この転生女子には特別な自覚なんて今はない
「お嬢さまぁ~、お待ちくださあああい……」
後ろで疲れ切った声がして、彼女は足を止めて振り返った。
声の主は可哀そうなくらいにへろへろとおぼつかない足取りをしていて、目を回していそうなほどに首をふらふらさせながら、苦しそうにぜいぜいと息を切らし、懸命に彼女を追いかけようとしてくれていた。
本来このメイドは、体力を使うような仕事を割り振られない。
だからこうなってしまったのも無理はなく、彼女は自身の失態に今更気づいて青くなった。慌ててメイドに駆け寄る。
「アリス! ごめんね! あなたは遠目に見てくれているだけで良かったのよ。伝えてなかった」
メイドは主がそばに来てくれたことに安心してしまって、へたりこむ。
「も、申し訳ございません。すぐに立ちますので……」
まだ呼吸も落ち着いていないながらそう言うメイドの肩を彼女は押さえて立たせない。
「だめよ、あなたは少し休んでいて」
そう言って、片手ではメイドの肩を押さえ、ハンカチで包んでいたセラミックのコップを鞄の中で掴む。そしてハンカチを鞄の内側との摩擦を利用して剥いだ。
(お行儀が悪いって言われそうだけど、急いだほうがいいと思うの)
注意をくれそうなたくさんの面々を思い浮かべながら、彼女は精霊語で水に願った。人間の言葉にすれば『お水をください』になるのだろう。精霊語になるとそれはとても短くなる。
するとキレイな(と彼女には感じられた)エーテルが小さく渦巻いてコップに集まり、丁度良く八分目くらいまで水がたまった。彼女はまた精霊語で礼を口にする。こちらなどたったの二音だった。
彼女には付近のエーテルが優しく揺らいだように感じられた。
『マナ消費極少。即時回復。問題アリマセン』
彼女のすぐそばに浮いている小さな球体が機械的に言葉を発した。いちいちこうだと監視されているようでそわそわするが、AIが学習を重ねて疑似人格を形成できるほどになると余計なことまで声にすることはなくなるらしい。それまでの辛抱だ。
「アリス、飲んで」
精霊がくれたコップの水をメイドに渡そうとすると、メイドは震えた。
「滅相もございません、私などの」
「いいから。あなたは貴族を何だと思ってるの? うちで働いてくれてる人を倒れさせるために居るわけではないわ」
彼女は苦笑しながらそう言う。こうしてへたりこませるまでのことはしてしまったけれど。
「うう……恐縮でございます……」
アリスはおずおずとコップを受け取り、大切そうに口にした。
(新しく来たばかりなんだもの。メイベルと同じような接しかたをしないように注意しないとね)
メイベルというのは彼女付きの護衛を兼ねたメイドだ。そのため体力馬鹿と言ってもいいくらいにタフな人間である。加えて彼女が生まれる前からこの家に仕えていて勝手を知っている。
その彼女を始め数名が今日は出ているため、新人メイドが彼女のそばにいてくれることになった。
その新人メイドのアリスは、主に給仕を担当している者だった。こう庭で走り回れるほどの体力は必要がない。
「このスフィアで今実行しているのは瞬発力を鍛えるためのプログラムなの。しかも見栄を張ってギリギリやりすぎにならないくらいのにしたわ。あなたは後ろでつきっきりにならなくてよかったのよ」
開始したばかりとはいえ、普段はむしろ静かに振る舞うべきアリスにはきっと追いかけるなんてきついものだ。
しかし彼女はアリスをなだめようとして説明したのに、メイドは逆に身を縮めた。
「申し訳……ございません……」
「ど、どうして謝るの!?」
しかもアリスは目に涙までにじませている。彼女は慌てた。しかしただおろおろするくらいしかできない。
「お嬢様は、とても元気なかただとお聞きしました……それで、逃げ出してしまわれたのだと……失礼にも程がございました……申し訳」
彼女はアリスを抱きしめた、というより抱き着いた形になるのだろう。彼女にはまだ背丈がないから立ったままそうしても、アリスの頭はしっかりと胸のあたりで包み込める。だから謝罪の言葉は途中で封じることができた。けれどそのままで息苦しくなってしまう。彼女はすぐにそっと身体を離してアリスに微笑みかけた。
「そんなことは気にしないで。あなたはまだここに来たばかりよ」
なんて些細なことでここまで恐縮させてしまっているのだろう。
「それに、庭で走り込みをするのを伝えなかった私の落ち度ですもの。謝ってはいけないわ」
走り込み。
もしかしたら、貴族の五歳児がそんなことをするなど思いもよらないのかもしれない。アリスがもし中央などから勤務地をあてがわれてこの西の辺境に来たのだとしたら、知らないのも充分にあり得る。
未だにふるふると畏れているアリスに、再度彼女はやんわりと抱き着くくらいしか思いつかない。
何と言ってあげたらいいのだろうか。
そうしているうちに、くすくすと笑う声が聞こえて彼女は振り返る。
「お姉さま!」
アリスにもその人物が見えるようにと、彼女はメイドの正面から隣へと移動する。
アリスと彼女がいたのとちょうど反対側にある本邸からゆっくりと歩いてくる姉は、きっとこの状況をなんとかしてくれるはずだと、彼女は期待の目で見つめた。
「ティア、もうからそんなトレーニングをしていたら、背が伸びませんよ」
『ミカみたいにね~』
「こら。余計ですよ」
からかうように言って姉の隣でくるくる飛んでいるのはスフィアだ。AIは学習を重ねるとこうして個性を獲得していく。姉のものは外見もAI好みにカスタマイズされていた。蝶のような羽根を持った小人の姿をしている。その顔のあたりをミカがつんとつつくと、くすぐったそうにそれは笑った。外見も相まってまるで生き物のようだ。
「お姉さま、アリスが怖がっているの。私ではうまく言ってあげられないみたい。なんとかしてください」
妹ティアの弱り切った顔を見て、ミカはふふっと笑った。
「アリス、スローンズはセントラルに比べて気質がゆるいのです。そんなに畏まらないでください。私たちのほうが戸惑ってしまうわ。きちんと教えてあげられていなくてごめんなさいね」
やはりアリスは中央出身らしい。もうちょっと考慮してあげられればよかったと、ティアは内心でしょげる。
「気づかなくてごめんね」
アリスは仕える家の姉妹揃って謝って来られて混乱しつつも、落ち着いてはくれたらしい。
「さ、左様でございますか……申し訳ございません、お気遣い痛み入ります……!」
へたりこんだ状態で頭を下げられてはまるで土下座をされているようだ。
姉妹はへにゃりと似たような顔で苦笑する。
「アリス、あちらに行きましょう。少し休まなければ本来の仕事もできなくなってしまいます。ティアのせいですからゆっくりしてくださいな。セリカにお茶を用意してもらうわ。彼女も交えてお話をしましょうね」
そう言ってミカが視線を向けたのはガゼボだった。この状況を予想しながらティアに話しかけたのだろうか、そう言えば姉の専属メイドのセリカの姿がない。
「では私は、あそこから見える範囲で運動しますね」
「あなたも普段からやりすぎな気がするから、一緒に休ませたいのだけれど……」
「背なんて低かろうが高かろうが何も変わらないわ」
事実、背が低いほうだというミカは、遠いセントラルの訓練校でも一目置かれているくらいの戦闘機乗りらしい。辺境伯の娘とは言え地方校の学生の名が中央校にも知られているなんてそうあることではない。
ミカがそうであるためにティアがこんなことを言ってしまっているのは姉には薄々分かってしまった。ミカは困った顔をする。
「手足が届く範囲が広ければそれだけ触ることのできるスイッチやハンドルが多くなる場合もあります。慢心してはいけませんよ」
そう言われてティアははっとした表情を浮かべた。
「……ごめんなさい、あさはかでした……」
しゅんとする妹の頭をミカは撫でる。
「あなたはこんなに小さいのにそういう難しい言葉をどこで覚えるのかしらね。運動ばかりしていないで文官になる道も考えなさいな。きっとティアが選べることはたくさんありますよ」
「私はお兄様やお姉さまのようになりたいのです」
姉は苦笑しながら、少し拗ねたような表情でそう言う妹の頭を再び撫でるのだった。