Epilogue__主人公、舞浜夏樹は自室から見える風景を気に入っていた。
風邪をひいた。
「…………………………馬鹿なのか俺は」
開けた覚えのない(さらに言えば昨晩から閉めた覚えもない)カーテンから差す日差しは曇天交じりで、かすかな日差しはやや傾いだ色をしている。それでもなお眩しさが目の奥を焼いて、俺は片腕で瞼を覆う。
……結局昨晩は、あの橋から降りて自分の家に帰ってくるまでに、更に二時間強をもの時間を要した。悪天候の進みづらさは当然あるが、それ以上にどう考えても、昨日は勢い余って遠出をし過ぎた。
帰るまでにも雨はただすら強まっていくばかり。そんながっつりめの雨を歩けど歩けど縮まらない帰り道に一身に浴び続けてしばらく、家に帰る頃にはもう気持ち的には風邪だった。もしかしたらあの時点ではまだ俺は風邪をひいてはいなかったのかもしれないが、曰く病は気からである。「明日ぜってー風邪ひいてる」という確信に至った俺には、この不可避の結末を享受する他に選択肢などなかった。
というわけで、俺は今自室のベッドで横になっていた。
目下の問題は、今日の昼飯である。
準備するには空腹感が足りておらず、俺はそのまま倦怠感に任せてベッドに伏していた。
……果たして、そんな時間を始めてしばらく。そろそろ二時間になるだろうか。いや全く、俺の人生でもトップレベルに無為に過ごした二時間と言っても過言ではなかろう。頭痛のせいで携帯を弄ることさえもかなわず、この二時間に俺がしたことと言えば本当に嗚咽と咳だけであった。
「……。」
ただ、そのおかげか今は、少なくとも携帯を弄れる程度には体調が好転しているという自覚がある。いい加減天井のシミとのにらめっこにも飽きが走りきっていた俺は、昨晩以来より枕もとの定位置に放っておかれっぱなしの携帯に、今日初めて手を伸ばした。
「……、……」
何やら、着信が六つあった。
どれも主要の連絡用アプリに来ていたものであって、画面を点灯させた際に確認できたのは、最も直近に来たらしいものの送り主の名前と、その本文の初めの一行だけであった。
曰くそれは、俺の父からのものであった。そこをタップして確認してみると、メッセージには「学校への連絡は済ませておいた」という旨の一文があった。
……言われてみれば確かに、朦朧とした記憶で俺は父に体調不良を訴えた記憶がある。とりあえずその返信は後回しにして、俺は残りのメッセージを確認した。
一つは妹、もう一つは高杉くんからであった。とりあえずはどちらも俺の体調不良への心配で送ってくれたものらしい。妹の方にはその文面にありありと「義務感」が見て取れたので返信は保留、高杉くんについてもなんとなくちょっとめんどくさくなったので保留である。
さて、
残る三つのうち、まず一つは鳩羽からのものであった。彼女からのメッセージも、これまでのものと同様に俺の体調を慮ったものであった。
曰く、「元気ですか舞浜くん! 元気じゃないですね知ってます(笑) 早く生き返ってくださいね!」という文章と、何やらシュールなスタンプが二つのし付けてある。ひとまず俺はそれに、「死んでねーんだよ?」と送っておく。思いつかなかったのでスタンプは割愛。病人だしある程度ぶっきらぼうな文面でも許されよう。
そして、残る二つにも俺は既読をつける。先に確認してみた限り、送り主はそれぞれ佳城と佐倉であった。やはりというべきか、どちらも俺の体調不良に対する趣旨であると見える。
とりあえずで、まずは佐倉の方を確認する。
曰く、
「……、……」
――「鳩羽から勝手に連絡先を聞いた。申し訳ねえ! 風邪ひいてるんだろ? 俺が無理させたからかもしれないよな。治ったら元気なところ見せてくれ!」とのこと。
「……。」
あれ待ってそういえば俺って誰ともラ〇ン交換してないよね。つまり渚ちゃんとも交換してなかった気がするんだけどなんであの子俺のラ〇ン知ってんの……ッ!?
……いやまあいいか。とりあえず返信である。俺は「お前のせいじゃないよ、あの後サーフィン行ってきたんだ」と適当吹かして返信しておく。そして、佳城のメッセージも確認しようとして、
「ぅおお……」
そこに書かれた文字を見てちょっと感動する。
というのも「そこ」とは、本文ではなくアカウント名である。
果たしてそこには彼女の本名、――佳城透という名前が書かれていた。
……いやアイツ、こんな名前だったんだな。似合わんこともない。
というのは蛇足として、さてと彼女のメッセージは、
――「こんにちは、渚ちゃんから連絡先聞きました。先輩が風邪をひいたのは多分私のせいではないと思います……ッ!(焦)」という内容のものとファンシーな動物が土下座してるスタンプ、というものであった。俺は「別にお前のせいだとか思ってないから大丈夫よ?」と返信をしておく。
すると、
「……、……」
てぃろん、と着信音が鳴り、俺は再び履歴を確認する。
果たして、それは佳城からのものであった。そこには、
「……。」
――「いい経験になりましたか?」と一文だけ。
俺は、
――「……お前、透って名前だったんだな」
と返信して、携帯を放り投げた。それから、……すぐに聞こえた怒涛の「てぃろん♪」三連発は聞かなかったことにして、
「……、……」
昨日の帰り道、ふと考えたことがある。つまりは佳城についてであるのだが、
つまり彼女は、――果たしてどのような文脈で以って、鳩羽と佐倉への協力を是としたのであろうか。というものである。
俺は、彼らへの接触をそもそも忌避していた。ゆえに俺は彼ら彼女らへの助力に乗り切れない。しかし佳城は違ったらしい。ならばこの選択の差には、俺と佳城のスタンスの差異があるのだろう。
佳城が人を許す人間だとすれば、ならば俺は仮定的に、人を許さない人間なのかもしれない。彼女は、「喜び慣れていない」と俺を評した。
――昨日の、あの橋の上での「感動」で以って俺は、
「……。」
悲しいという感情が身体に及ぼす感覚を、身をもって知った。あの喪失感は、今をして思えば少しばかり、身が軽くなるものではあっただろうか。
結局俺は、母さんとの別れを済ませられていなかったのだろう。あのよく晴れた日以来、俺は心に蓋をして生きていたのかもしれない。当然、自覚などないのだが。
「……、……」
佳城の理屈を、俺はイメージする。
鳩羽のあの嵐のような身勝手は、「許せる人間」からすれば楽しいことへの貪欲さに言い換えられるだろうか。佐倉の未熟についても、ある意味で言えばそれは誠実さであり、また責任に対する誇りと言い換えられるかもしれない。
或いは、
「……。」
そもそも弱い人間を自負する佳城は、鳩羽のバイタリティを、佐倉の気高さを、眩しいものだと感じていたのだろうか。
俺も、――ふと、そう感じてしまった。
「……、……」
アイツらの、「幸福や成功や楽しいことへの貪欲さ」は、素直に、俺には欠けたものであった。
俺は、
ベッドから足を下ろし、立ち上がった。
「……、……ふぁ」
身体が伸びると、たまった気だるさが欠伸となる。
そのまま俺は軽く背筋を伸ばし、そこで数歩たたらを踏む。流石に、まともに歩けるほどの体調ではないということだろうか。ただ、嫌気を催す頭痛や吐き気はいつの間にか立ち消えていて、俺の身体に未だ残るのは濃厚な疲労感と倦怠感のみであった。
これなら、低気圧に気分の上がらない平熱時とも変わらない。低血圧とは曰く身体が「休む準備を整えた」体調であるというし、このまましばらく伏せていれば、明日にはむしろいつもよりも気分が晴れるかもしれない。
それにあたり、俺は振り返らずに、自室の出口のドアを目指した。
とはいってもほんの数歩である。気だるいで動作で俺はドアに手をかけ、ドアを引き、部屋の外への一歩目を踏み出して、
それを踏み込む直前に、俺の右足は空中で静止した。
「……、……」
というのは、足元に見慣れないものを見つけたためである。更に正確に言えばそれは一〇〇〇ミリサイズのスポーツ飲料ペットボトルが二本と、なにやら土鍋が置かれたお盆であった。それが、俺の部屋を隔てる扉のすぐ足元に鎮座していた。
「……」
いや、正確にはもう一つであった。俺は土鍋の縁と蓋の間に挟まれたメモ用紙の存在に、遅れて気付く。
まず、その筆記に心当たりはない。果たしてその内容とは、
「――――。」
――元気になったら、食べてください。
と、書いてあった。
「……、……」
その文字は俺の筆記では当然なく、また時折ホワイトボードに伝言を残す妹の文字とも違うものであって、つまりは察するに、父さんの字であった。
俺は、遅れて辺りを見回す。或いは無意識的に父さんの後姿でも探したのだろうか。夕刻に至るであろうこんな時間に当然そんなものがあるわけもなく、俺が視線を振り回して捕まえたのは人気のない廊下の様子だけであった。
……あとは、廊下の空気が心地よく冷えていたことくらいであろうか。遅れて俺は、自分の部屋が妙に湿気に蒸していたらしいことに気付いた。廊下の冷たい空気感の方へと顔を覗き込ませると、俺の火照った頬や額がさらりと乾く感覚がある。
また、翻って、汗ばんだ部屋着の内側が妙に気に障る。
さてと、ならば。
「……、……」
部屋に戻って、窓を開け放つ。
その一番にさらりと吹き抜けた風が俺の顔を、身体を抜けて部屋を洗う。俺は一つ、なにやら香りが変遷したような錯覚を覚えた。
そして、お盆からまずは一つスポーツ飲料を拝借する。ついでに土鍋の方を見てみると、その中身はどうやらお粥であるようだ。
恐らくは、父の手製に違いない。ウチの料理当番はもっぱら俺か妹であって、あんなふうに不格好な出来にはならないわけで、
「……。」
ただまあ、腹が減って見ればアレでもそれなりにうまそうには見えた、何がいいってちょこんと乗った梅干しが良い。味のぼやけたお粥でも、梅干し一つあればそれこそが「味」になる。
むしろ、梅干しの酸味をイメージしてみたらなんだか腹が減ってきた。せっかく土鍋に盛って貰ったものであるわけで、せっかくならコンロで火入れしなおしてちゃんとおいしく味わってもよかろう。或いは味見をしてみて、俺の想像通りあのお粥がマジで本当にただ白米を水道水に浸しただけの料理であったなら、その時はうま味調味料と卵の一つでも落としてやればいい。その程度なら手直し未満のシーズニングである。目玉焼きに醤油をたらすのと変わらない。ちなみにソースの垂らすのはアウトである。アレは正直犬の飯だ(個人的見解)。
「……、……」
ただまあ、今はもう少し、このままでいよう。
俺の部屋はこの家の二階の最東端にあり、特に今のような時間帯には、角度の強い西日の写る風景がそれなりに粋なのである。汗をかいて乾いた身体にぬるいスポーツドリンクが染み込む程度の遅々とした速度感で落ちる日差しをみれば、黄昏はどうやら今しばらく続くらしい。少し冷たい風を顔に浴びながら見る建物の影は、まあそれなりに美しいものではあった。
そんなものだから、ふと俺は呆けてしまって、
そうして内向的となった思考が、一つ「つまらないこと」を思いついてしまう。
つまり、――昨日も考えたことではあるが、人生の基本は不幸せである。幸せになろうとしない限り、幸せではない間は、人間は基本不幸せである。「幸せになるために生きるのだ」みたいなフレーズは頭が茹立った連中がよく駅前で叫んでいることだが(個人的な意見だよ?)、むしろ「生きるために幸せになる」というのは一つの真理なのかもしれない。なにせ、不幸せに生きるくらいなら俺は死んだほうがましだ。
他方、俺はそもそも死にたくはないし、だからこそ死ぬことはしない。死にたくないというのは、人類に普遍的な感情に違いない。
ならばやはり、生きるために幸せになるべきなのだろう。幸せになるには努力が必要で、昨日の俺なぞはそれを厭うて面倒くさがったりもしたのだが、さてと。
「……、……」
今日は曇天ながら、それなりにいい天気ではあるように見える。
虹でもかかれば言うことなしだが、ここから見える空は、突き抜けた果てに高く西日色の雲が群れを成すばかりである。ただ俺は、そもそも曇天というのが好きな質であって、文句はない。
また、戴くスポーツドリンクもそれなりに旨く、この後に待つお粥の方も、俺の手直し一つでもっとマシな味にはなりそうだ。それに加えて今日は、友人からの連絡と、珍しい人物から手紙をもらったというのもある。
概ね良好だ。「悪い日」と比べれば今日は「良い日」であって、比較検討、今日の俺は「幸福」であった。ゆえに、貰って余った活力なら、少しばかりは「努力」に当ててもいいと思える。
生きるためには幸福である必要があり、幸福であるためには努力が必要であるならば、つまりは今日は、その努力をするにはもってこいの日に違いない。幸い俺は、その努力の「しかた」にはアテがある。
つまりは、楽しいことをすればいいのだろう。いつかのふざけたコントであったり、或いは真面目な読み聞かせであったりのような「楽しいこと」を。
「……、……」
それにあたり俺は、メッセージアプリより佳城のアカウントを探し開いた。
正直な話、――彼女と俺であれば、楽しいことなどいくらでも思いつく気がしたのである。
が。
「…………………………………………。」
そこに連なるメッセージ。先ほどの怒涛の「てぃろん♪」三連発の内容が目に入り俺は閉口する。
ちなみにその内訳とは、「風邪ひいてりゃ調子乗ってもいいとか思ってんのかセンパイ」というフレーズと、何やらファンシーな動物が物騒なポーズをとっているという二種類のスタンプであった。
……風邪ひいてりゃ調子乗っていいのかは置いておいて少なくとも風邪ひいてる人間に送っていい暴言じゃないとは思う。俺これで傷ついたせいで風邪が悪化したら佳城さん看病しに来いよこの野郎(下心)。
「……、……」
というツッコミをそのままおくったらなんとなく俺の株が大暴落するっぽい気がしたため、その代わり俺は簡単な言葉をスマホにて打ち込み、彼女に送信した。
つまりは、――「また明日」と。
俺は彼女に、そう返した。
《アトップ・オブ・ザ・ワールド おわり》
※今作品は以上で簡潔となります。
拙い点の多い作品だったとは思いますが、皆様の迎える春に少しでも花を添えられたなら幸いです。
ここまでのお付き合い、ありがとうございました。もし縁がございましたら、またどこかで。




