一章・04
「そういえばさ」
「はい?」
「……なんでついてきたの?」
……暇だったから? と彼女は答えた。
外から見た通り、施設の足元に広がる芝生は見事なものであった。さらに言えば、入り口からの景観で得た印象よりもずっと広く感じる。
門扉を通りすぎ、両側に立つ施設群を抜けてみると、全くそこは広場と呼ぶべきに違いない景色が広がっていた。
「俺も、そんなところだけどな」
言いながら、視線は芝生に降りる陽光に吸い込まれる。佳城の方も、口調にはすこし明後日を向くようなニュアンスが混ざっていた。
久しく、こうして外の様子を眺めるような機会がなかったためだろう。いつのまにやら昼下がりが長くなってきていたことに、今更のように俺は気付いた。
時刻は、おおよそ二時に当たる。
おそらく、今日の昼下がりはここからが長いはずだ。
「どっか座るかい?」
「いいですよ」
そういえば佳城、先ほど学校でやり取りした印象とは違った雰囲気があるように思う。
敬語こそ抜けていないが、なんだか砕けた語調である。その人懐っこさは、小型の猫のような感じだ。
「自販機かなんか、あればいいんだけど……」
「私は飲み物ありますケド」
「……じゃあ俺もあるんだけどね」
じゃあ? と彼女はオウム返しに小首をかしげる。
俺はそれを眺めつつ、バッグからウーロン茶のペットボトルを探り出した。
「こういうもんがあった方が、気が楽かと思ってさ」
彼女の方が砕けた態度であってくれたために忘れそうになるが、俺と佳城は今日が初対面である。ふとした話題の空白なんかはあってしかるべきだろう。そういう時に、例えば飲み物を飲むだとか、そんな別の用事があれば沈黙は苦になり辛い。
感覚としては、話題の勢いが振るわない休み時間に「眠いわー」とか言ってお茶を濁すやつのお洒落バージョン。他にも、会話の勢いがつきすぎたときのセーブにも使える優れものである。相手への返答の前に一口挟むだけで、一気に話題が沈静化したりするのでおすすめ。俺は誰に何を言っているんだ。
「しかしお互い、難儀な身分に落ち着いたよなあ」
あまり会話に空白が開くというのもうまくはない。俺はとりあえずで適当な話題を一つ放り込んだ。
……ただ、パーソナルな話に踏み込むのは何となく気が引けて、妙になれなれしい言い回しになってしまったのは失敗だっただろうか。
「私は」
少し待って、佳城が返事を返す。
「結構楽しく一年暇してましたけどね」
「そうなんだ?」
「はい」
彼女のペースは、少しばかり独特なものだ。或いは、春の陽気に似合った低燃費さである。なだらかな坂道を転がるようにじっくりとしたペースで進む会話は、うだつの上がらない俺なんかにはちょうどいい。
「本気で浪人生してたわけでもないんです。上半期はもっぱら散歩してました」
「……散歩?」
渋い趣味である。
「他にやることもなかったんですね」
「勉強あんじゃんよ……」
「そういう考え方もありますね」
「……、……」
人類の多様性を俎上に出されてはこれ以上言い返せない。ただ親には迷惑かけない方がいいと思う。説教臭くなるから言わないけど。
「舞浜くんは、どの辺に住んでるんです?」
「俺?」
「もしかしたら、散歩で歩いたことあるかも」
説明に困って少し考える。地名や住所を大雑把に言うんでは面白みに欠けるかもしれない。
「S区中心街の外れだな、歩いて十五分くらい」
「中心街っていうと、この辺の?」
「あー、いや」
言われて、更に考える。
狭い街とは言え、地域によってそれぞれ中心地はあってしかるべきだろう。
「映画館とかがある辺りなんだけど、わかるかね」
「ああ、あの飲み屋とカラオケばっかりの?」
「……まあ、そうだね」
我が街ながら、映画館と飲み屋とカラオケしかない中心街ってどんなだよ……。
「私は海の方なんで、あまり縁がないですね」
皆無とは言わないですけど、と続ける。会話の片手間で、なんとなく俺は思い出す。
この街は西の山部から東の海岸線までで、大まかに分けて三つの個所に人口分布が集中している。確かに、俺にしたって他の二か所の中心地と言われてピンとくる場所はない。
彼女の反応も当然のものだろうか。
「いえね、私が出不精なので」
「散歩好きだってのに?」
「街って、用事がないといかなくないです?」
そういうもんか。
近場に住む側としてはちょくちょく用もなく顔を出すものだが、その代わり俺は海にあまり行ったことがない。すこし鼻を鳴らせばすぐにでも潮風が舞い込む街で、敢えて見に行く必要を感じないためである。
狭い街だという認識に変わりはないが、しかしそれでも移動に面倒を感じる程度の直径はあったようである。
「まあ、用事がない散歩が楽しいってのはちょっとわかるなぁ」
彼女が視線で、その続きを促す。
ただ、その続きの内容というのが本当にとりとめもないもので、俺は敢えて、空に独り言を放るような緩慢な口調で言葉を続けた。
「俺も、散歩は好きだ。家にいるよりも外にいた方が性に合う」
元来、風があるのが好きであった。
或いは、屋内の瞼を突く人工灯が苦手な性分でもある。
視線が通らない空間では、こっちまで気分がふさぎ込みそうになる。
疲れない速度でゆっくりと歩けば、案外座椅子で肩を凝らせているよりも疲れとは縁遠いし、それに、本当に疲れてしまったならベンチか芝生でも探せば良い。
概ね、俺は外にいた方がリラックスできる人間だ。
「ジジイの趣味っすねえ」
「こんなきれいなピッチャーライナーあるかよ……」
ブーメランじゃ生ぬるいぐらいのIターンである。まあ、確かに浪人生活なんて勉強しなければ隠居と変わりない。
そういう意味では、改めて学生生活という戦場で生き残れるのかはちょっと心配である。
「これからは、そう頻繁に散歩が出来るとも思えないけどなぁ」
「それはあるかもですね」
そこでふと、佳城がカバンを探り出した。何やら品の良いデザインであって、学生が持つには少し大人びて見えるものだ。その中から彼女は、ミルクティーのペットボトルを引っ張り出した。
きゅりきゅりと、ふたを回す。そして、一口分を嚥下する。
「それじゃあ……」
……そろそろお開きだろうか。支度は彼女の後姿を見送ってからでもよかろうか。
などと思ったのだが、どうやら違った。
「――今日のうちに、しっかり散歩しとかないと」
「あ、そっち……」
次いで彼女は俺を誘う。
それでふと思いたって、俺は彼女に海の案内を頼んだ。