涼平
窓から入って来ていた熱風が急な冷気を孕んで、禍々しい雲を運んできたようだ。雨が降るのかもしれない。窓の外にある小枝が風に嬲られ揺れる。太陽を覆い隠した曇天。分厚い雲が生き物のように蠢き、犇めく空。雨の音がしめやかに響き始めた。
通り雨か。
読んでいた文庫から目を離し、窓の外に目を向けていた涼平の目の前を、さっきまで小気味よく包丁を叩き鳴らしていた妻が慌てて通りすぎた。
朝は暑すぎるくらいの晴れだった。天気予報なんてあてに出来ないわね。なんて言っているから、洗濯物に走らなければならないのだ。妻を見た涼平の目は冷ややかだった。
雨は止まない。そして、激しさを増している。全ての音を飲みこむ雨。涼平は窓を閉めながら、景色の奥をじっと見る。雨は窓を叩き始める。
「パパ、希穂、迎えに行ってくるから」
妻の声が玄関から響いてくる。色気も何もない日常の声。つまらない。涼平はあの日の情動を欲していた。
あの女が涼平の脳裏を掠めていくのだ。
あの女に出会ったのは、やはり雨の日だった。夕立の時刻をとっくに通り越して、真夜中に差しかかろうとする時刻。涼平はその雨の音に大きなため息をついていた。30分程で止むだろう予測は立てられるが、雨の激しさに怒りを伴う溜め息が体の奥底から吐き出されたのだ。地面を打つ雨は大地に弾かれ、屋根を打つ音が全ての音をかき消していた。
雨の音しか聞こえない。
「今日は雨の予報だから。傘は入れたの?」
朝は晴天。雨など降りそうもなかった。妻の言葉が恨みがましく再生されて、舌打ちする。このまま帰っても気分が悪い。帰るのは諦めてしばし雨宿りがいい。ちょうど、雨が涼平の苛立ちを冷やしてくれるだろう。諦めて漠然と雨を数える。そして、同じように雨を数える女を見つけた。
空を眺め、傘を持たずに駅舎に身を寄せるようにして立っている。黒いワンピースから伸びる白い手足。改札から漏れてくる光に光る白い顔。長い睫もその湿りを受けていて妙に艶めかしい。
最終列車から降りた改札口で彼女が一人ぽつねんと雨を眺めていた。
闇を溶かした様な長い髪がしっとりと濡れている。年齢は涼平よりも上だろう。
あぁ、雨にあって困っているんだな。
そう思ってすぐに、彼女の唇が微笑んでいることに気が付いた。よく見れば、大きな瞳は光に映る雨粒を捕らえ、好奇心に輝かせているようにも見えた。自分と同じように困っていると思ったはずの女は、この急な雨を喜んでいるのだ。
変な女だ。しかし、その様子は扇情的で涼平の気持ちが煽られるようだった。涼平の中にある何か、日常に対する倦怠を解放させたいような、そんな危険を冒したいような。様々な感情がパチパチと弾けていく。
そんな涼平の視線に気付いたのか、女の視線が涼平とぶつかった。
妖艶極まる彼女には全てを包み込むような微笑みが残されていた。それに誘われるようにして、彼は彼女の傍により、声を掛けた。
「雨、楽しいですね」
雨の音が小さくなっていく。どこからか猫の声が聞こえていた。
ある男が鹿狩りに出かけていた。今日は全く獲れないと、土を蹴飛ばし歩いていたら、遠くからかよわい声がした。「誰か、誰か、おりませぬか」よもや、狐や狸も化かすという山。女であるならば、助けてやらねばならぬ。妖の類ならば成敗してくれよう。そんな情動に動かされ、男の足は声の方へと向かっていた。
そこにいたのは何とも美しい女だった。旅装束に身を包み、市女笠より垂れるカラムシから覗くその瞳は艶めかしく濡れていた。男はその瞳に吸い込まれるようにして、女の手を取り屋敷に連れ帰った。
「その男は、その女はどうなったと思う?」
女はやはり面白そうに目を細めて、涼平を見つめていた。
雨の中、女が涼平に聞かせた話だった。
雲は風に早く動き、あれだけ騒々しい音を立てていた雨音が、終わりを告げ始めていた。
遠くに猫の声が聞こえた。あの時と同じ。扉が開く。
猫の声が涼平の真後ろで聞こえた。