ママ
涼平が見つかったという連絡が警察から届いたのがつい二週間前だった。そして返ってきたのが三日前。涼平が保管されていた場所は、霊安室というのだろうか。とにかく肌の色は白く、蒼い。体にはきちんと死装束がきせられているから、そこにある傷は全く見えないままだし、顔にはお化粧もされてあるようで、まだ綺麗なものだった。ただ、それがかつて夫であった者の体であるということの認識には至らない。
ただ慌ただしく通夜と葬儀を執り行い、ほっと息を吐くも束の間、希穂が「ママ」と可愛い声で由利を呼んだ。
「どうしたの」
「あのね、猫ちゃんがいたの」
あぁ、飼っていい? なのかな。希穂はまだ父親が死んだということにピンと来ていないのだろう。腐乱が激しく、彼の顔も見ていないのだ。青白く体裁だけを保たれた死に顔を娘に見せる気になれなかったのだ。それに、最初に嘘をついたのがいけなかったのかもしれない。希穂に心配を掛けたくなくて「パパはお仕事でしばらく家に帰ってこないの」と告げたのがいけなかったのだ。
「ごめんね、もう少し落ち着いたらね」
そういう由利自身、まだ涼平が死んでしまったということがしっくりきていない。まだどこかで生きていて、ひょっこり帰ってくるような気がするのだ。だから、一応体裁を保たれた涼平の変わり果てた姿を見た時以来、泣けていない。どこか夢心地。どこか、偽物の日々を由利は生きている。
「……わかった」
希穂には悪いが、今は猫どころではないのだ。あぁ、でも、猫に会いに行けばまた欲しくなるのだろう。
「希穂、もう猫ちゃんの所に行ってはだめよ。夏休みも終わるし、来週から学校にも行くから、宿題もしておくのよ」
納得できないながらも、希穂は不承不承というふうに頷いた。階段を上り、自室へと戻る希穂の足音を聞いてから、由利は仏壇をもう一度眺めた。
遺影の涼平は笑っていた。しかし、最近どこか上の空で、どこかおかしかった。話をしていても、食事をしていても。それは、本当にわずかな変化から始まった。会社で何かお小言でも言われて落ち込んでいるのかな、と思ったこともあった。しかし、共働きの由利は忙しさにかまけて、それを言葉にしなかったのだ。後悔はしている。……後悔はしている。だけど、遺影の涼平は笑っているのだ。
それじゃないんだ。
遺影はそんな風に言っているような気がした。
涼平が見つかってから帰ってこなかった理由には、彼の内臓が欠損していたということが関わっていた。まるで食いちぎられたように腹から抉られ、腸が引きずり出されていたのだそうだ。しかし、致命傷は頸にある突き傷のようなもの。まるで獣の犬歯が刺さったかのような傷が涼平の頸動脈を切り裂いていたのだ。しかし、結局、それも問題視されなくなった。
由利のせいである。
なんとなく、涼平の様子が変だったことを伝えたせいだ。しかし夫婦仲が悪かった訳では決してない。会社での人間関係だって、お通夜、告別式の様子からすれば良好な方だろうと思えた。
それなのに、死んだ後なのに、鬱だったのだろうと診断された。七月中旬の暑い日中、飲み食いせずに歩き回った。幻覚とふらつきから逃げ込んだ先が人気のない路地だった。熱中症で意識を失う。その後、野良犬か何かに食べられた。
犬、なのだろうか。
何故か由利はここで引っかかった。涼平を見つめる。
それじゃあ、ないんだ。
どうして、そんなこと思うのだろう。警察の説明では後付が多いものの、無理矢理なところはないはずだ。涼平の顔を眺める。
「猫の声が聞こえるんだよな。最近」
「ねこ?」
「そう」
まともに会話した最後の言葉。猫が呼んでいるような気がするんだ。しかし、涼平はそれを伝えてうっとりと目を細めていた。
「もう、気持ち悪いこと言わないでよ」
…………。………。
猫。……。猫ちゃんがいるの。
え、
猫に獲られる。そう思った瞬間、時を止めて、崩れるように仏壇の前に座っていた由利は徐に立ち上がり、すぐさま何かに引き摺られるようにして、走り出していた。
「きほっ」
乱暴に開かれた扉に驚いた表情で由利を見返した希穂が、由利の目に映る。そして、そのまま、希穂に抱きついた。驚いた希穂の泣き声が由利の胸の中からくぐもって聞えてきた。
「きほ、きほ、きほ」
由利は娘の名前を呼び続け、慟哭した。何分くらいそうしていたのだろう。胸の中から聞こえる希穂の声に由利は耳を傾けた。
「ママ、どうしたの?」
「きほ、あのね、その猫ちゃんの声に近付かないで。お願いね。お願い……お願いだから」
母の切なる願いに希穂は頷いた。
「ママ、大丈夫。あの猫ちゃんのところには行かないよ。お姉さんが連れて帰ったから。それでね、お姉さんが怖い話教えてくれたんだ。学校が始まったらみんなに教えてあげるんだ」
そうすれば、あたしが行かなくても、白クツシタちゃんが来てくれるから。白クツシタちゃんと振り返ってはいけないゲームをしてあそぶの。きっと楽しいと思うんだ。
白クツシタちゃんはその怖い話が好きで、聞きに来るんだって。
夏休みが終わって授業が始まる。
暑い運動場には誰もいない。みんな教室の中。
子どもの声が、足音が、椅子を引き摺る音が。
響いている。
耳を澄ませば、猫の声。ほら、聞こえるでしょう?
はしゃいだ悲鳴が空に消えていく。
七日の後に見えるまでは……
決して振り返ってはなりませぬ。