#1 D.J.――Beyond The Invisible
虚ろに見上げた上空はどんよりと暗く、ビルの合間に覗く細い空からは無数の雨滴が激しく降ってくる。四方を囲む灰色の壁は濡れて重くそびえ立ち、もとより日の射さないこの場所に一層濃い陰を落としている。
今、何時だろう――?
水はけの悪い古くひび割れたアスファルトに足を投げ出し、冷たいコンクリートの壁に背を預けながらぼんやりと思った。家を出たのが昼過ぎ。どこに寄るともなく真っ直ぐここへ来たのだから着いたのは1時くらいだろう。あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。
雨に晒された肌はすっかり熱を失い、髪からは幾滴もの雫が絶えることなく滴り落ちている。ずいぶん長い時間こうしているような気もするし、まだそれ程経っていないような気もする。辺りを見回してみても来た時と同様に薄暗いばかりで、今がまだ昼間なのか、それとももう夕方なのかさえよくわからなかった。けれど――。
どうでもいいや――。
もう――関係ない。
一通り考えを巡らせてからそう思い至る。時間なんてもう関係ないのだ。
昼間だろうと夕方だろうと――もう、どうでもいいのだ。
この濡れそぼった服同様に帰る時間を気にする必要なんてない。
いつものようにエリックの心配を気にする必要はないのだ。
どうせ――。
どうせ今日は帰らないのだから――。
明日だって明後日だって――もうずっと――。
そう思うと少しだけ気分が軽くなった。こうして雨に濡れるのは初めてこの場所に来た日以来だ。あの時は今とは違ってもっと静かな雨だったけれど――。
あれはちょうど一年前、まだ日本を訪れて間もない頃だった。新しく始まった生活はそのすべてが今までとは全く違い、失ったものをより一層強く感じさせられるものだった。何を見ても何を聞いても望むものはもう無いのだと――そう言われている気がした。好きなことをしていいと言われてもしたいことなどなかったし、自由に外へ出ていいと言われても行きたい場所などなかった。ただ時間が過ぎてゆくだけの毎日だった。何もしたくなかったし誰とも話したくなかった。
けれどそんなぼくを見るエリックはいつも悲しそうだった。心配そうに向けられる眼差しはとても優しかったけれど、期待に添うことも出来ずに逃げるように外へと出掛けた。それでも何もしないことに変わりはなかったけれど、ぼくが外出することをエリックは喜んだ。自主的に何かをするのはいいことだよ――そう微笑みながら。
ぼくは毎日出掛けた。お昼にエリックが用意してくれた食事をなんとか摂り、家を出て、行くあてもなく時間が経つのだけを待った。そして日が暮れる前には帰宅して、夜には適当な作り話をさもその日見たりやったりしたことのようにエリックに話した。猫の頭を撫でたとか、綺麗な石が落ちていたとか、そんなどうでもいい作り話を嬉しそうに聞くエリックを見ていると、なんだか悲しいような寂しいような気分になったけれど、ほかにどうしたらいいのかも思いつかなかった。
そうしてその日もいつものように行くあてもなくふらふらと歩いていた時だった。
ふと目に入ったのだ。ビルとビルとの間にぽっかりと空いた狭い空間が。
それは奥の暗がりに向かって真っ直ぐと伸びていた。何の変哲もないその路地の入り口が何故か気になり、誘われるまま奥へと進むと路は突き当たりで右に折れ、その先は行き止まりの袋小路になっていた。灰色の壁に囲まれた微かに下水の臭いが漂うそこは、移りゆく季節も訪れないような薄暗い場所だった。
引き寄せられたのはきっと似ていたから。
灼けつくような懐かしさと冷たい絶望が吹き溜まるあの場所に。
それはぼくが一度死んでもう一度生まれた――深い闇が潜む場所。
結局、戻ってきたのだと思った。すべての始まりの場所に。
ずっと思っていた。帰る場所があるのだと。
すべてを失くしても最後に必ず残るぼくだけの場所が――。
そしてそれは温かい腕の中だと――本気でそう思っていた。
けれどそれは分不相応な幸せに慣れたぼくの思い上がりで、本当はここが、この汚く薄暗い場所がぼくに用意された最後の場所だったのだ。
待っていたのだ――闇が口を開けて。
泡沫の夢から覚めたぼくが再び戻ってくるのを。
罪の中でしか在り続けられないこの生を終わらせるために。
一体どのくらいそこに佇んでいただろうか。
気づけば絹のような雨が細い空から降りそそぎ、辺りの空気同様にぼくの服もすっかり重みを増していた。なんだか心地が良かった。雨に霞む視界も、遠のく大通りからの雑踏も、重く纏わりつく衣服でさえ、犯した罪に優しく馴染んでゆくようで――。
その日からいつ止むとも知れない雨が何日も降り続き、まるで世界が不透明な水にのまれていくかのようだった。すべてのものが深いベールに覆われ、閉ざされ隔絶されていくような気がした。夏の訪れを前にしてやってくるこの季節を梅雨というのだと後から知った。その日は例年よりも少し遅めの梅雨入りだったのだ。
それ以来、日中のほとんどを毎日この場所で過ごした。日に日に諦めの甘い種が育ってゆくのを感じながら、それでも心のどこかで待ち望んでいたのかもしれない。覚えているはずもない記憶の中の奇跡を。幾度となく聞いたその瞬間が再び齎されるのを。
そういえば――。
今朝は金魚にエサをやらなかった。手のひらの最後のタブレットを口に入れながら、いつもの日課をすっかり忘れていたことを思い出す。忘れたことなんか一度もなかったのに――。
梅雨が明けた夏のある日、いつものように出掛けようとしていたぼくにエリックが縁日に行こうと誘ってきた。そして一度行ったことのある日本の季節行事がどんなに物珍しく美しかったかを話してくれた。
――きっと楽しいよ。今日、近所の神社であるらしいから夕方に待ち合わせよう。
けれどエリックが待っていると言った場所にぼくは行かなかった。待ちぼうけをくらったであろうエリックは、それでもそのことには触れず、ただ、お土産だよ、とビニールに入った金魚を差し出した。
エリックがいつも気づかってくれているのはよくわかっていた。縁日に行こうと誘ってくれたのも、ぼくが少しでも何か楽しいことを見つけられるようにと思ってのことだ。けれどそんな風にされればされるほどどうすればいいのかも何を言えばいいのかもわからず、結局控えめに視線を落として黙るしか出来なかった。
そうして受け取られることのなかった金魚は、次の日、ガラスの金魚鉢に入れられ朝の光をきらきらと浴びていた。ふちに淡い緑をおとしたガラスに揺れる紅色の金魚は優雅で美しく、隔離された水の中から出ることなく一生を終えていくその姿はひどく幸せそうだった。以前はぼくもこの中にいたのだ。ゆらゆらと泳ぐ金魚にように、甘い檻の中で穏やかな光に包まれ満たされていた。そこには望むすべてがあった。もう二度と取り戻せないけれど、触れることさえ出来ないけれど、せめて眺めていたかった。だから毎日エサをやり世話をした。この檻が――ずっと続くようにと――。
もう、二度と取り戻せないから――。
口の中ですでに溶け始めているタブレットを噛み砕きながら、ぼくはゆっくりと目を閉じた。
こうして雨の中永遠に続くかのような隔絶に身を委ねると、すべてが悪い夢で本当は今も変わらずあの穏やかな光の中にいるかのような幻想に囚われる。意識が朦朧としてきた今、隔絶感はなお一層強く心地いい。先程まで聞こえていた雨音も、肌に落ちる水の感触も次第に消えてゆき、別世界のように静寂が辺りを支配しはじめる。
過去だけを見たかった。
なにものにも邪魔されることなく、ただ過去だけを――。
だから――。
夏が来る前に。
この隔絶が終わってしまう前に。
ここで。
この場所で。
無かった事にしなくちゃいけないから。
奇跡は二度起きないから。
降りしきる雨の中、ぼくは手首を切った。
流れる紅い筋が濡れた肌に溶けていく様は、揺れる金魚のように優雅だった。
――愛してるよ。
薄れてゆく意識の中で遠い記憶が風のようにやさしく耳をかすめる。
それはぼくが言った言葉なのか、それとも言われた言葉なのか。
水の中に漂うような浮遊感を感じながら、愛され抱きしめられる夢を見る。
それが――。
しっかりと抱きしめてくれるその腕が――。
ぼくのよく知るあの温かく力強い腕であるなら、ほかには何も望まない――。
たとえ夢でも。
たとえ幻でも。
覚めることがないのなら。
消えることがないのなら。
きっとそれは――現実と変わらないはずだから―――。




