二章・壁を超えるなら軽やかに《Part_A ――鳩羽渚の場合》
俺と家族との関係性は、取り立てていいものではなかったに違いない。
父とは、同じ家庭内にあったが疎遠であって、妹とは険悪の二歩手前といった有様。母ともどうにも反りが合わず、顔を合わせては喧嘩ばかりであった。
ただ、特別劣悪な関係性であったとも思わない。
思春期の子供を同時期に二人も抱え込んだ家庭なら、ある程度の軋轢はあってしかるべきだと思う。
だから、
恐らくは俺たち全員が、「あとはよくなるだけだ」と考えてこの冷戦を乗り切っていた。
果たして、そのような関係性の摩擦は今日に至るまでに比較的解消しつつあった。
《Part_A
――鳩羽渚の場合》
「次、舞浜」
「はい」
端島の声で、俺は立ち上がる。
入学初日の遠慮があると見えて、まったく教室には私語の一つさえない。
昨日に続きうららかな日差しの下、室内には瑞々しい緊張が立ち込めていた。
「舞浜夏樹です。好きなものは休日、嫌いなものは平日です。よろしく」
辺りから軽い笑いと拍手が上がる。
全く端島も粋なことで、「好きなものと嫌いなもので大喜利しながら挨拶しろ」という無茶ぶりド真ん中のイントロダクションを用意してくれたおかげで、空気感はここに至るまでに多少解れていた。あとついでに言うと、笑いのハードルもぐっと低い。正直言った俺をして大して面白くもない挨拶であったが、周囲には思いやりという名の笑い声が湧いていた。
「ちなみに浪人生です、よろしく」
「「「「えっ」」」」
「うん、よろしくな。じゃあ次……」
端島の言葉が切れたのは、教室が一気にどよめいたからであった。
しれっと言ったら何とかなる作戦、見事に失敗である。
「……あー、静かに。舞浜も何か言ってやれ」
「……。」
マジで無茶ぶりである。俺のターンは終わったはずだ。
「あー、えーっと。……浪人生です、気軽に長老って呼んでください」
くすりとも起きない。遅れて遠慮がちな拍手が立ち上る。
それで俺は、ふと気になって佳城の方を探してみる。プレッシャーになってなければいいのだが、
果てさて……?
「……、……」
――めちゃくちゃ中指立ててた。
かくして、波乱のクラスメイト顔見せタイムはここに完了する。
十五分の休み時間を言い渡された教室に巻き起こるのは、静かなる喧騒であった。
「あー。……いやあ、まいったね」
俺は後ろの生徒、高杉君に声をかける。
ちなみに先ほどカミングアウト前に話しかけたときは、やや軽めの声がデカイ系男子という印象の男であった。
「あの、……すみません。タメ口で話しちゃって」
「いいよー気にすんなー俺とお前の仲だろー(焦り)」
これはマズい。声のボリュームが半分くらいになっちゃってる。周りの連中がめちゃくちゃこっちの様子を窺ってるっ。何も悪いことしてないのに高杉君めっちゃ肩身が狭そうだ!
「いや、君らもね? タメ口で来てくれると助かるよ?」
これからしばらくの仲なんだしー? という俺の言葉に、何人かの返事が返ってきた。
……というか「うっす」って返ってきた。敬語じゃねえのは間違いないけどこれはこれでどうだよ。一周回ってちょっと失礼なんじゃないの?
「改めて、俺は舞浜。こっちが高杉君ね。……それで、君は?」
とりあえず手近な奴を捕まえて名乗らせてみる。彼らは順番に、遠田、杵築、丸戸と名乗った。
……あれ? これちょっと覚えらんなくない? という俺の戦慄は置いておいて、どうやら俺回りは良い意味で悪目立ちしてくれていたようで、遠巻きに見ていた連中が更に数人流入してくる。
それぞれ名乗りあいながら、更に別の人間を手招きで誘い、遂に俺の周りにはクラスの男子のほぼ全員が集まってきた。
「……、……」
いや、それはちょっと語弊がある。
正確には、いつのまにやら俺は輪の中心を逸れてしまっていた。熱が逸るままに連絡先の交換などを始める彼らに何とか食らいつきつつも、俺は次第に輪の外周の方へと押し流されていく。果たして、そのまま輪の外に押し出されるまでに、それほど時間はかからなかった。
「…………(くやしい)」
まあいい、いいことにしよう。
パッと見た感じでは、もうこちらに注目しているような人間はいない。これならば途中棄権でここを離れても嫌な目立ち方はしないだろう。
さて、と。
ひとまずは、トイレで顔を洗うことと決める。
そのまま、視線を買わないようある程度の配慮を以って、俺は静かに教室を出る。
「……、……」
果たして、教室の外というのもなかなかのごった返しっぷりであった。
「――――。」
「――――。」
「――――。」
幾重ものやり取りが廊下中で展開されている。
そのいずれもがやや過剰な熱を持った様相であって、どこか無理をしたような印象である。
無理もない。むしろ、無理をすべきだと思う。俺は、そんな最中を一人でトイレの方向へと向かっていた。
昨日の休日出勤の甲斐もあって、トイレの具体的な場所とまではいかなくても、建物の配置の雰囲気までならつかめていた。どうやら、この階層のトイレは教室並びの中間くらいにあると見える。
「……、……」
一年一組から、確か六組まであるのだったか。その中間と言えば三組と四組である。
当然、それはまさしく新入生の喧騒のど真ん中と同義に当たる。
……今のうちに穴場のトイレを見つけるというのもありかもしれないだろうか。
「……。」
そんな思考の直後に見つけた上り階段に、俺は逃げ込んだ。
背後に広がる喧騒が、階段を一歩上るごとに薄らいでいく。上層は、妥当に考えれば二年生のいる階であろうか。俺の向かう先は、しかし人気を全く感じないような静寂が待っているように感じられた。
いや、
どうやらそれは過剰な表現だったらしい。階段の踊り場についた辺りで、俺は一方的な話声のようなものを聞く。つまりは、授業での講釈の類に当たるものである。果たして、やはり二階の教室では、まだホームルームが続いているようであった。
「……、……」
廊下の左手向こうに、トイレの表示が確認できた。ちょうど一階のトイレと座標的には同じ位置に当たる場所である。
ただ、一年生のホームルームがすでに完了していることを考えれば、近いうちにあそこも学生でごった返すはずだ。確認してみると右手の通路には、更に広がりがあるようであった。
そちらに向かう。
教室の内容物に気を使って多少姿勢を抑えた格好での行軍であったが、歩調だけは少し急ぐ。
果たして、その先に見つけたトイレに逃げ込んで、まずは蛇口をひねり流れ出した水流に両手をさらした。
「……。」
しばらくそうしていると、扉の向こうから喧騒が流れ込む。この階層の生徒たちもホームルームを終えたようであった。
ただし、聞けども聞けども近づく足音は無い。俺は気持ちを落ち着ける意味で、一度辺りを見回してみた。
……まずは、今更ながらこの部屋の匂い、安い芳香剤が充満した空気感に気付く。床から壁から天井から、その全てが水色に塗装されていて、擦りガラスの越しの日差しを受けている。そのようなパステル色のおかげで、陰気な印象とは程遠い。
また、個室が四つ、小便器は五つある。それぞれ古びた様子は無く、むしろ使用されたような痕跡は、探さなければ見つけられないほどに些細であった。どうやら俺は、期せずしてさっそく穴場とも呼ぶべき一か所を見つけてしまったようである。
「……、……。」
いや、「便所飯には最適☆」とかじゃない。
とりあえず人のいない場所の一つとして覚えておく、それだけである。マジでね。
ただ、地の利を得ないこの状況ではここで暇を潰すのも一考かもしれない。それにあたり、俺はまず擦りガラスの施錠を外し、戸を開く。
……そして向こうに見えたのは、どうやらすぐ向かいにあったらしい校舎の白塗りの壁であった。
「……。」
つまり、対岸の壁には窓の一つもなく、全く「つまらない」の一言で済むような退屈な景色である。ここで暇を潰すのは流石に無理がありそうだ。
「……」
俺は、気勢をそがれてその場所を出ることとした。
窓を閉めて、乾いた靴音を立てながら個室をいくつか通り過ぎて、そして扉に手をかける。
その思考の最中には、この後に向かう場所のアテを思い浮かべる。このまま帰ったのでは時間を潰すのには不十分であって、もうしばらくは徘徊を続ける必要があった。
さて、と。
扉を押しのける。蝶番が罅た音を立てる。
それが、――二つ。
「あっ」
「おうっ」
音の先に視線を向けると、今まさにトイレから一歩踏み出した姿勢のシルエットがあった。
何の因果だろうか、――それはよく見れば佳城であった。