ、嫌になっちゃう」少々どきりとさせられる返事だった。「リンちゃんもパパも、ニケくんも危険で大変なことしてるのに、わたしはたかが大学を決めることさえできないの。ちゃんとしなきゃいけないのに」

 うちで仕事の話はしない。ましてやはるか上空からの急襲作戦を練習してるなんて知るはずがない。しかし野生司大尉の娘だけあっていろいろと察するところがあるのか。

「大学だって大切だろう。比べる必要はない」

「わかってていってるの? 10歳で高校の勉強が終わったんでしょ」

「わかってるよ。特にホノカのその気持ち。それは罪悪感」

「まあ、そうだけど」

 自分だけ安全な場所にいることの罪悪感。そういう一般兵はよく見てきた。兵士の半数は無事帰還できて安堵する一方で、自分だけ生き残り自責の念に囚われる兵士もいる。ラルゴがいい例だった。彼は帰還することができたが、アルコール依存症の原因は亡くなった仲間を残してきた罪悪感だった。

「平和に暮らすことは罪じゃない。むしろ、そうやって平和に暮らして何気ないことで悩んで、っていう平和のために俺たち兵士は戦ってるんだ。それが役割ってものだ」

「役割、ね。昨日リンちゃんも言ってた」

 ピン、と思いつくことがあった。朝のリンとホノカはどことなくよそよそしかった。

「軍に入隊したらまず叩き込まれる価値観だ。俺は初めて見るヒトの価値観だと割り切ってそう振る舞うようにしていた」

「軍隊って最低ね」

「そうでもないさ。ヒトの社会は俺から見たらひどく巨大でひどく複雑だ。ヒトはブレーメンほど万能じゃない。力も弱いし知能も高かったり低かったりする。それでも、お互いの長所を組み合わせてひとつの社会を作ってる。そうやって協力しあえるのはブレーメンにない価値観だ。軍ってのはそれを体現してるんだ。万能の兵士なんていない。俺だって何でもできるわけじゃない。1人ひとり、一長一短だから長所を組織に活かそうとしている。ホノカは、何か長所があるのか?」

「もう、先生みたいなこと言わないでよ」

 少し真面目に話しすぎたか。またホノカはプイッと膨れてしまった。

 やっと車が発進した。交差点を過ぎもう学校はすぐ目と鼻の先だ。その後は車を家に戻した後、シィナのうちにでも遊びに行こうか。遊ぶ、というより1人では家を片付けられない幼なじみの後始末をしにいくだけだが。

「ねぇ、そこ。右に曲がってよ」

「久しぶりの運転だが道は忘れていない。学校はここをまっすぐ言った先だ。というかもう見えてる」

 ブレーメンの視力なら、朝の中和剤とスモッグが混ざった濁った空気を通しても遠くを見ることができる。

「いいから! 曲がって!」

「はいはい、お嬢様」

 ニケは扱いにくいお年頃の女の子に閉口した。

 右に曲がり、路地を抜けて大通りに合流すると朝のラッシュアワーのせいで車列はまったく動かなくなった。遅刻は確定だが、そんなに学校に行きたくないのか。ニケはバックミラーでホノカを見ると、ぴたりと目があった。

「ねぇ、質問なんだけど」

「はい、なんなりと。お嬢様」

「……怒ってる?」

 肩をすくめて答えた。この程度で怒るわけない。しかしホノカの意図が理解できないで困惑しているだけだ。ホノカはおどおどと口を開いた。

「質問、なんだけどさ。たぶん“お仕事”のことだから答えにくかったり答えられなかったりすると思うんだけど」

「それは質問を聞いてから考えるさ」

「強化兵って子どもができないの? リンちゃんに聞いたんだけど」

「ああ、まあ」

「ねぇ、どうして?」

 再び困惑。別段(べつだん)軍事機密というわけでもない。野生司大尉の言葉を借りるなら公然の秘密、ということだ。隠していないが誰も知ろうとしないこと。

「子どもができたら困るだろう。最前線で」

「それは! うん、わかるけど。子どもができたら育てるのが大変だって学校で習ったし。でも、最低ね男って」

 男──というひどく大雑把なくくりに顔をしかめた。ヒトの男、という意味だろうがブレーメンの男として仲間意識が無いわけではない。

 ニケはごろごろと遅い車の流れに合わせてアクセルを軽く踏む。しばらくは右左折もUターンもできないから学校からどんどん離れてしまう。

「ねぇ、なにか言ってよ!」

 ホノカの催促。

「そういうのはお父さんに聞けばいいんじゃないのか?」

「嫌よ。お父さん、“お仕事”の話になるといっつもごまかすんだもん。それとも秘密のことなの」

「秘密、じゃないんだが」話すことがためらわれる。「知っても気持ちのいいことじゃないぞ」

「いいわ。覚悟ができてる」

 ニケのため息──そういう胆力あるいは頑固さは野生司大尉やノリコさんから濃く受け継いでいた。

「生殖能力がないのは、強化兵の男女両方だ。付いてるモノは同じで機能も同じだが子供はできない。なぜなら、前線で子供ができたら面倒だからだ。そう作られている」

 バックミラーでホノカを見てみた。目が泳いでいる。ニケはもう少し落ち着いて話せるよう、大通りの脇にあるパーキングエリアに車を停めた。長距離トラックが数台停まっていて中で運転手が仮眠を取っていた。路上では野良犬がゴミ箱を漁っている。

下士官(かしかん)を3人、殴ったことがある。オーランドに来る前の配属地へ行ったばかりの頃に。男が2人、女が1人。強化兵の“私的利用”をしていたからだ。私的利用っていうのは───」

「言わなくても、わかるから」

「そうか。ヒトどうしの情事なんて関与しようとも思わないが、強化兵たちの拒否する声が聞こえたんだ。だからつい、手が出てしまった。当時は今より気が立っていたから」

 オーゼンゼでの強化兵工場襲撃事件───先輩の死───後方勤務に嫌気がさして最前線への配属を希望───すべてヒトが信用できなくなっていた頃だった。

「無事、だったの?」

「手加減はしたさ。治る程度の怪我だ。硬いステーキが食べられなくなるだろうが」

「そうじゃなくて。軍隊ってそういうの厳しいんでしょ」

「ああ、そっちか。3ヶ月の減俸。本来なら軍法裁判だが、強化兵の私的利用も憲兵に明らかになってしまうから基地司令が諸々の問題をもみ消したんだ」

「ニケくんって悪くなくない?」

「それでも規律のためさ。それに俺はあまりヒトからの評価を気にしない」

「ということはさ。リンちゃんってヒトじゃないってこと?」

「いや」

 過剰気味な反応だったせいで、バックミラー越しにホノカと目が合った。ニケは咳払いをして、

「リンはヒトだ。ヒトと同じように自我があって感情があって、それに誰でも分け隔てなく(いつく)しむ心がある。ただ、そういう役割を持って生まれてきたというだけだ。かわいそうだ、と思うホノカの気持ちは分かる。だけど役割自体に“良い”も“悪い”もない。社会はそうして回っている。不自然とも感じるかもしれないがそれがいちばん合理的なんだ」

 途端にホノカは車のドアを開け放つと歩道の横の植え込みに突っ伏して胃の中身を全部ひっくり返して嘔吐した。

 ニケは(かぶり)を振ると、コインパーキングに併設されてる自動販売機にコインを入れた。ガラス瓶が大げさな音を立てて落下した。中には清浄なミネラルウォーターが波なみと入っている。

 瓶のキャップを開けえずいて(・・・・)いるホノカに手渡してやった。

「大丈夫……見ないで」

「そう恥ずかしがることでもないさ」ニケはホノカの薄い背中を擦ってやると、

「リンのことを思ってくれてありがとう」

「わたし、リンちゃんのためにと思って。でも何もできなくて。ひどいこと言っちゃった」

「あとでリンの気持ちを確かめてみるよ。でも、気にしてないさ。あいつはそういう性格だ」

 ホノカは水で口をゆすぎながら、まだゲホゲホと息苦しそうだった。呼吸が整うまで、ニケは背中を擦って温めてやった。

「な、学校に行かないか。まだ少し遅刻しただけで済むから」

 車のコンソールボックスにティシュペーパーが入っていたので、袋ごとホノカに渡してやった。まだ目が充血して涙でぐっしょりと濡れていた。それでもホノカは落ち着いたようでこくりと頷いた。

 学校への到着は定刻を大幅に遅れていた。顔なじみの守衛に挨拶をして門を開けてもらい、駐車場に車を停めてホノカを送り出した。そして帰路につく頃にはラッシュアワーも終わり、交差点で交通整理をしていた警官も撤収の用意をしていた。

 信号待ちをしていると、パルの着信音が聞こえた。

「<れんらく もとむ まさし>。ふむ、さすが大尉だ。遅刻のことがもう耳に入ったのか」

 ニケは途中、路肩に車を停めて公衆電話の受話器をつかんだ。野生司大尉のオフィス直通に電話をかける。2コールだけで大尉が電話に出た。

『やぁ、ニケ君、突然すまないね』

「あの、大尉。ホノカの件でしたら。学校に遅刻してしまい申し訳ありません」

『ん? ああ、そうなのか。久しぶりだし仕方がないさ。ハハハ』

 いつも通りの大尉だった。ホノカのことではないらしい。

『少し用事ができてね。軍務省まで来てくれるかい?』

「はい、大丈夫です。ここからだと……30分少々お待ちください」

 ニケは手で受話器受けを下げて続けてコインを投入し、帰宅が遅れることをノリコさんに電話をして告げた。

 幹線道路を法定速度を守って走り、意外と早く軍務省に着いた。警備兵に身分証と許可証を見せ、駐車場で待っていると野生司大尉だけがやってくるのが見えた。

「お疲れ様です。休日なのに出勤ですか」

「ははは、管理職に休みなどないよ」

 野生司大尉が後部座席に乗り込んだ。手には鍵付きのトランクケースがあった。

「リンは一緒じゃないんですね」

「ああ、近衛兵がずらずらとやってきて、リンを連れて行ってしまった。大丈夫、なにか悪いことをしたというわけでもないよ。軍務省に出勤したときはたまにそういうことがあるんだ」

 思い当たるフシ──キエが遊び相手にリンを呼んだ。キエとの関係は口外しないようにとネネに口を酸っぱくして言われている。しかし野生司大尉のことだからうすうすと勘づいているはずだった。それでいて話題に一切出てこないのが逆に不気味だった。

「それで、どこへ向かいましょう」軍務省のゲートを出ながら訊くと、

「36区にあるオーランド工科大学の第6キャンパスへ」

 野生司大尉はバインダーに挟まった書類を眺めながらそう答えた。車の中で大尉は終始無言で、右手に万年筆を持ったままトランクケースから代わる代わる書類を取り出して眺めていた。

 管理職──それでいて前線まで出る用意のある現場至上主義の軍人。家族と安定した生活を過ごす道があるのにあえてそれを捨て、(いばら)の道に進もうとしている。今の大尉の“顔”は軍人の険しい顔だった。一体何が大尉をそこまで突き動かさせるのだろう。

 大学の横の幹線道路は3車線が一方通行で両隣がキャンパスだった。それぞれのキャンパスを行き来しやすいように歩道橋が道路の上に架かり、分厚い本を抱えた学生たちが行き交っていた。

「ホノカも来年は、ああして大学生になるんですね。もしかして今日は進学のために?」

「いやいや。仕事だよ」野生司大尉は軍の記章を指でつついた。

「あの子は勉強はできるからね、裏口入学みたいな小細工はいらないさ。ま、ワシとしてはホノカ自身の行きたい道を歩ませてやりたい。大学とか世間体とかを気にせずに。なんならニケくんのお嫁さんでもワシは良いと思うが、どうかね」

「俺はブレーメンですが」

「ブレーメンとヒトが結婚してはいけないという法律はないだろう?」

 だが前例もないだろうに。

「ヒトとは違う生き物です。子どもだってできないのに結婚する意味がないでしょう」

「愛さえあれば、とよく言うが。うん、まあそう言われたらたしかにそうだな、うん。この話は妻やホノカには内緒で頼む」

 もとからそのつもりである。

 野生司大尉の指示を聞きながら路地へ左折し、警備員にじろじろと見られながら敷地内へ徐行して入る。

 敷地には背の低い古いビルと木が生い茂っている木立があった。大尉の指示で木立の方へ車を進め、苔むした小屋の前で車を停めた。駐車場は無く袋小路の端に停車した。他に来る車も無いらしく落ち葉が道路を覆っていた。ジメッとした空気で鳥肌が立った。

「大学ってもっとこう、華やかなものかと」

 研究施設というより(ウァ)の飼育小屋だ。

「グス・フレドリク教授。フレドリクが名字。さすが一桁区の出身。専門は応用物理学」

「知らない言葉です。具体的には何を?」

「“ほにゃらら”」

「ほにゃ?」

「よくわからない、と言う意味だよ。何やら難しく大切らしいということはわかる。だが、具体的には知らない。君ならわかるはずだよ。ブレーメンの知能がある。ここ半年、軍が出資して装備品の設計を依頼しているんだ」

「ブレーメンは、知能が高くても興味がなければ知ろうとしません。そういう習性です」

 実際にシィナもいまだに金勘定すらできずに少尉の給料の大半をトゥインキーの購入に充てている。

「ワシからすればもったいない、という感想しかないよ。とはいえ、教授に会っても学問の質問はしない方がいい。小一時間専門的な講義を止めどなく聞かされたあとで長い溜息が漏れ出るんだ」

 飼育小屋のようなラボは出入り口に鍵がかかっていなかった。室内は、自然光を取り入れる設計らしく天井の半分がガラス張りだったが、腐った落ち葉が堆積して光を遮ってしまっている。カビた臭いはワークベンチに積み上げられた木工細工からだった。何かしらの機械の模型というのは理解できたが、それが何を意味するのかまではわからない。

「鍵を開けたまま、不用心ですね」

 そう言いながらも盗んで価値のあるものは見当たらない矛盾に気がついた。

「約束の時間に間違いないんだが。しょうがない。教授のパルに連絡を入れてくるから、ここで少し待っていてくれ。もし教授が現れたら……」

「現れたら?」

「気分を害さないよう、気をつけてくれ。頭は良いが気難しいヒトなんだ」

 じゃ、と野生司大尉は挨拶して公衆電話を探しに行ってしまった。1人不気味なラボに残されたニケはぐるりとあたりを見渡した。壁沿いの電球の下には斜めに備え付けられた設計台と腕の関節のように自在に動く定規があった。そこだけホコリが積もっていないので教授はここで作業をしているらしい。

 ドラフター(製図台)の横には窓のように大きな黒板があり数字や記号が模様のように書き連ねられていた。それの意味はさっぱりわからないが、一番右下に湾曲した線の図が書き込まれていた。そして上向きの矢印とともに『揚力』を意味する長い(つづ)りの専門用語が書かれてあった。

「まるで、鳥の翼みたいだ」

「すっばらしい~!」

 突如背後で場違いな興奮した声が聞こえ、驚きのあまり数センチ飛び上がってしまった。腰の銃と2振りの刀に手を伸ばそうともしたが、ぐっとこらえて拳を身構えた。

 背後に立っていたのは男性のヒトだった。背が高い割に細身で、髪の毛はほとんど抜け落ちているにも関わらず太い眉毛は黒々とびっしり生えていた。男の背後の奥を見ると、作業机の下に汚らしい毛布があった。テウヘルでももう少し清潔な空間で寝起きするだろうに。

「グス・フレドリク教授?」

「いっかにも! 私がフレドリクだ。いや、だが今はそんなことどうでもいい。君はこの私が発案した揚力断面図についてどう思った?」

 言葉をひとつ発するたびにじりじりとフレドリク教授が詰め寄ってくる。ドブの蓋のような体臭から逃げつつ、ニケは教授の機嫌を崩さないよう社交辞令の笑みを浮かべた。

「鳥の翼、みたいだなと。飛んでいる鳥を見たとき翼はこんなふうに、上に盛り上がっていたので」

「むむむ? 君は遠くを飛ぶ鳥が見えるのかね?」

「ええ。狩りの時とか、鳥がどこへ飛んでいくかよく見なければならないので」

 フレドリク教授は木工細工の山から虫眼鏡を掘り出すと、ニケの目をじぃっと覗き込んだ。ニケから見れば、教授の茶色い瞳も数十倍に拡大されて見えた。

「なんと! なんとこれは、若草色の瞳、特徴的な虹彩。君はブレーメンなのかね?」

「ええ、ま───」

「なぜそれを早く言わない! 何年生? どこのゼミに所属しているんだい? ブレーメンの聡明な頭脳と、この天才! フレドリクの発想さえあれば、連邦(コモンウェルス)に革新の嵐をもたらすであろう!」

 フレドリク教授は1人で盛り上がっていた。町中(まちなか)で見かけたら半径3間には近づきたくない、そういった人物だった。

「自分は、第2師団独立中隊、空中降下先行偵察部隊の所属のニケ・サトー曹長です」

「先行? 偵察? はてどこかで聞いたことがあるような」

 するとラボの入り口に野生司大尉が立っていた。

「教授、うちの優秀な隊員を勧誘するんだったらテウヘルとの戦争が終結した後に頼みますよ」

 野生司大尉は小粋な笑みを浮かべるとフレドリク教授と握手を交わした。

「なんとなんと。羨ましい限りですな。私のゼミは毎年募集しているのに研究生がいっこうに集まらない」

 ニケは教授の背後で顔をしかめたが、野生司大尉はニケに目配せをした。

「それは、きっと教授の発想が凡人には理解されにくいのでしょうな。ハハハ」

「そう、そう、まさにそうなんだ、大尉。いつか私の研究と発明が世に認められる時が来る。そのときには! 大尉の名前を論文に載せたい。もちろん、出資者の一番上に」

 一番、ということはこんな奇才に金を出す出資者が他にもいるのか。

「ハハ、光栄です教授。しかしワシのポケットマネーではなく軍からの資金援助なので、その際は第2師団、と明記していただければ」

「この天才フレドリク。恩は忘れんよ」

 野生司大尉はフレドリク教授から円筒形の書類ケースを受け取った。そしてふたりでげらげらと笑っている。それを見ながら、ブレーメンのことわざが思い出された。“撃ち落とす前に帽子を飾る”───狩りで鷹の尾羽根を得る前に帽子の飾り付けを始めるな、つまりそういう話は結果を出してからすべきという戒めだった。

「ニクくんにも───」

「ニケです」

「───天才フレドリクの発明を見せてやろう」

 余計なお世話、と思ったが野生司大尉の目配せがあったので大きく息を吸って精神を整えた。

 フレドリク教授は模型の山の一番上にあった木工細工をニケに手渡した。薄い木の合成材で骨組みに紙が貼ってある。モノコック構造は兵器の修理マニュアルで時折見る構造だが、その全体像は不格好な鳥、という印象だった。

滑空機(グライダー)だよ」

 ニケは適当に返事して話を切り上げようとしたが、フレドリク教授の解説が先だった。

「この翼は上面と下面で曲線(アール)扁平率(へんぺいりつ)が異なる。そして正面から風を受けると上面と下面で別々の気流が発生する。すなわち揚力が発生しグライダーは浮かび上がる……ここからここの数式で表しているね。物体の重力加速度はこの式のとおりなのだが、このグライダーがあれば斜めに滑空することができる。どうだ」

 ばんざーい、とフレドリク教授が両手を上げた。

「揚力、とはつまり浮力のことですか? 巡空艦にも用いられている。艦内は複数の気嚢(セル)に分かれて浮遊性ガスが封じ込められている。そこに微弱な電流を流すことで浮力を発生させます。安全で確実な技術です───」

 飛行訓練の空き時間にグァルネリウスの整備員達がそう説明してくれた。浮力を調整して良い気流に乗る。プロペラ推進機でさらに加速をしたり減速をしたりできる。当然垂直方向へも移動できる。

「───巡空艦は連邦の端から端まで1日で到達できますが、このグライダーは上から斜め下に移動するだけ、ですよね。しかも向かい風がなければ揚力は発生しません。興味深い理論だと思いますが実用性に欠けるかと」

「グヌヌヌ……学部長と同じことを」

 フレドリク教授は腹を抑えていた。

 ふと野生司大尉の方を見ると気まずそうに首を小刻みに振っていた。“ご機嫌を取れ”という意味か。

 ニケは小指の先で2振りの刀に触れた。とたんに頭は冷たく冴え渡り思考は加速した。

「巡空艦のレシプロ推進機をグライダーの先端につけるのはどうでしょう?」

 腹を抱えていたフレドリク教授はその両目をがんと見開いた。

「面白い。続きを聞かせておくれ」

「レシプロ推進機はプロペラで強い風を後方に送ります。ヒトが吹き飛ばされるぐらいの。もう少し小型の内燃(レシプロ)推進機があれば、それをグライダーの先端に付け、自在に揚力を得られるはずです。巡空艦は大型で運用にコストと時間と人員が必要ですが、自在に飛べるグライダーなら取り回しが良い乗り物になりそうだな、と思うんです」

「ひらめいた!」

 フレドリク教授は罠から開放された鹿のような俊敏さで製図台に取り付くとまっさらな方眼紙をそこに貼り付けた。

「あの、教授。俺、適当に思いつくまま話しただけなので」

 その肩に野生司大尉が手を置いた。

「仕事モードの教授は自分の世界に没頭してしまう。数日はあのまま設計を続けるよ」

 だからあんなに小汚いのか。その背後関係がわかってしまうとヒトの体臭がよりきつく感じられた。

「いつか倒れますよ、あのヒト」

「なに、君が思う以上にヒトというのは丈夫にできているものさ」

「教授から何を受け取ったんです?」

 野生司大尉は両手で円筒形の書類ケースを大事そうに抱えている。

「グライダーの設計図さ」

「斜めに滑空する乗り物?」

「ワシが思うに、空中降下奇襲で問題なのは降下時間だ。着地地点がバラける、装備を紛失する、着地して怪我をする、そもそも兵士の訓練に時間がかかる、などだ。だが巡空艦から滑空するグライダーがあれば、重装備の兵士を前線に素早く送り込むことができる。あるいは今改良中の軽戦車をグライダーに搭載し降下させることもできる。落下傘でゆっくりおろしていると多脚戦車(ルガー)のいい的だからね」

「なるほど。そうと知っていたらさっきのような生意気なこと言わなかったんですが」

「気にしなくていい。現に、教授は取りつかれたかのように図面を書いている」

 ニケは野生司大尉の後ろを歩きながらラボを後にした。自由に空を飛ぶ機械。かつての人類の文明にはそういう機械もあったんだろうか。教授はその理論の発見と機械の発明に歓喜していたが、ほんの1000年前に実在していたと知ったらどんな顔をするのだろうか。

「難しそうな顔をしているね」

「いえ、自分は」

「大学で勉強したくなったかい」

「いえ、それは」

 否定しきれない。

「ワシらの手で戦争を終わらせよう。そして生きて帰る。そうすれば君も軍人なんか辞めて普通の人生を歩むことができる」

「はい、大尉。尽力いたします」

 野生司大尉の“顔”は父親のそれだった。しかし野望を隠すように右頬だけが笑っているのをニケは見逃さなかった。

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