#2 直哉――Forbidden Colours
幼い頃、母の寝室でコンドームを見つけたことがある。
それはアンティークの豪奢な鏡台の引き出しの中、花をあしらった十センチ四方の上品な四角い缶に入れられていた。
色とりどりの小さなパッケージが缶の中で乱雑に重なり、半透明のパッケージからはピンクや水色の中身が薄く透けていた。その色や外から窺える丸いリング状のような形にも興味を惹かれたが、何よりもパッケージの内側に密着している部分から感じとられる濡れたような質感が妙に気になった。
それが何の為に使われるものなのかは見当もつかなかったけれど、子供心に秘密めいたものを感じ頻繁に眺めるようになった。その度に封を開けてみたい衝動に駆られたが、さすがに自分のものではないそれを開けるのは躊躇われた。母の私物を勝手に見ているという後ろめたさもあり、しばらく眺めたあとは何事もなかったように元通り仕舞っておいた。
両親はともに仕事が忙しく帰宅が遅くなる事も少なくなかったため、自宅にいる時は一人で過ごすことが多かった。そんな時はたいてい父や母のプライベートな部屋に入り、時には蔵書の中から適当なものを読み、時には部屋にあるいろいろなものを子供らしい好奇心と憧れをもって眺めていた。
父のコレクションの腕時計、母のアクセサリーや香水、仕事関係の書類、仕事ともプライベートともつかない写真、高価そうな革の文具類など、数えればきりがなかったけれど、そのどれもが内容や価値はわからないまでも大人への憧憬を刺激するには十分だった。普段あまり接する機会のない両親の持ち物であるがゆえの興味もあった。
そうして部屋に入っていることは父にも母にも内緒で、部屋を出る時には痕跡を残さないよう注意深く片付けた。無断で部屋に入ったことを見咎められた事はなかったけれど、良くないことをしているという自覚があったのだ。
それに父も母も息子であるおれのことでなにかと煩わされるのをあまり好んでいない、というのもなんとなくわかっていた。特に母から向けられる眼差しの奥には冷たい嫌悪が潜んでいるような気がしていた。
「――直哉くん?」
不意に呼ばれて振向くと、カラーコンタクトを入れた薄い瞳と視線がぶつかった。ベッドサイドに置かれたランプの鈍い灯りが肌に深い陰翳を落としている。
「どうしたの? ぼーっとしちゃってさ」
「――うん、いや、なんでもない。ごめんね?」
軽い微笑みに謝罪の言葉をのせながら、なおもその陰翳を眺め続ける。ヴィクトリア王朝時代の装飾を模した室内とともに、まるで虚構の舞台装置のようだと思いながら。
「いいよ。それより……ね、はやく……」
囁かれる声は仄暗い甘さを含み、吐息が誘うように絡みつく。
おれは促されるまま視線を落とし、手の中の小さなパッケージの封を切った。
いつもと同じ会話、同じ行動、同じ快楽。
繰り返される記憶も、使い回される日常も、すべてが変わることなく過ぎてはやって来る。
時が動いているのかどうかさえわからない、静かで平和で、そしてどうでもいい毎日。
あの日―――。
好奇心に勝てずとうとうそこから一つ持ち出し自室で中身を見たあの日、ひどく後悔をした。相変わらず使途は不明だったけれど、ぬめりのある薄い感触が放つ淫靡な色彩と母のものを無断で持ち出した罪悪感があいまって、なんだか取り返しのつかない事をしたような気がしたのだ。
それ以来、おれは父の部屋にも母の部屋にも立ち入るのをやめた。けれど父や母の部屋で憧憬をもって眺めたそれらのものは時が経つにつれてゆっくりと姿を変え、静かに深く沈む澱となっていつまでも消えることはなかった。
もしもあの頃――。
両親が幼い息子のしたことを知ったとしたら彼らはどんな顔をしたのだろうか。
子供ゆえの無邪気な好奇心だと笑っただろうか。
それともいやらしい子だと蔑んだのだろうか。
そして今――。
もしも両親が息子の本当の姿を知ったとしたら彼らは何を思うのだろうか。
裏切られたと思うだろうか――。
もしくは思った通りだったと――そう思うのだろうか。
「……あんっ……なおやくんっ……」
腰を突き上げる度に吐き出される女の甲高い声が部屋に響き渡る。おれの名前を呼ぶその声に応えるように軽い笑顔を浮かべ、さりげなく視線を外す。
「気持ちいい?」
「んっ……きもちいぃ……」
「そう、よかったね」
「……もっと……はあっ」
セックスの合間の意味のない言葉。
意味のない言葉の合間には価値のない微笑み。
そして終息を迎えるまで続けられる律動。
かつて母の寝室でこっそりと眺めたものは、今ではすっかりおれの日常に溶け込んでいるけれど、それでもいつもこの瞬間、思い出すのだ。
母を、母の眼差しを――。
父の寝室、母の寝室。
父の書斎、母の書斎。
別々の生活。
それぞれの日常。
母の寝室で見つけた避妊具。
母は―――。
母は男に抱かれながら何を思ったのだろうか。
こうしておれの下で組み敷かれ喘ぐ女と同じように、快楽に身を委ねだらしなく口を開けて男に一層の快楽を懇願したのだろうか。
それは欲望ゆえか、感情ゆえか。
母の寝室の鏡台の中には今もあの美しい花柄の缶はあるだろうか。
きっとあるだろう。
そして今も抱かれ続けているのだろう――父ではない別の誰かに。
ホテルを出て携帯の電源を入れると、留守番電話センターにメッセージが入っていることを知らせるアイコンがついていた。おそらくアラタだ。どうせたいした用事じゃないだろう。
ディスプレイの時計は17時42分を示している。少し眠ってしまったために時間は予定より幾分遅くなっていた。夜遅い時間というにはあまりにも早かったが、バイトに行くと言って出てきた以上大幅に時間がずれるのは避けたかった。
出来る限り心配はかけたくない――。
おれは手にした携帯をもう一度仕舞い、雨の中を足早に歩き出した。




