7、とどめの一撃
詐欺事件を模した絵をロイドさんに持っていくと、すぐに彫版作業に入った。問答無用で私も作業に組み込まれる。なにせ時間がない。
けど、出張から帰って休めていない。私はふらふらになりながらロイドさんたちと作業を進めた。
全てが終わったのは出張から帰って五日後だった。
一応は寝に帰っていたものの、もうくたくただ。
編集長から許可をもらい、明るいうちに会社を出る。
もう家もぐちゃぐちゃだけど、とりあえず帰って寝なければ。食べ物もなにもないような気がする。一週間不在にするからと、出張の前に食品はあらかた片付けたのだ。
買い物に行った方が良いけど、その元気はない。
周りを気にせずにぼんやりしていたのがいけなかった。
とぼとぼと自宅に向かう路地に入ろうとしたところで、腕を引かれ、誰かに後ろにぴたりと付かれたことに気付いた。
それまで、全然気付かなかった。
「動くな」
しゃがれたような低い声に背筋がひやりとして、足を止める。
背中の真ん中に硬いものが当たる。刃物だろうか。
すぐ後ろに付いた男は耳元で告げた。
「記事を出すな」
「……何のことだか分からないわ」
「しらを切るな。こっちは分かっている。長距離移動して男と二人、調べていただろう」
心臓がばくばくする。背中に当たる圧力が先ほどより増し、反射的に背を反らす。
震える声を絞り出す。
「……もう私の権限では止められない」
「それでも止めろ。さもなくば、」
脅し文句の続きを待ったが、男は黙った。
一拍置き、男のさらに後ろから声がした。
「お前が動くな。刃物を下ろせ」
そうっと首を動かして後ろを窺い見る。私の後ろには男。
その後ろにはセルジュが立っていた。
私の背中に触れていた硬いものが引かれ、そっと安堵の息をつく。
「……さ、刺すな。俺の刃物は下げた」
男の声が震えている。どうやらセルジュも刃物を当てて男を脅しているようだ。
「雇い主に伝えろ。記事はもう出る。尻尾巻いて逃げるなら今のうちだ。もう行け」
聞いたことのないようなセルジュの冷たい声。
男はコクコクと頷くと、するりと身を返し、転がるように走って行った。
その場には、私とセルジュの二人。
「……怪我は?」
「ないわ、ありがとう。本当に張っていたのね」
セルジュは小さく頷いた。
出張から帰ってきて編集長に報告したあの日。
一旦外に出て行ったセルジュはまた戻ってきて、挿絵を描く代わりにと、私に条件を出した。
──通勤時のニーナさんを見張らせてください。
は? と思ったけど、それがあまりにも真剣な表情だったので、了承した。
襲われるとしたら通勤時だが、いつも通りでいいと言う。私にも分からないように張るから、と。
実際、そのまま五日間過ごしたが、セルジュに張られているなんて全然分からなかった。
さすがはゴシップ誌記者。張り込みはお手の物だ。
「まさか記事が出る前にこんなことになるとは思わなかったわ」
「記事が出たら終わりですからね、その前に圧力をかけてくるだろうと思ってました」
そしてその通り、守ってくれた。
「でもセルジュも刃物なんて持って……、危ないわ」
「え? 違いますよ」
ほら、と手を広げて見せたのは、一本のペンだった。これを分からないように男の背中に突きつけていたのか。
ひどく怯えた声の男を思い出し、笑みが漏れる。
「さすが、記者ね」
「光栄です」
恭しくセルジュがお辞儀したのがなんだか可笑しくて、私はぷっと吹き出した。
♢
それからも通勤時の見張りは続いていたけれど、あれ以降、おかしな男が現れることはなかった。
私の方の挿絵の印刷は上がった。急いでいたわりに、良い出来だ。
札束とワイン瓶を抱えるバルトロ男爵、なにも無かったブドウ畑。周りを囲むように、出資する貴族たちの図。一目で事件の概要が分かるように描けたと思う。
セルジュの方も裏取りにより、最近の出資者への配当金は遅れに遅れていることを確認していた。
配当金が遅れているということは、操業が危ういということ。そもそもブドウ畑がないのだから当然だ。
「あああ、ようやく終わりました……」
脱稿して記事を植字職人に渡し、へろへろになったセルジュが自席に戻ってきてバタンと突っ伏した。
「お疲れ様。無事に済んで良かったわね」
「……飲みに行きます?」
「疲れてるんじゃないの?」
「飲みたい気分なんです」
私たちはいつもの大衆居酒屋に行った。
セルジュは疲れた様子でへろへろ。いつも脱稿明けはくたびれた様子ではあるが、それでもきちんと紳士然としている。
しかし今はぼんやりしてうつろな目。仕方がない。彼は記事の裏取りを続けると同時に、私の通勤を張っていたのだ。
今日は週末。周りはいつもよりも陽気になった人たちで賑わっている。
「バルトロ男爵領の帰り……、すみませんでした」
「なにが?」
「挿絵描くななんて言ってしまって」
「ああ、全然」
別にもう気にしていない。心配してくれたんだろうし、それはありがたいことだ。実際、危ない目に会うところを助けてもらった。
「俺は今回の件、せいぜいワインの品質偽装くらいかなと思っていたんです。それなのにそもそも実物すら詐欺だったなんて、かなり大事だなと思いました」
セルジュは頬杖をついて目を伏せ、グラスの中の氷をくるくると指で滑らせている。節立った指に、目が離せなくなる。
あれ、そんなこと、前も思わなかったっけ。
「前になぜ記者になったかの話で、『ペン一つで世の中の悪事を暴いてやろうと?』ってニーナさんに言われて、笑っちゃったじゃないですか。きっと俺、始めはそうだったんです。でも人の心の暗い部分ばかり追っていたら、なんだか最近よく分からなくなってきていて」
氷をかき混ぜる指を目線で辿っていくと、筋肉のついた腕。意外と鍛えてそうなのに、恐喝男に襲われた時には腕力は使わず、ペン一本で撃退してしまった。
まくった袖部分はくしゃりとよれている。
でもこういった布のたわみとか、レースとかを描くのは好き。
「ニーナさんは俺と違う。優しくて、ゴシップ誌記者なのに記事の外側を、普通の感性を持っている。一緒に仕事していたら擦れていっちゃうかと思ったけど、全然そんなことなくて」
思い出してみると、貴族っぽい蔦模様のコートを着たセルジュは結構良かった。この男は派手な服にも負けない雰囲気を持っている。
それなのにゴシップ誌の記者だなんて、仕事が合っているんだかいないんだか。
いつも飄々として余裕綽々で仕事しているように見えて、今日はぼろぼろ。ネタを追うにも、見えないところでいろいろ頑張っているんだってことが今回の件で分かった。
「エリザベス嬢やミリア嬢のことも。俺なら多分気にしなかった。記者でそういう普通の人って貴重なんです。だから、絶対危害を加えられたらダメだと思った」
一見優雅だけど、でも裏では頑張って足を動かしている。
忙しいんだから自分のことだけ考えていればいいのに、それでもって私のことまで気にして。過保護。
そういえば、初めのうちにセルジュに感じていたモヤモヤイライラは最近はもうほとんど感じない。なぜだろう。格好悪い姿も見てしまったからだろうか。
セルジュの形の良い爪から肘までを記憶するように視線を往復させていたら、肌寒いのか、彼はまくっていた袖を下ろしてしまった。
腕が見えなくなる。あ、残念。
ん?
──残念??
「心配だったとはいえ、ニーナさんの気持ちを馬鹿にするような言い方をしてすみませんでした……って、聞いてます?」
「──分かった!!」
思わずその場でがたりと椅子から立ち上がると、驚いたセルジュと目が合った。
美しい緑色の瞳がこちらを見上げている。
「な、なんですか?」
「描かせて!」
「は?」
「なんでモヤモヤしていたのか分かった! 私、セルジュのこと描きたいんだわ!!」
「え゛っ!?」
喉が詰まったような声を出して、セルジュは固まってしまった。
たっぷり数秒、瞬きもせずにそのまま微動だにしない。しかしなぜかじわじわと顔に赤みが増している。
それから彼はゆっくりと両手で顔を覆い、天井を仰いだ。
「……やられた……」
指の隙間から漏らした声に、心配になる。わずかに見える頬も、隠せていない耳から首筋も、真っ赤になっているのだ。
疲れているときに飲んだから、酒が回ってしまったのだろうか。
「なに、どうしたの? 大丈夫?」
不安になって肩を叩くと、セルジュは「はああ」と呻いて、肩に置かれた私の手を掴んだ。両手の外れた彼の顔は紅潮し、目が潤んでいる。
しっとりとした瞳で見つめられ、どきりとした。
「いいですよ、描かせてあげます」
♢
ここは私の部屋。
通勤中を張られていたけど、一度もセルジュを部屋に入れたことはない。
デッサン帳や彫りかけの銅板と木版。絵の具なんかが散乱した作業用の部屋に通し、小さな丸椅子にセルジュを座らせた。
私は彼から少し離れたところで、ひじ掛け付きの一人椅子に座ってスケッチブックにひたすら描いている。なお、袖はまくらせた。
部屋には小さなオイルランプだけ。だが、窓からは月明りが入っている。
「……ニーナさん、いつまでじっとしていないといけないんですか?」
「私が満足するまで」
「ええー……」
私がペンを走らせる音のみ響く。
かれこれ一時間。動くなと言って大人しくさせていたが、小さな椅子にずっと座らせていたので疲れたのかもしれない。
無視してスケッチブックに目を落としていたら、きい、と音がしてセルジュが立ち上がったのが分かった。
そのまま窓際に近寄り、うーんと背を伸ばしている。身体から、ぱき、と音が聞こえた。
「ちょっと、動かないでよ」
「俺はもう飽きました。ねえ、ニーナさん」
「なに」
「前に言ってましたよね、『なぜ絵を描くのか』」
言ったっけ。言ったような気がする。
そうだ、バルトロ男爵領に行く馬車の中で問われたのを思い出す。
窓枠に手をついてこちらを振り向いたセルジュは、月明りに照らされて美しかった。
なにを言いたいのだろう。早く席に戻って続きを描かせてほしい。
「あのとき、あなたはこう言っていた。絵に描くと、好きなものが自分のものになったようで気持ちいい、って」
「ええと、そうね」
「それで、さっきあなたはこう言った。俺のことを描きたい、って」
「…………え゛っ」
店でセルジュが固まった時と同じような声が出た。
意味が分かった。
セルジュが固まって赤面した、意味が。
同時に、店で盛大に放ってしまった一言が今になって私の心を撃つ。
恥ずかしい! 私は、なんてことを。
「ああああ」
セルジュのときと同じように両手で顔を覆った私の反応を見て、彼がくすくすと笑う。
でも、その優しい笑い声を聞いたら、胸のあたりがすっとした。ほっとしたと言うべきか。
そうか、私は彼のことが──。
気付いたら、セルジュはとても近くにいた。
「描いているだけでいいんですか?」
「え?」
「いま手を伸ばせば、好きなものが本当に手に入る位置にいるのに?」
椅子の肘掛けにセルジュが手を置き、かぶさるように私を囲う。
心臓がばくばくして、椅子の中でスケッチブックごと、膝を抱え込んだ。せめても、と手で彼を制す。
「ニーナさんが俺と同じ気持ちで嬉しい」
「ま、待って待って!」
「待つと思います?」
月明かりによるセルジュの影が、私を覆うように落ちる。
優しい表情で私を見つめる彼から逃げられない。
身を固くしてぎゅっと目を閉じると、それをほどくように、優しい唇が額に落ちた。