希穂
パパがお仕事でしばらくいないということをママが希穂に教えてくれたのは、パパが帰って来なくなってから二日経ってからだった。希穂は多分『あの日』という日をパパがいなくなった日だと感じていた。
友達の花梨ちゃんの家で遊んでいると雨が酷く降って来て、慌ててママが傘とレインコートを持って来てくれたあの日。きっと急なお仕事で、パパは急に走って出て行ってしまったのだ。
希穂とママが小雨になってきた雨を見上げ、急がなくても良かったよね、と笑いながら玄関を開けようとした時に、ママが不思議な顔をしたのだ。あれ、というような。首を左に傾げると、ゆっくりと扉を引いて開け、「パパァ?」と大きな声でママが呼んだのだ。
「ただいま」じゃないの?と思ったことを希穂は覚えていた。日曜日の夕方だった。
次の日から希穂は学校へ行くのだが、その時の朝もパパの顔を見ていない。だから、『あの日』パパはおうちからいなくなったのだ。しかし、希穂のパパはよく出張というもので家にいないことがあった。今回も同じようにしばらくすれば戻ってくるものだと思っていたのだ。それに、その日から希穂は忙しくなった。
学校帰り、猫を見つけた。白い靴下をはいた黒い猫。比呂ちゃんと一緒にその猫に名前を付けた。
「白い靴下をはいている猫だから、白クツシタちゃん」
比呂ちゃんの付けた名前はとってもかわいいと思えた。白クツシタちゃん。それに、白クツシタちゃんは比呂ちゃんよりも希穂に懐いてくれているようなのだ。にゃあ、と鳴く声。ピンと立てるシッポ。すり寄ってくる体温。全部可愛い。
希穂はその日から毎日、冷蔵庫から白クツシタちゃんの食べられそうなものを探すことになる。
猫だから、お魚かな。そんなことを考えて、こっそり、めざしを冷蔵庫から抜き取り、またこっそり玄関から出て行く。希穂が帰ってくるとすでに比呂ちゃんがカニカマを持って、白クツシタちゃんを呼んでいた。まだ出て来ていないようだった。それが、何の自信なのか分からない何かが、希穂の中に溢れて来たのが不思議だった。そして、希穂も一緒に白クツシタちゃんを呼ぶと、すぐに返事が返ってきて、めざしから食べてくれたのだ。希穂は満足だった。
ママはあの日から何だか様子がおかしい。そわそわしていて、希穂のお話もあまりちゃんと聞いてくれなくなっているし、パパの話なんかすれば、急に怒りだして「仕事で出かけているのよ」と同じことを言うだけだし。希穂はただ、もうすぐパパ帰ってくるの?と尋ねただけなのに。
夏休みも近いから、早く帰ってくるといいな、と思っただけなのに。だから、ママには猫のことは黙っておいた。本当はママにも可愛い白クツシタちゃんのことを教えてあげようと思っているのに、そんなママには教えてあげない。
遊んでくれないママには教えてあげない。
そして、一週間が経った。白クツシタちゃんは毎日そこにいて、ちゃんと希穂の食べ物を口にする。比呂ちゃんは時々いないこともあったけれど、二人して白クツシタちゃんを可愛がっていた。それなのに、比呂ちゃんもいないその日、黒いワンピースを着た女の人がそこに立って、希穂を待っていたのだ。
「猫のお世話をしてくれていた子ね」
希穂は嫌な予感を感じながらも正直に頷く。
「あの猫、もうここには来れないから、お別れを言いに来たの」
「どうしてですか?」
希穂の声はとても小さくて、女の人の耳に届くか届かないかの声だった。しかし、女の人は優しく身をかがめて微笑んだ。
「お引越しをすることになったの。だから、今までありがとう」
そして、彼女は希穂に楽しいことを教えてくれたのだ。
白クツシタちゃんが好きな遊びとお話を。