三章・馬鹿と煙
三章・馬鹿と煙
母の葬儀でのことは、よく覚えていない。
父とも妹とも顔を合わせるのが嫌で、葬儀までの待ち時間の間、俺は一人で葬儀会場の外に逃げていたように記憶している。
その時間については、
しかし、なぜだか鮮明に覚えていた。
――……、……。
それは、よく晴れた日であった。
だからだろう。広い空を眺めている間、涙を流すべき俺の瞼は一向に乾いたままであった。
「……、……」
コンビニの強い光に、俺は目を焼かれるような感覚を覚えた。
外の曇天は全く日差しを遮ったものであって、その間に俺の瞳孔は、すっかりと暗さに慣れてしまったらしい。疼痛を訴える眼球の奥に、俺は瞼を引き絞ってしばらく耐えた。
そうして痛みが引いてきて、ふと俺が振り返ってみると、ガラスの向こうの景色はいっそう暗澹として見える。濃度の強い雲の群れが、重々し気に風に震えている。
曰く、すぐにあの雲は決壊するらしい。
今夜はどうやら、雨であるようだ。
コンビニで見繕った傘を小脇に抱えて、俺は一人、長い一本道を歩いていた。
道路の両脇には、背の低い家屋の群れが並ぶ。それがこの長い路の向こうまで、ずっと続いていた。
また、そんな道には、やはりというべきか人がいない。ただでさえ翌日に平日を控えた日和である。わざわざ雨予報の最中を往く変人などは、どうやらこの街では俺一人であるらしい。
「……、……」
目指すはこの道の先、あの橋のふもとである。
佳城の案内で連れてこられたこの通りは、聞く限りではそのままほとんど直通で、海につながっているらしい。
多少道に迷っても、この通りならふもとにつくまであの橋が見えているから迷うこともない。とは佳城の言である。確かに、この一本道は決して視界が通るとは言えないが、それでもコンクリート舗装の先には何やら橋のアーチが見える。実際、面倒な道のりにはならなそうな気がした。
「……、……」
ちなみに、そんな佳城とはしばらく前に分かれていた。何やら、雨に降られてまで見に行くほど私は興味がない。みたいなことを言っていただろうか。正直に言えば俺だって雨に降られたくはないのだが……、
「……。」
しかし、急いで帰る用事があるわけでもないのであった。本当に雨が降り出して来たら、帰るかどうかはその時に決めればいい。ひとまずはこの低気圧の最中、グダグダと歩く行程をもう少しの間だけ楽しんでいたい。
それに、視界の果てに陽炎のごとく在るあの橋の異様は、まだしばらくは眺めていても飽きる気がしなかった。
……果たして、改めて見ても巨大の一言に尽きる橋であった。遥か彼方に見えるそのシルエットはあまりにも遠すぎて、殆ど彼我の距離感を掴めない。
また、背後に広がるのは一面の海であって、比較の対象になるような建造物もなく、その実際的なサイズ感を脳裏に描くのは困難極まる。
或いは、いっそチープにさえ見える在りようであった。彼方では海と海をつなぐその橋は、ここではひしめき並ぶ家屋の群れの右から左までを空中で渡しているに過ぎない。風景だけを切り抜けば、その高度は家屋一つの二階部分までで収まっている。
しかしその実、あの橋の上はこの街で最も高い場所に当たるという。
眺めれば眺めるだけ、その矛盾した感覚に、俺の判然としない思考が押し流されていく。
ただ、
「……、……」
……もう少しだけ眺めていれば、俺は彼方までの彼我の距離感を正確に測れそうな気がした。
と。そんな錯覚を携えて、俺は更に灰色の道中を機械的に歩き続ける。
全く無味乾燥たる道のりにおいて、俺の鼻は既に潮風に慣れてしまって、俺のうなじは雨の気配に滲んでいる。抽象的な感覚だが、外界と俺の輪郭が無くなって久しく思う。
外に刺激を求められないから、俺の思考は景色の見聞に見切りをつけて、更に内向、その深くへと沈殿していく。
そのトピックスは、概ね俺が佳城に相談したことについてであった。
「……、……」
――俺はもともと、高校生活を客観者として過ごすつもりでいたのであった。
その理由は明確にある。俺は、誰かを変えることに忌避感を覚える質だった。
なにせ、責任を持てない。変わってしまった誰かに、変わらないままであったならば手に入れられたかもしれない何かの代わりを用意はできない。
仮に俺が変えてしまった誰かがいて、その人物が、「自分は変わった方がよかったのだ」などと言ってくれたとしても、俺はそのように思えないだろう。そこに実際的な経験はない。俺にあるのは、誰かを変えられるという肥大化したエゴじみた自信だけだ。
複数年をただ一人で生きていくうち、俺の自我はまさしく怠惰をむさぼり続けた。敵のいない狭い世界で俺はただ一人「唯一勢力」たる自分自身への自己肯定を果てなく続け、また「仮想敵」をこき下ろし、そしてその果て「最強」に陥った。
それを否定することはできない。
なにせ自信とは、先人に言わせれば「無根拠でも在るに越したことがないもの」であるからして。俺は果てしなく自分を好きになり続けた。さてと、
そのような俺に待っていたのは、実際的な成功であった。
というのも俺はある日、ふと思ったのである。つまり、――実績がない人間の言葉に価値はない、と。
ゆえに俺は、尊大なる自信を以って「思いつくこと全て」に手を出した。そしてその全てにおいて成功を収めた。今にして思えばあの「思いつく全て」には、多大なる「妥当性」のバイアスが掛かっていたという自覚がある。俺にできないことであれば、それは人類においても不可能なタスクだと、そう確信していた。ゆえに俺は「俺のスキルでなら成功するであろうすべてのこと」において成功を収めた。
そして、
――ある日、それにも飽きた。
「……。」
それをきっかけに俺は、もっと前に進むことに決めた。
放棄していた受験勉強に手を出して、その浪人一年目には全く妥当たる「失敗」を収めた。
当然である。俺の敵は俺だけであった。ゆえに俺は、俺以外に勝つ術には全く長けていなかったわけだ。
そして、俺は空虚となった。
元来、進学の必要性を感じていなかったがために受験を放棄した俺は、「超えるべきかもわからないし超えられもしない壁」を前に停滞した。
そして、しばらく経った。
今年俺があの高校に拾ってもらえる程度に成長できたのは、ひとえに「他にやることがなかったから」に他ならない。
……忘れていたはずの潮風を感じて、俺は前を見る。
そこには、ほとんど川とも区別のつかない水辺の景色が広がっていた。
「……、……」
進行方向が途切れる。その対岸には更に住宅群が続いていた。右手に見えたのは、長く続くコンクリートの灰色である。
俺は岸を渡す橋か何かを探し、見えるままに灰色の歩道を進んでいった。
悠久たる「暇」に俺が得たのは「貪欲さ」であった。
何にせよ、楽しもうと思えば楽しめる。自分が設定した「ぬるま湯の目標」に比べてなおつまらないものなどは存在しなかった。ゆえに俺は貪欲に受験に臨み、そしてあの高校に拾われた。
否、そこにもまだ「ぬるま湯の目標」と呼ぶべき設定はあったようにも感じている。尊大なるエゴを抱えた俺は、そんな有様であったためにそのエゴを傷付け得るような「最高値」を目標に掲げようとはしなかった。あの目標は、俺が妥当に頑張れば恐らくは大丈夫であろう位置に座すものであった。
つまりは受験という、「他人や社会が俺に課した課題」に対し、「自分なりの及第点」を見積もってそこを目指した。それが俺の有様の率直なところに違いない。
ただ、そこは否定するつもりがない。
誰にしたって、限界は自分で決めているはずだろう。
……川に沿って続くコンクリートが途切れる。俺はそこで、小さな川橋を見つけた。
そちらへ上って、その先に歩く。すぐに見えたトンネルに、俺はゆっくりと這入り込んだ。
俺の相談は全く別の部分にある。俺は、エゴの塊であると同時に、自己嫌悪の塊でもあった。
自分は凄い。そう思っている。
でもそれを証明する実績が、俺にはない。
常に手ずから目標設定を行ってきた俺には、「切実に課題をクリアした」という確信を得る機会がなかったのである。
俺は、自らに課した目標が本当に限界を試すものであったのだという確信がなかった。
或いはいっそ「きっと俺はまた妥当な目標値を設定したに違いない」という、冷めきった観念だけが胸に渦巻いていた。
……トンネルが、やがて切れる。
その先の景色は「夜」であって、
更に、何やら雨が降り出していた。
そのまま俺は、人前に出てしまった。
唐突に比較対象が現れた俺にとって、彼らは余りにも美しかった。
否、俺が醜かっただけに違いない。
ゆえに、俺のような人間が、誰かに影響を及ぼしていいはずがないのである。
……トンネルを抜けると、
途端に、目指す「橋」のシルエットが精彩を得た。
俺は、その足元を目指した。
俺が誰かに何かを残してしまったら、きっとそれが傷となり膿んでいき腐り落ちる。
他方、どうだ。一人でいればそのようなことはない。俺は俺を否定する必要性にかられないし、彼らの方にだって最低限年長者への敬いはあるように見えた。俺と彼らに最も妥当な距離感とは、或いは明確な一線を引いた「対岸同士」に違いない。
そもそも、よくよく考えても見れば接触する必要性が皆無なのである。
俺は、これまでにだってそれなりに幸せだった。憧れるものがなかったわけじゃないけれど、でも不幸せなぞ感じはしなかった。
出会えない経験がある人生なんてザラだろう。例えばスカイダイビングに憧れたまま死ぬ人生だって、或いは希少な絵画をついぞ見られず終わった人生だってザラにあるはずだ。俺のケースもその一つだ。これは、単純な四則演算である。
つまり、得られるかもしれないものに比べて、確実に失うものの方が明確に過ぎる。
臆病だと笑うがいいとも。これは俺の人生における最善手である。
……唐突に、道路が広くなった。
雨に遮られその向こうが滲む。
ぼやけたシルエットをした橋の、俺はふもとにたどり着いた。
――わかっているとも。
そんなのは、つまらない人生だ。
「……、……」
俺は、景色を見回す。
その「橋」は広く、そして長い。また、湾を渡すという役割の為に、その橋はどうやら海岸線と殆ど平行に伸びているらしい。橋の、俺の歩く左側の歩道は街のある側に面していて、他方の右側通路は海にせり出すようになっている。
ゆえに俺は、橋を一度降りることにした。
幾度と無く見てきた街の景色の頭頂部などに俺は興味がなく、俺は強く、宵闇の最中で雨が墜ちる海に興味を覚えた。
そうして橋のたもとに再び立って、改めて、俺はその景観を視界に収める。
「……。」
本当に、道路が広い。
端から端まで、横断歩道の青信号一回分で渡り切れるのか不安なほどである。
また、俺が立つ街側の左車線から向こうを見ると、右車線の向こうには港が広がり、そしてどうやらその先には海があった。あの港は、恐らくは過日佳城に案内されて訪れたものであったが、雨足に遮られて望むその姿は妙に記憶と合致しない。……否、記憶と照らし合わせられるほどの情報量が視界にないと言った方が妥当であろう。
「……、……」
それは、――強い雨であった。
雨の雫はただ落ちるにとどまらず、足元のコンクリートをしたたかに打ち据える。その破裂音が何万と重なって、俺の耳に届くころには全く間断のない大音量の鳴りっぱなしとも変わらない。
重く大きい雨粒が、俺の傘を強かに打つ。
足元で跳ねた雨粒が、俺の靴をぐしょぐしょに濡らす。
しかし気付けば、――俺の耳も、体温も、全くそれらに慣れてしまっていた。
「……。」
信号を待ち、対岸に渡る。雨に乱された潮の香りが、それでも数十メートル分近くに感じられた。海は見えないが、しかしきっと、俺はその目前に来ていた。
横断歩道はまっすぐに、雨に滲んだ街灯のふもとへと続いている。俺はそちらへと、とぼとぼと歩く。濡れた靴の重みを引きづるようにして、俺の歩調は緩慢であった。
ただし、本当に重さに引きずったわけではない。
このような速度が、俺にはちょうど良かっただけだ。
「……、……」
そうして、
改めて橋のふもとにたどり着いて見上げてみたその果ては、全く見通せないほどに遠く感じた。
ひとまず、俺は歩くことにする。
人通りはなく、また車もほとんど通らない。俺の左方には絶え間なく雨粒が着弾し、また右方には、恐らくは海が広がっていた。
……恐らく、というのは、なにせその景色が全く見通せないためであった。明かりの一つでもあれば、或いはそこを起点にある程度の距離感でも見出すことが出来たのだろうか。今日にいたってはそれもなく、俺の右方に果てまで広がるのは雨粒に滲んで灰色がかった宵闇だけであった。
――風が一つ、つうと吹く。
それに、俺の体温が表層分だけさらわれて、俺は再び思考に捉われた。
「……。」
なにせ、唐突に気になってしまったのである。
つまりは、今日の佳城の独白について。
「……」
アレは、恐らくは彼女らしくない言動であったはずだ。彼女はいっそまくしたてるような文法で以って、あのような感情を吐露した。
殆ど狂気的なまでに。或いはもはや、彼女の在り方は呪いにさえ近いかもしれない。断片を彼女から聞いただけでも、「最善手が確定した」人生など死んだも同然である。なにせ、確定とは停止だ。停止とは死である。或いは人は、幸せになった瞬間に死ぬべきなのかもしれない。それだけの本気度を以って、彼女は俺に心情を発露していた。
そのうえで彼女は、「俺を」何やら評価してくれていたらしい。
「……。」
――自分を許していないのだろう、と彼女は言った。
俺にその自覚はない。俺は自己評価が過剰に高く、また過剰に低いだけであって、自分を許す許さないの話などには縁がない。
或いはそれは、
……使っている言葉が違うだけで、言い換えれば俺は自分を許していないのだろうか。
「……。」
もし佳城の言葉が仮に、俺の目標設定が「全く無理の必要がないもの」であることについて、「それ」を自覚だけはしているからこそ自己嫌悪に塗れた、という俺の在りようを指摘したものであったなら、その高評価を俺はどう受け取るべきであろうか。
甘い世界に生きているという強い自覚がある。しかしなら、どうやってそれに対処すればいい? 俺は別に、意識的に「可能そうな目標を設定しよう」と思っていたわけではないのだ。
自分が目指そうと思った何かに、別の自分が「もっと無理をできるんじゃないか?」とイチャモンをつけるというだけである。いっそ全てかなぐり捨てて最難関の何かを設定してしまえばいいのは分かってる。だけれど、俺はそんな無益なことはしたくない。
なにせ、それはできないと理解しているために。
自暴自棄と、自分の限界を超えようとする感情の違いくらい、俺だって理解している。
「……、……」
彼女は、
俺に何を求めているのだろうか。
「……。」
曰く、何もかもを許せると言った彼女は、
故に幸せになった彼女は、俺に何を見出したのだろう。人を許すための方程式にたどり着き、その果てにストレスの憶え方を忘れた彼女は、俺のことを「自分を許せない人間だ」と見た。
ストレスを忘れた彼女は、「自分を許さないというストレス」に満ち満ちた俺に何を見出した?
彼女は、
「……、……」
――きっと、俺に傷ついて欲しかったのだ。
「――――。」
傷を得ない術を完成させた彼女は、そこに自身の停滞を見出した。
そこで出会ったのが、肥大化したエゴと自己否定を共に限界まで溜め込んだ俺という人間であった。彼女が強いて取り除いた感情を一身に受け続ける俺という人間に、彼女は出会った。
或いは、彼女は期待していたのかもしれない。
つまりは、彼女が諦めてしまった。「自分を許さなかった自分」という可能性の末路を。
それは、全く、
「…………はぁ」
――光栄なことであった。
「……。」
なにせそれは、俺の苦悩が少なくとも彼女にとっては「本物」に見えたという証左である。俺の持つ、「俺自身の葛藤が果たして真か偽か」という苦悩はどうやら、彼女には紛れもない「本物」に見えたということであった。
ならばいい。
それでいい。
少なくとも俺が悩むべきことが間違っていないなら、もうしばらくは悩んだままでもいい。
俺は、
「……、……」
もう少しだけ、少なくともこの橋の天辺に至るまでは、このまま悩んでいることにした。




