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三章・02

※次回、最終回

投稿は今日のお昼12時頃を予定しております。

今しばらくのお付き合いを、どうぞよろしくお願いいたします。



 佳城は俺を、感動を知らない人間だと言った。

「……。」

 その真偽は定かではなく、ゆえに或いは本当に、俺は感動を知らないのかもしれない。

 だから、俺はひたすらに橋を上る。左方のクンクリートを叩く雨粒も、右方の虚空に落ちていく雨粒も、強まりこそはしても緩むことがない。時を経るごとに頭上の街頭は光源を抽象的にしていくし、景気のいい音を受け続けた俺の耳はすっかり馬鹿になってしまって久しい。

 肌の表面が水しぶきに吸われる熱を失ってしばらく、俺が覚えていたのは妙な温かさであった。傘から落ちてうなじに滴る雨粒が、どこか温かみを帯びて感じられる。

 そんな道中にて、

 ――この橋の天辺までは、もうしばらくであった。

「……、……」

 ふと俺は、鳩羽渚のことを思い出した。

 彼女はあの日、俺と初めて出会ったその開口一番に、俺に恋の話をして聞かせた。今更ながらに正気を疑う真似である。かような感情は、元来大手を振って唄っていいようなものではなかろう。

 ……橋の果ては未だ程遠い。歩く速度と一緒に高度を増す風景は、殆ど地上の景色とも代わり映えがない。

 ゆえに俺は思考に没入する。雨に煙る視界は無味乾燥としていて、他方鳩羽の在り方は余りにも鮮烈であった。

 彼女は結局、彼女自身の求める結論にたどり着いて見せた。野球部の先輩何某との交際権を勝ち取ったことは、振り返ってみれば俺の功績など一つもない。全ては彼女のバイタリティによって生まれたものであった。

 だから思う。人に相談することなどに何の価値があるだろうかと、俺は我が身を振り返る。

 鳩羽は結局、話したいことを話しただけであった。そんなもの、相手が俺じゃなくどこかの壁であっても成立する話である。

「……。」

 俺は、佐倉竜司のことを思い出す。

 理想ばかりを燃やしたアイツは、鳩羽と比べればまさしく真逆の在り方であった。俺と佳城の助けなく、アイツにはあの空間を成功に導くことはできなかっただろう。

 俺がいなくてはどうにも動かないような案件に、果たして如何様の価値があろうか。アイツは、アイツなりの成功をまずは得ておくべきであった。

「……。」

 ふと、俺は視界が一変していることに気付く。

 目に入るのは、雨に濡れた家屋の屋根ばかりである。いつのまにやら、俺はそこいらの建物の背丈を追い越してしまったようであった。

 ただし、今なお「橋の果て」は彼方にある。

 雨に煙るその向こうは、全く虚空の最中へとまっすぐに伸びていた。

「……、……」

 俺は、

 ふと、佳城のことを思う。

 あの喫茶店の一角で聞いた、彼女の強い自我についてを、俺は考察する。

 彼女は自己を、人を許す人間であるのだと解釈していた。彼女の、ストレスを多大に厭う強い自我は、その果てに人を許すための方程式を見つけるに至った。その堅牢たる意識は、遂に無際限の幸福を生み出すシステムを確立した。

 それが嫌だと、彼女は言った。

 ならばそんなものは、幸福ではないのだろう。幸福とは刹那的なものだと皆人言うからには、楽園とは、ストレスを排除した程度で至れる極地ではないのだ。

 彼女を見る限り、ストレスを排除した先に在るのは虚空であった。幸福に囲まれるには、きっと幸福を生み出すリソースの方を確立する必要がある。刹那的な幸福は賞味期限が短く、ゆえに楽園とは、一つの幸福を永久に保持するのではなく、新たなる幸福を永久に供給できるライフラインがある場所の名前だ。

 ゆえに、

 逆説的に、

 幸福とは、欲しくなった都度に探さなくてはならないものであるわけだ。

 どうやら人は、何もしないなら永遠に不幸せである存在であるらしい。

「……、……」

 ならばもう、俺は今ここで死んでもいい。

 幸せを探すなどと言う面倒が生涯付きまとうなら、ここで死んだ方が燃費が良い。

「……。」

 そこで、

「――――」

 ――強い風が吹いた。

「……、……」

 身体があおられて、俺は左手側の手すりに摑まる。それでも服の裾が強くたなびいて、俺は手すりに半ばしがみついた。

 片手で差す傘が強く暴れる。顔を強かに打つ雨に、俺は両目を思わず閉じる。

 物量を感じるほどの風が耳を叩き、鼓膜を圧迫し、そしてやがて、弱くなっていく。

 それで、俺はようやく目を開けた。

 その先に見えたのは、

 ……明確に死を連想する高所の景色であった。

「――――。」

 通り過ぎてきた位置に、文明の光が見える。俺の足下に広がるのは、奈落色をした夜の海である。

 はっきりとイメージが出来る。足元の水面から俺のいる位置までの高低差が至極明確に脳裏に描かれる。仮に俺が今手すりから身を乗り出せば、今俺の顎がら滴った水滴がいずれ水面を打つまでと同じだけの時間をかけて、きっとここを墜落するだろう。

 俺は間違いなく、――ここから落ちたら死ぬ。

「……。」

 かようなイメージがあまりにも禁忌を誘うものであったゆえに、俺は努めて視線を持ち上げた。

 その先には、

 白い街灯があった。

「……、……」

 さらに先には、雨で煙って距離感も不明瞭な空がある。俺はそれを見てなぜだか、

 ――母さんを、思い出してしまった。

「……、……。」

 あの人との別れが、いっそこんな最低の天気の日であったなら、俺は素直に別れを惜しむことが出来たのだろうか。あの人の灰が燃えて晴れた日の暖かな日差しに紛れるさまを見て、それでどうして俺に悲しむことが出来ただろう。あれを見る限り、どう考えたって母さんが向かった先は天国であった。

 粛々と認めるほかにない。悲しくない天気の下で、俺ばかりが泣きっ面を張り付けるというわけにはいかなかった。別れとは、決別とは次のステージへの一歩であるゆえに。

 しかし、さて、

 それでも別れとはつらく、また忌避的な感情を催すものである。――ならば問う。


 ――別れとは、本当に人間にとって必要なものか?


「……、……」

 人は感情の生き物だ。空腹ゆえに食事をし、苛立ちゆえに反りの合わない他者を排除し、倦怠感ゆえに休息をとる。その全ては、人の営みにとって不可欠な栄養素である。であるはずなのに、これほどまでに忌避感を覚える別ればかりはいつまでたっても「そのまま」だ。なぜ未だに、人は別れに対処をしないのだ。

 こんなにも嫌なことなのに、こんなにも強いストレスを生むものなのに、人はいつまで怠惰をむさぼっている? 今すぐに対案を上げるべきだ。人に別れなど必要ない。大切な誰かとは、いつまでだっているべきなんじゃないのか?

 そうだ。そもそも矛盾している。別れとは次のステージへの第一歩だなどとは全く馬鹿げた話である。そんなものはただの妥協だ。かのふざけた概念には全く、大前提に「別れがそもそも不可避だ」という諦めがあることになどすべての人間が気付いている。「別離とは必ず訪れるものだから、せめてそこに意味を見出そう」と、それが彼の脆弱たる発想の根幹にあるものだ。はっきりとあれは、「人類よ妥協せよ」と言っているのだ。そんなものは対処ではなく逃避である。まずそも我々は、「別離が不可避だ」などと言う甘えた前提を否定するべきじゃないのか? そこから目を背けたままでいたら、どう考えたってその大前提に変化はない。別れの絶対性に誰かがメスを入れなければ、どこまで行ったって別れは絶対のままである。それは停滞だ。怠惰である。それが人類の全てに蔓延している。全くふざけている。誰かが否を突きつけようとは思わなかったのか。誰も文句を言わないから別れが別れのままなのだ。即刻淘汰されるべきストレスだ。なにせこんなにも辛いのだ。人との別れが生み出すものがなんであってもこの感情との釣り合いがとれるはずがない。多少の精神性の成長などを見込めたって誰も絶対に選ばない。多大なる換金性があったとしても選ばない。人類すべてに称賛されるような偉業であっても無価値である。俺が、曰く次のステージなる場所に駒を進められるだとか、そんな文句でもって更に素晴らしい何かに変われるなどと言う確約をされたとしても何の意味もない。俺は、俺の、


 ――頬が、熱く濡れていることに、俺は気付いた。

「――――あぁ」


 俺は、あの日流せなかった涙を、流しているようであった。

「あぁ、……あぁあああ!」

 ふと俺は、佳城の言葉を思い出す。彼女に言わせてみれば俺は、そもそも感動の類を知らない人間であるらしい。

 ならばこれが感動か。感情の稼働であるのか。

 俺の、胸のどこかから、何かがあふれ出して、それがどこかから揮発していく。

 燃えるように消えて、しかしそれを追い越すほどに可燃性の「何か」が溢れてくる。どことなく冷たくて、柔らかく、水に似て、風に似て、それが洪水を起こしている。喪失感に耐えかねた俺にできることはない。蛇口が壊れているのか、堰き止めるべき蓋を喪失してしまったのか、俺の胸からあふれるそれは、轟音を伴って消失していく。

 消えていく。消えていく。消えていくのだ。「これ」は俺にとって恐らく大切なものだ。なにせこんなにも、「それ」が心を撫でるたびに心地いい。それが喪失する。止めてしまいたい。大切にとっておきたい。いつか、きっとどこかでもっと「これ」が必要になる機会があるはずだ。その時の為に温存したいと思う。思うのに、それを止める術を知らない俺はそれを止められずにただ垂れ流す。いっそ流れるのが涙だけだったならどれだけ良いか。涙など水分と塩分を摂取すれば幾らだって補給が利くものであるはずだ。しかし「これ」は、どうやってまた溜め込めばいいのかわからない。「これ」が何なのかだって、どこから湧いてくるものなのかだって俺にはわからないのだ。それが、タガが外れたようにして揮発していく。消失する。きっとこれは、大切なものなのに、どうしたって止めることが出来ない。身体が熱を放出する。それに伴って体温が立ち消える。それによって身体が喪失感を覚える。空っぽになった四肢に、次第に何かが満ちる。その何かとは、恐らくは虚無であった。その虚無は、――しかし心地が良い。

「ああ! ぁああああああああああッ!」

 空っぽの身体は軽く、粗熱が全く取り払われていて、そして少しだけ温かく感じる。

「――――っ!」

 気付くと、



 ――そこがこの世界の、最も高い場所であった。



 雨がコンクリートを打つ。

 それが視界のすぐ先で、なだらかな下り坂を描いている。俺の左手すぐに広がる奈落の闇の先に、俺は視線を放り投げる。その先には、何も見えず、なにやら世界が続いているらしい感覚だけがある。俺の頭上の白色灯が、傘越しの俺を照らしていた。

 俺は、


「……、……」


 そこに立って、傘を下ろした。

 この世界の天辺で俺よりも背の高いものがあるというのが、なんとなく気に食わなかったためである。



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